《2》神様との出会い
「お疲れ様でしたー!」
「お疲れ様ー! みんな、明日もよろしくね~!」
賑わしく交わされるやり取りを耳にして、今日の仕事が終わったのだという実感がようやく湧く。
腕時計をちらりと見やると、すでに時刻は午後十時を回っていた。事務所内ではまだ仕事があって帰れないのだろう社員さんたちが、日誌を書いたりドリンク類の在庫管理の伝票とにらめっこしたり、皆忙しそうにしている。
タイムカードを押し、更衣室で着替え、バイト仲間に挨拶し、従業員用の出入り口を通る。
……そういえば、初めて出勤した日もこんなふうに忙しい日だった。
駐輪場に停めた自転車にまたがりながら、私はふとそんなことを思い出していた。
*
***
*
「えーと……あ、そこのアナタ!」
「! は、はい!」
「チョコフォンの機械、パーツが何個か見当たらないから探しといてくれる? ……あ、伝票ですねすみません今行きますー! ゴメン、後はよろしくね!!」
「あ……え……?」
慌しい状況を前に、どうしたらいいのかなんてこれっぽっちも分からない。
ただ、社員らしき人物から急に仕事を課されたということだけは理解できていた。
ちょこ、ふぉん? それは一体なんだ。
なにに使うもので、どんな形のもので、普段はどこにあって、どこにある可能性が高いのでしょうか。そして探して見つけたら、どこに持って行けばいいのですか。大きいの、小さいの? 道具なの、機械なの? まったくもって見当がつかない。
指示するだけしてその場を去った女性の社員さんは、茫然と立ち尽くす私などもう見えていないかのごとく慌しく駆け回っている。他のスタッフに声をかけようにも、皆一様に忙しそうにしていて、大変話しかけにくかった。
……どうしよう。いや、どうもこうもない。誰かに訊いて、なんとか用意しなければ。
「すみません。あの、〝ちょこふぉん〟のパーツを探すように言われたんですが……」
「ゴメン、他の人に聞いて!」
話しかける人話しかける人、軒並み私の問いには答えてくれない。
いつもならナントカ室にあるよ、と説明してくれた人もいたけれど、結局その〝ナントカ室〟がどこにあるのか、新人の私には分からない。応じてくれた人たちも、一度私の質問に答えると、すぐにまた自分の仕事に戻ってしまう。
なに、この冷遇。初日からこれってどうなの。
異常なまでの孤立感に、つい泣きそうになる。
いや、こんなところで泣いている場合ではない。なんとかしなければ。
止まりそうになる足を無理やり動かしたそのとき、特別忙しそうにはしていない、バンケットスタッフの制服姿ではないスタッフさんが視界に入った。
着ているのはスーツらしい。ジャケットは着ておらず、長袖のワイシャツの袖を緩くまくっている。髪はきちんとまとめられていて、ごく普通のサラリーマンみたいに見えた。
何人かのスタッフさんに話しかけられてはにこやかに対応している彼の姿は、精神的に滅入りかけた私の目にひどく眩しく映った。殺伐とした雰囲気の中、その人の周りだけ穏やかな時間が流れている。
業者さんかな、くらいの想像は今でこそできるようになったが、当時の私はそんなことに思い至れるわけなんてなかった。
引き寄せられるように、その人の元まで重い足を動かす。他の誰かと話していない隙をここぞと狙い、私は縋る思いで声をかけた。
「あの、すみません……」
「……ん、俺? わっ、どうしたの泣きそうな顔して!」
「すみません……〝ちょこふぉん〟のパーツ、というのを探しているんですが……」
「ああ、チョコフォン? って明らかに発音が不明瞭だけど、もしかして新人さん?」
「っ、はい。今日から入った者です」
それだよ。
そういう対応、待ってたんだよ。
自分の言葉が通じて、それが正しく受け入れられている。胸を満たしていく安堵感に思わず涙が滲みそうになり、私は慌ててそれを堪えた。
すると突然、目の前の爽やかスーツさんが重い息をついた。
「ったく誰だよ、新人にいきなりそんな指示出したの。あ、その……ごめんね、普段はここまでバタついてないんだけど。頼むから〝こんなバイト嫌だ辞める〟とか言い出さないで……」
「は、はい。大丈夫です」
先刻の溜息が自分に向けられたものかと思い、一瞬ヒヤリとした。
けれど続く言葉から考えるに、どうやらそういうわけではなさそうだ。ほっと胸を撫で下ろす。
「よし、一緒に探そうか。指示したのって誰? 名前は分かる?」
「ええと……あっ、今あそこでハンコを押している方です」
「ああ、なるほど……今日も派手にテンパってるわけね。了解、じゃあ探しに行こう。もしかしたら他の階にあるかもしれないから、おいで」
「は、はい!」
……誰ひとりとして私の問いかけに正面から向き合ってくれない状況で、その爽やかスーツさんがどれだけ神様めいて見えたことか。もはや後光が差していた。
ほどなくして、〝ちょこふぉん〟の器材が見つかった。別階にあった。
実物を目の前にしてようやく、そうか、チョコレートファウンテンの機械のことだったのかと納得した。以前友達と行ったバイキングレストランで見た、液状のチョコレートが滝みたいに流れ出るアレだった。〝ちょこふぉん〟という名称は、どうやら〝チョコレートフォンデュ〟から来ているらしい。
パーツと言われたのですが、と爽やかスーツさんに伝えると、彼はうーんと唸りながらも、「どのパーツのことか分からないから一式持ってっちゃおう」と言った。重そうなそれを私に押しつけるでもなく、彼はそれを軽々と抱え上げ、にっこりと微笑んだ。
拝みたくなるくらいに完璧な神様だ。彼に続き、私は無事に元のフロアに戻ったのだった。
「ホラ
「あっ、ありがと
「らしいッス。けど最後まではいないよ、十時過ぎから打ち合わせあるから格好もこのままだし」
「格好なんか正直どうでもいいわーめっちゃ助かる! よーしみんな、今度は引出物つけるよー!」
私に最初に指示を出した女の人は〝ニイザキさん〟、そして爽やかスーツの神様は〝ツヅキさん〟とおっしゃるようだ。
多分、都築さんがいなかったら私は早々にバイトを辞めていた。どれほど時給が高いバイトだろうと、序盤で感じた冷遇っぷりというか、取り残された感によるダメージは尋常ではなかった。
気がつくと、新崎さんと話していた都築さんは足早に会場内に向かっていた。
まだお礼も言ってない。焦った私は、まだ混乱の残る頭で目標の人物に頭を下げた。
「あ、あのっ! さっきは本当にありがとうございました!」
「ん? ああ、いいのいいの。指示がちゃんと出なかったら、社員がどれだけ忙しそうにしてても無理やり声かけていいからね」
「は、はい……!」
にっこり微笑んだ神様は、手を振りながら会場内に入っていってしまった。
その笑顔が、初めての仕事というものに対して抱えていた私の不安や焦燥、その手のものの大部分を取り払ってくれたみたいに思えた。
神様って、実在するんだな。
都築さんの後ろ姿を見送りつつ、その場に残った私はぼんやりとそんなことを考えていた。
*
その後は、スタッフが会場内から下げてきた食器やグラスを片づける裏方の仕事を任された。
私の心をベッキリ折りかけた〝ちょこふぉん事件〟の犯人・新崎さんは、裏方の仕事中、『ごめんね、今日からの新人さんだったんだね』と丁寧に謝ってくれた。それすら判別がつかないくらいに目を回していたらしい。
『本当なら半日程度の研修を受けてから業務にあたってもらうんだけど、今日はものすごく忙しくてね。研修を組んでる余裕が全然なくて、それですぐに業務に就いてもらうことになったんだ』
忙しさの波が過ぎ去った頃、新崎さんはそう説明してくれた。
明日の午前中に改めてちゃんと研修するからね、と笑顔で告げられ、ああ、どうやら辞めずに済みそうだと心底ほっとした。
パーティーが始まって以降、忙しく会場内とパントリーを行き来するスタッフたちの中に、さっきの〝都築さん〟がいるかどうか気になった。隙さえあれば出入り口を眺めていたものの、結局、その日もう一度彼の姿を見ることはなかった。
てきぱきと無駄のない動きでサービスを行っているのは、大半が私と同じアルバイトなのだと新崎さんに聞かされた。驚くと同時に、なんだか皆、自分とは違う世界の人みたいに感じられてしまった。
……とはいえ、私が彼らと同じ仕事を任されるようになるまで、それから一ヶ月かからなかったのだけれど。
*
***
*
仕事上がりに、いるかな、と思って事務所の奥側を覗き込む。
でもすぐに、そんなに運良く見つかるわけがないだろうと微かな自嘲が浮かんだ。
都築さんが、バンケットの社員ではなくウエディングプランナーなのだと知ったのは、初出勤の翌日――研修の時間を設けてもらった日のことだった。
元々、バンケットに所属していたという。だからあんなに現場の事情に精通していたのかと納得した。半年ほど前に部署異動があり、その際にプランナーになったと聞いた。無論、本人からではなく人づてに。
あれから一年が経過した今、彼が現場のヘルプに現れることは滅多にない。彼が駆り出されてくるのは、基本的にものすごく忙しい日に限られる上、他の階の会場に引っ張られていることも多々あるそうだ。
もちろん、彼自身が担当している挙式や披露宴があれば、その日に彼が手伝いに訪れることはない。この一年で私が都築さんの顔を見かけたのは、実際には数える程度しかなかった。
いいんだ。バイト上がりの目の保養にって思っただけだから。
最初から期待なんてしていないから、別に。
バイトを始めて一年が経って、仕事にも随分慣れた。それでも、彼が私にとっての神様であることに変わりはない。
自分が社会人になって、後輩や部下を持つ身になる日が来るのなら、ああいう対応ができる人になりたいと思う。それは憧れであり尊敬であり、そういう気持ちを、私は今も彼に抱き続けている。
恨みがましい内心を振りきるように、自転車を漕ぎ出す。
自転車にまたがると、ふくらはぎが鈍く痛んだ。今日もパンパンにむくんでいるだろうが、疲れて確認する気にもなれない。
溜息が出そうになるところを堪え、私は早々に自宅アパートを目指した。
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