第2章 悪意と、非日常と

《1》なにが分かる

 いけない。

 こんな引きつった顔で、今日一日を過ごすわけにはいかない。


 笑顔、笑顔……笑顔だ。どうにかして、無理やりにでも笑顔を作らなければ。

 死に物狂いでそう思っても、まともな笑顔など絶対に浮かべられないことは分かりきっていた。


 こんなことくらいで。自分の精神力の脆さに、うんざりする。


 今日の担当会場は四階だ。エレベーターを使ったら怒られるだろうか。けれど、これほど長い階段を、今の私に登りきれるのか。自信はなかった。駆け慣れた従業員用の階段の先が、恐ろしいくらい長い道のりに思える。

 このまま踊り場にうずくまって泣きたくなった自分に、心底嫌気が差した。



     *



 事の始まりは、今朝。

 珍しく遅刻しそうになり、駐輪場に自転車を半ば乗り捨てるようにして置き、ロッカールームに駆け込もうとしたまさにそのときだった。


 扉の中から聞こえてきたのは、複数の女性の声だ。

 会話に含まれていた私の名前に、ドアノブに伸びた指がひたりと動きを止めた。


「……ねぇ、なんなのあの人? アタシらと同じバイトなんじゃないの? 昨日なんて私、ドリンクの出し方がどうとか注意されたんだけど」

「ああ、いつもだよ。結構長いからだと思うけど、あの子社員にも結構気に入られててさ。ほとんど毎回出勤してるし、相当暇なんじゃないの」

「まじで? うっわ真面目ー、ちょっと引くレベル。土日とかなにも予定ないのかな? 寂しくね? それ」

「あはは。気に入られて自分も社員気取りなんじゃないの」

「そういうのムカつくよね。大して可愛くもない癖にデカい顔しちゃってさ」

「ねー、超地味だよね。っていうかあのダサい眼鏡でよく人前に出ようと思えるわ」

「あはは! アタシもそれ思ってた、ウケるー」


 目の前がぐにゃりと歪む。回る視界に、堪らず口元を片手で覆った。

 なんだこれ。この人たちは、なにを。瞼の裏が真っ黒に塗り潰され、心が深い暗闇の底に沈んでいく。


 扉の方向へ近づいてきた気配と声に、麻痺した心よりも先に身体が反応した。


 ガチャリと扉が開く寸前、私はすぐ近くの倉庫の扉を開け、その中に身を隠した。喋りながら事務所内へ向かっていく三つの人影が、前の廊下を通過していくのをじっと待つ。

 心臓が嫌な音を立てて軋んだ。息苦しさを感じると同時に、視界がぐるぐると回り出し、さっきよりも強い吐き気を覚える。


 そのまま、倉庫に積み上げられた段ボール箱の山にもたれかかった。


 駄目だ、ちゃんと着替えないと。早く支度しないと。

 霞む視界の中、やっとのことで腕時計に視線を向ければ、出勤時間の九時まであと五分もなかった。いつも十分前には出勤してきているから、私がいないことに気づいた社員ももしかしたらいるかもしれない。


 ――急がなきゃ。


 自分を叱咤し、倉庫から抜け出す。

 鉛のように重い両足では、隣のロッカールームまでさえ容易には辿り着けなかった。



     *



「遅いよ、海老原さ……」


 咎めるように話しかけてきた新崎さんは、私の顔を見るなり血相を変えた。


「ちょっと大丈夫? 海老原さん、顔真っ青だよ?」


 パントリーには新崎さんの姿しか見えない。今日は式場全体で披露宴が一件しかないからか、昨日みたいな煩雑さはなく、パントリーは至って静かだ。

 焦りがちな彼女も、今日は比較的落ち着いているらしい。時計を見ると、時刻はすでに勤務開始の九時を十分ほど過ぎている。


 新崎さんは、バンケットでは最も歴の長い女性社員だと聞いている。元々はサービスから裏方までなんでもバリバリこなしていたところ、二年前に腰痛を悪化させてしまい、それ以降は事務の仕事を中心に任されているそうだ。ここ二年ほどは、週末のみ現場の裏方業務を担っているとのことだった。

 長年、現場でスタッフと信頼関係を築いてきた彼女が、いつもと明らかに違う私の様子に気づかないわけはなかった。


「あ……はい。遅れてすみません、連絡も入れないままで」

「っ、具合悪いの? 休まなくて大丈夫?」

「大丈夫です。その、遅刻してしまって……申し訳ありません」


 深々と頭を下げた私に、新崎さんは眉根を寄せる。

 そして、「いいよ、オマケしてあげる」と少しだけ口角を上げた。


「昨日は帰り、相当遅くなっちゃったもんね。けどホントにめちゃくちゃ顔色悪いよ? 具合が悪くなったらすぐ言ってね、今日は人員にも余裕があるから」

「はい、ありがとうございます」


 口角を上げて笑ったつもりが、どうやら失敗に終わったらしかった。

 今日、海老原さんには別の仕事を任せるね。目を見開いた新崎さんはわずかに首を傾げつつそう口にし、困ったように微笑んだのだった。



     *



 ……最悪。私、今日、なんのために出勤したの。

 新崎さんに指示されたのは、明らかに負担の少ない裏方の仕事のみ。しかも、どれも私がいてもいなくても変わらないだろう仕事ばかりだった。


『これも仕事だからね』


 社員である彼女にそう言われれば、いくら不本意でも頷くしかない。

 けれどこんなふうに新崎さんにも他の人にも気を遣わせてしまうくらいなら、いっそ最初から体調が悪いからと早退したほうが遥かにましだった。


 休憩時間は、他のバイト仲間とは大幅にずれた。私が休憩室の扉を開いたとき、壁にかかった大きな時計は午後二時半を示していた。

 休憩室のソファに、ひとりでぽつんと腰かける。食事を取る気にはなれず、靴を脱いで膝を抱え込むように三角座りの姿勢を取った。そうやって、休憩室の隅に並んだ三台の自動販売機の、弱って点滅を繰り返すライトをぼうっと見つめていた。


 姿は見えなかった。

 が、話の内容や声色から、先ほどロッカールームで話をしていた人物たちの見当はついた。


『昨日なんて私、ドリンクの出し方がどうとか注意されたんだけど』


 注意、なんてふうに受け取られていたのか。

 こうしたほうが効率がいいよと、良かれと思って助言しただけなのに。


『土日とかなにも予定ないのかな?』

『寂しくね?』


 仕方ないじゃないか、働かなければ暮らしていけないんだから。

 稼いだお金だって、遊ぶために使ったことなんか一度もない。


『気に入られて自分も社員気取りなんじゃないの』


 私だって、最初は誰にも、名前さえ覚えてもらえなかった。

 一年経ってようやく、慣れてきたねと声をかけられることが増えて、それだけだ。


 けれど、それよりもなによりも、私の心を深く抉った言葉は。


『大して可愛くもない癖にデカい顔しちゃってさ』

『あのダサい眼鏡でよく人前に出ようと思えるわ』


「……うるさい……」


 知っている。どうせ、可愛くなんて、ない。

 自分の外見のためにかけられるお金など、最初からない。だいたい、大学には勉強しに行っているわけで、それ以外のことへの関心はそもそも薄いのだ。


 眼鏡がダサくて悪かったな。

 買い換えたいと思っていないわけじゃない。ただ、率先してそれにお金を使いたいとは思えないだけだ。


 あんたたちに、私のなにが分かるっていうの。


 ついに、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 心ない言葉から少しでも身を守りたいがために、ソファの上でぎゅっと抱えた膝。そこに零れ落ちる水滴は、私の意思とは無関係に次第に量を増やしていく。


 慌てて眼鏡を外した。今日は急いで出てきたから、眼鏡ケースも眼鏡拭きも自宅に忘れてきてしまった。下手に汚れては困る。

 徐々に嗚咽が深まっていく。こんな時間に休憩室に現れる人はいないだろうと高を括った私は、その場でひとり、ひたすら泣き続けた。


 悔しい。でも、本人たちを前にして、今思ったことを言い返せるほどの度胸は私にはない。

 だから逃げる。心の中で言い返して、それを涙に変換して、気が済むまで泣く。できるのはそれだけ。


 うんざりだ。

 私は、こんなにも弱い人間だったのか。


「……ふぅ……」


 少しずつ、呼吸が落ち着いてくる。

 いい加減泣きやまないと、目が腫れてしまう。そう思ってポケットからハンカチを取り出した、そのときだった。


 不意に、ドアがガチャリと開いた。

 反射的に身を強張らせた私は、弾かれたようにしてそちらを振り返って、そして。


「え……海老原さん?」


 ……今日はどこまで運が悪いのか。

 よりによって、このタイミングでこの人が現れるなんて。


 参りきっていても、平静を保ちたいという気持ちは働くらしかった。

 ソファのひじかけに置いておいた眼鏡に指を伸ばし、私は必死になんでもない態度を装いながら声を絞り出す。


「お疲れ、さまです。都築さん」


 声は自分でも驚くほど掠れ、震えていた。

 突如その場に現れた都築さんは、微かに目を見開いて私を見つめていた。

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