第2話 里香子

 里香子りかこは、結婚記念日に夫に贈られたアンティークの鏡が憎い。

 葡萄ぶどうのつるの額縁が目を引く逸品だが、この鏡を新居に置いてから、おかしなことばかり起こるようになった。


 照明がつかなくなり、電化製品は壊れ、食器が割れる。どこからともなく腐敗臭が漂う。

 生き物など飼っていないのに、獣のうなり声が聞こえる。

 家中の水道の蛇口から水が漏れる。修理したり買い換えても、すぐにだめになる。まったくらちが明かない。


 異変を訴え続けているのだが、夫はまともに話を取り合わない。そればかりか、長期出張を言い訳にして帰ってこなくなった。

 ──本当に出張に出ているのか……よそに女がいるのではないのか。

 疑惑と不安が暴走し、里香子の精神を蝕む。


 こんなはずではなかった。幸せな結婚生活を送るはずだったのに。里香子は短くなった爪を噛む。

 夫の携帯電話に1分ごとに電話をかけた。折り返しの連絡はない。


 鏡の向こう側からが里香子を嘲笑っている。

 鏡面がぐにゃりと歪み、見知らぬ若い女の顔が映る。薄化粧をした、苦労知らずの幼い顔立ち。

 赤茶色の髪の毛はパーマがかけられ、身綺麗にしていた。

 結婚前、仕事をしていた里香子も、鏡のなかの若い女のように身だしなみに気を使っていた。

 それが今では髪の毛は伸び放題、化粧どころか、数日風呂に入らないときもある。

 いつ夫が帰ってくるのか、連絡はまだかと頭がいっぱいになり、日常生活さえままならない。

 几帳面で綺麗好きだった自分はどこにいったのか、どうして夫は帰ってこないのか。里香子はむせび泣く。


 ──なにもかも、この鏡がいけないのだ。


 鏡のなかの若い女は、夫の浮気相手の生き霊なのではないか。

 そうだ。自分を呪い殺そうとしているに違いない。

 鏡越しに里香子は若い女を睨みつける。


 苦しみ抜いた末に、里香子は子どもを授かった。

 帰宅した夫を酒に酔わせ、計画的に孕んだ。

 独りきりでの孤独な出産は辛かったが、我が子は愛おしい。

 夫もいずれ、子どもへの愛情に目覚めるだろう。

 そうすればまた、夫婦生活をやり直せる。


「あんたなんかに、うちのひとは渡さない」


 里香子は鏡のなかの若い女に微笑む。宝物を見せびらかすように、誇らしげに赤ん坊を胸に抱いて。

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