鏡よ、鏡

その子四十路

第1話 聡美

  聡美さとみは、二十歳の誕生日に叔母から贈られたアンティークの鏡が怖い。

 鏡の向こう側からが聡美を呼んでいる、待ち構えているような気がするからだ。


 全身を映す大きな鏡で、額縁は葡萄ぶどうのつるを模した金細工でできている。19世紀後半ヨーロッパの作品だという。

 制作者は不明だが、丁寧な仕事ぶりである。

 幾人もの持ち主を経て、磨かれ、修繕されて、時代を映してきた鏡。


 美しい鏡なのだが……聡美はこの全身鏡を恐れていた。正直なところ、自室に置きたくない。

 独特な存在感を放つ高貴な全身鏡は、ナチュラルテイストの聡美の部屋には不釣り合いだった。


 「鏡が怖い、他の部屋に置いてほしい」と言えば、叔母はそうしただろう。

しかし、聡美は言い出せなかった。

 叔母夫婦は、親のいない聡美を引き取って、我が子同然に愛情を注いで育ててくれた恩人なのだ。

 実母と叔母は姉妹だった。つまり、母方の叔母に、聡美は育てられた。

 実の両親は、多額の借金と赤ん坊の聡美を残して蒸発したという。


 真実を聞かされたとき、「どうして、わたしを置いていったの!」と聡美は深く傷ついたが、哀しみを封印した。

 顔も知らない実の両親を恨むより、育ての両親との生活を優先したのだった。


 いささか過保護ではあるものの、叔母夫婦は聡美を大切にしてくれている。

 おっとりと優しい叔母が、「特別な鏡なの。聡美ちゃんのそばに一生置いてくださいな」と言って渡してきたのだ。どうして拒めようか。


 聡美は怖々と鏡を覗き込む。疲れきった自分の顔が映っていた。やがて、水面が揺らぐように鏡面が歪んだ。

 古い鏡は、像が歪みやすい。しかし、この鏡の異常はそれだけではなかった。

 聡美の顔がぐにゃりと歪んで……見知らぬ女の顔が浮かび上がった。

 憎悪に満ちた凄まじい表情でこちらを睨みつけている。

 聡美は震え上がり、後ずさりする。


 聡美の見間違いや、妄想でなければ、全身鏡のなかに幽霊が棲んでいるようだ。

 なぜ、女は悪鬼のような形相をしているのだろう。黒髪を振り乱し、聞き取れないを囁き続けている。

 鏡の元の持ち主だろうか。はたまた、幻妖の類いか。

 聡美が気に入らないとでも言うのか?


「なんなの、なにが言いたいのよ。わたしだって好きでこの鏡を所持しているわけじゃないのに」


 ──このままでは、鏡のなかの女に自分は呪い殺されるのではないか……

 眠れない日々が続いた。



 数週間が過ぎた。悪影響はないので、聡美は鏡を自室に置いたままにしている。怪奇現象に慣れてしまったのだ。

 鏡を覗く。驚くべき変化があった。女が赤ん坊を抱いていたのだ。

 恐ろしい形相は嘘のように、穏やかな微笑を浮かべて赤ん坊をあやしている。

 この幽霊もかつては生きていた。子どもを慈しむ心をもっていたのだ。


 心の片隅で凍りついていた実の両親への憎しみがふわりと溶けていった。

 なぜ、彼らが失踪したのか、聡美を捨てていったのかはわからない。

 しかし、鏡のなかの女が赤ん坊を可愛がるように、自分にも愛された時間があった。そうであったと信じたい。


 聡美は泣きながら笑っていた。

 初めて、実の両親に逢いたいと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る