第三話「全く自分の世界観だったので」

三日間、彼女はこの街で宿もなく彷徨い続けたが、どうにか生き延びてきた。「腹を空かせた旅人」のふりをして、人々の同情を引き出すことを覚えたからだ。しかし、それは偽りの姿に過ぎなかった。彼女は本当の意味での旅人ではなく、この異質な世界に放り込まれた漂流者だった。生き抜くためには嘘を重ねるしかなく、その物語を語ることだけが、彼女にわずかな善意をもたらしてくれた。街の中をさまよう間、彼女は注意深く周囲を観察し、翼のついた白い制服に青い帽子を被った兵士たちが巡回する様子を目にした。彼らの動きはまるで地を歩くのではなく、空中を漂うかのようであり、その存在感は不気味な威厳を漂わせていた。


不思議なことに、彼らは彼女を特に脅威とは見なしていないようだった。それどころか、彼女を愚かな女とでも思っているのか、その視線には無関心さが漂っていた。この事実は彼女のプライドを傷つけたが、同時に安心感も与えてくれた。少なくとも今のところ、彼女は影のように街の喧騒に紛れ込んでいられるのだ。街の家庭を訪ね歩きながら、彼女はただ施しを求めるだけでなく、この新しい世界を理解するための断片的な情報を集めていた。家々から流れるラジオの音は、まるで静電気のように空気を震わせ、彼女の知る歴史とは異なる世界の現実を告げていた。ある日の午後、低い石垣に腰を下ろし、ラジオから聞こえてくる放送に耳を傾けると、驚くべき事実が語られていた。ナチス・ドイツは歴史が教えるように崩壊しておらず、何と二世紀近くも存続しているというのだ。この異様な時系列が、彼女の抱いていた歴史観を根底から覆した。彼女は常に歴史が直線的に進むものだと信じていた。


暴政は滅び、その廃墟から自由が立ち上がるものだと。しかし、今や彼女の目の前には、その信念を真っ向から否定するディストピアが広がっていたのだ。現実というものは、息苦しいものだ。ここはヤクーチアの首都から遠く離れた街であるが、その風景はどこか捏造された歴史の囁きを纏っている。セドナの胸は高鳴り、新たな情報の重みを理解しようとするほどに、その心拍も乱れていった。動揺を誘ったのは、ただナチスの復活だけではなかった。アメリカ――かつて太平洋を支配していた無敵の大国――が、まるで蜃気楼のように姿を消していたのだ。ラジオから流れた報せは戦慄の一言に尽きる。「アメリカ合衆国は1950年、太平洋から追放され、その空白を埋めたのは中華人民共和国である。今や、広大な海の上に君臨する唯一の覇者だ」と。


大地が揺れるかのような錯覚に襲われ、セドナは身体を支えるようにその場に立ち尽くした。あのアメリカが、何故、いかにしてこうまでして転落したというのか。心の奥底では、その光景が自らが綴った物語そのもののように感じられてならなかった。しかし、それゆえに、その皮肉がひどく胸を刺した。「全ては繋がっているのだ」と、彼女は誰にともなく呟いた。「この現実は、まるで私の小説そのものじゃないか」。だが、そう考えるほどに、不安が押し寄せ、冷静を保つことが難しくなっていく。複雑に織り上げた物語が、今や虚構と現実の境界を曖昧にしつつあった。


「何がどうなっているの?」冷たい空気に言葉が溶け込み、白い吐息がまるで幽霊のように漂う。「いったい、どうしてこんなことになったの?」氷の大地に腰を落とし、両手で霜を握りしめた。


その冷たさは、どこか現実に自分を繋ぎとめてくれるかのようだった。周囲の住民たちは誰もが忙しなく、目的を持って動き回る。しかし、その中で彼女は、あたかも自らの物語の中で迷い込んだ登場人物のように感じられて仕方なかった。物語の中の彼女は、抑圧に抗う希望の灯を掲げていたはずだった。だが、今となっては、それも薄い煙となり、風に消えてゆくような儚いものに思えてくる。彼女の思考は混乱し、頭の中は錯綜する情報で埋め尽くされた。アメリカが太平洋から追い出されたという事実は、彼女の持っていた歴史観への裏切りのように感じられた。合衆国というものは、力強く不屈の象徴として、戦争の廃墟から勝利を手にした国であったはずだ。それなのに、今、目の前にあるのは、そんな栄光が全て粉々に砕かれた現実だった。代わりに現れたのは、新たな専制国家、それが今、海を支配している。まるで、自分が信じてきたものすべてがただの夢幻であったかのように。


セドナは深いため息をつき、かつて思い描いた自由と希望に満ちた世界を思い返そうとした。その世界の残響は彼女の心の中にわずかに残っており、混乱の中でささやかな慰めを与えてくれた。だが、眼前の現実は無慈悲に押し寄せ、その幻想すら打ち砕いていく。「これは夢なの?」震える声で問いかける。「私は、ただ夢の中にいるだけ?」


街の影はまるで黒い幕のように彼女を包み込み、その寒々しさが胸の奥まで染み渡る。住民たちの顔はぼやけ、彼女自身の混乱を映し出す鏡のように思えた。セドナは、自分の作り上げた世界が今まさに崩壊していることを、薄々感じていた。孤独の重みがのしかかり、彼女がこの世界では部外者であることを思い知らされる。ただの観察者でしかない自分を。彼女は震える息を吐きながら石壁にもたれ、冷たい表面に指先を滑らせた。「私が知っていたものは、もうすべて失われてしまったのね」


その呟きには、もはや否定できない現実の重みが込められていた。自らが書いた物語の中に囚われ、結末を変えることもできずにいる。その無力感が、彼女を苛んでいた。この荒涼とした風景の中で、彼女の過去の記憶は現在と絡み合い、混乱と絶望の織物となってゆく。通りを響く兵士たちの足音が、彼女の脆弱さを思い知らせた。権力の噂が囁かれる街角では、反逆の意思など瞬く間に踏み潰されてしまう。しかし、すべてが夢のように感じられるのだった。人間の精神の強さを信じていた彼女であったが、この世界にはもはや希望というものが存在するのかさえ疑わしく思えてきた。セドナ・カルダショヴィナは、カッシサク(Qassisaq)の寒空の下で立ち尽くしていた。この地がかつて「ヴェルホヤンスク」と呼ばれていたことは、彼女も今や知っていた。それはかつてロシアの町であったが、今ではイヌイットの手に渡り、カッシサクという新たな名を与えられていた。それは偶然の出来事などではなく、まさに歴史の必然であった。その経緯を彼女はあまりにも詳しく知りすぎていた。まるで、自らの書き上げた物語から抜き出したかのように。

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極夜~ソヴィエトの娘は革命を夢見るか~ 長谷川吹雪 @soviet1917novel

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