第二話「新秩序が到来していて」

「その銃、隠した方がいいと思うよ」その声の主は、彼女と同じくらいの年の少年だった。黒髪が闇に溶け込むような彼の姿は、彼女の白髪とは対照的で、その陰のような佇まいが薄暗い街並みに不思議な存在感を与えていた。少年の顔には真剣な表情が浮かび、彼の言葉の端々に漂う不穏な空気が、彼女の心をざわつかせた。「そのままだと、NKVD(内務人民委員部)に目を付けられるよ」


「NKVD」という言葉が彼女の胸を打ち抜いた。それは、まるで忘れかけた記憶が電流のように蘇る瞬間だった。かつてソ連の国家保安局だったその組織の名は、すでに歴史の彼方へと消え去ったはずだ。2130年の世界に、どうしてこんな言葉が存在するのだろうか?この現実の歪みに、彼女は戸惑いを隠せなかった。


「え……。NKVD?」と、彼女はうろたえた声で返した。「そんなの、もうとっくにないはずじゃ……」


少年は首をかしげ、訝しげな表情を浮かべた。「ない?何を言ってるんだ?ヤクーチアソヴィエト社会主義自治共和国は、NKVDの統治下にあるんだぞ。正気か?」その口ぶりには、疑念と困惑が交じり合っていた。


「ヤクーチア・ソヴィエト社会主義自治共和国……?」彼女はその言葉を呆然と反芻した。まるで理解を拒むかのように、それは彼女の意識の中で重くのしかかる。少年の鋭い眼差しは、彼女の心の奥底を覗き込むように鋭く突き刺さり、彼女の抱える秘密を暴こうとしているかのようだった。「お前、ナチス・ドイツのスパイか?」少年は声をひそめ、疑いの色を濃くした。


あまりに突飛なその問いに、彼女はまるで平手打ちを食らったような衝撃を覚えた。そんなはずがない。彼女はナチス・ドイツなど一度も訪れたことがなかったし、その存在は過去の亡霊に過ぎないはずだった。彼女は連合国の勝利を信じてきた、正真正銘のアメリカ国民だった。全体主義の亡霊など、彼女の現実ではとうの昔に消え去っていたのだ。「違う、私はスパイなんかじゃない!私は……」必死に否定しようとしたものの、言葉は途切れ、うまく続かなかった。彼の疑念は彼女の説明をもかき消し、重苦しい空気が彼女を包み込んだ。少年の眉間にしわが寄り、その目には不信の色が濃く漂っていた。ほんのわずかな共感が彼の心に芽生えかけたようにも見えたが、そのかすかな火種はすぐに消え失せ、代わりに冷たい疑いが彼の瞳に宿った。


彼女は少年に背を向け、悔しさと恐怖が入り混じった涙が目の奥ににじむのを感じた。曇天の空を見上げても、薄暗い光がわずかに漂うだけで、彼女に安らぎをもたらすことはなかった。この世界のすべてがねじれている。そんな感覚が彼女を飲み込んでいく。この2130年という時代に、ソビエトの亡霊がなおも蠢いているという事実が、彼女の心に暗い影を落とした。かつて打ち倒されたはずのその亡霊は、今もなお、この異様な世界の片隅に息づいていたのだ」


ふとした瞬間、彼女の脳裏に鮮やかな記憶が蘇った。それは、自らが書きかけていた未完の小説のことだった。この悲惨な現実へと足を踏み入れる前、彼女はナチス・ドイツを単なる過去の遺物とはせず、未だに権力の端にしがみつく恐るべき影として描いていたのだ。NKVDもまた復活し、本来ならば解放されるべき領土を再びその魔の手で締め上げていた。彼女の物語は、猜疑心と恐怖から紡ぎ出されたディストピアの探求であり、全体主義がいかに執拗に人間を支配するかを描く試みだった。胸の内に恐怖が湧き上がり、まるで鋼鉄の鎖で縛られるように息苦しくなった。自分が書いた物語の中に迷い込んでしまったというのか?彼女は必死にその考えを打ち消そうとした。


これはただの悪夢、あるいは頭の中の混乱から生まれた妄想に違いないと。しかし、心の奥底で囁く声を完全に無視することはできなかった。もし、彼女が知っていた世界――自分が真実だと信じていたもの――が、実は自分の創造力が生んだ幻想にすぎないとしたら? セドナは苛立ちを押し殺し、鋭く息を吐いた。この足元の現実にしっかりと根を張らなければならない。彼女は空想の住人ではなく、歴史を背負った生身の若い女性なのだ。それでもなお、目の前の断絶感はあまりに大きく、理解の糸口を掴むのは容易ではなかった。少年の言葉が頭の中で何度も繰り返され、その冷たさに心を蝕まれていく。


「私、そんなにスパイに見える?」彼女は独り言のように呟いた。自分の素性を説明しようとしても、周囲の目にはただ異質な存在に映るだけ。忠誠など誓った覚えのない政府に、なぜ疑われなければならないのか。その理不尽さが心に重くのしかかった。


セドナがさらに歩を進めると、街はますます奇妙に脈打つように活気づいていった。目の前に広がるこの都市は一種の矛盾を孕んでいた。活気に満ちているようでいて、どこか不気味な空気を漂わせているのだ。建物は様々な様式が入り混じり、未来的な高層ビルが歴史を語る古い石造りの建物の隣にそびえている。その光景は、彼女の知っていた世界とは完全にずれていた。金属の匂いが鼻をつき、現代技術の遍在を示す一方で、この世界は彼女にとって無味乾燥で、生気がないように感じられた。街角のスクリーンには、プロパガンダ映像が明るく楽しげに流れていたが、その鮮やかな色彩は不気味なほど暗い空気と対照的だった。


ネオンに照らされた顔ぶれの中には、希望と絶望がない交ぜになったような奇妙な表情を浮かべる人々がいた。自由を約束する広告が輝いてはいるが、実際にはその社会が彼らをますます縛りつけているように見えた。街を行き交う人々の多くは、光を吸い込むかのような暗い服を身にまとい、その目には虚無の色が宿っていた。皆、それぞれ目的を持っているように見えながらも、その行動には意味が感じられず、まるで筋書きのない劇を演じている役者のようだった。何を求め、何に追われているのか?セドナは、かつて自分が感じた共同体の温もりを思い出し、胸が締めつけられた。あの頃は、物語や笑い声が空気を満たし、人々の間に温かさをもたらしていた。今、彼女を包むのは冷え切った孤独だけだった。

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