極夜~ソヴィエトの娘は革命を夢見るか~

長谷川吹雪

第一話「小説の中へ行ってしまって」

これまで、セドナという存在はこの世界に存在していなかった。彼女は連合国が勝利した時間軸の住人であり、2024年のアラスカの馴染み深いリズムに包まれた世界にいた。しかし、ここでは、何もが故郷のようには感じられなかった。彼女が目にしたのは、貧困に彩られた無情な現実であり、日常の些細な安らぎさえも彼女を現実に繋ぎとめるものはなかった。文脈は霧散していた。過去の記憶は砂のように指の間をすり抜け、孤独なまま彼女をこの未知の広がりに放り込んだ。セドナは車に轢かれたことも、生死を彷徨うような状況に陥ったこともなかった。誰からもメッセージが送られてくることはなく、慰めの言葉や繋がりを感じることなど一切なかった。彼女は倦怠感の霧の中で迷い、図書館でサイバーパンク小説を書きながらうとうとしてしまったのだ。


しかし、今、彼女は無慈悲な荒野の中で目を覚まし、身元を剥ぎ取られ、異質で息苦しい現実に投げ込まれていた。目を開けた時、セドナは一人で荒涼とした地に立っていた。黒いパーカーに身を包み、冬の冷気に震えていたが、その衣服は彼女を守るにはあまりにも頼りなかった。首にぶら下がったアメリカの身分証明書は、滑稽でありながらも不気味だった。それには彼女の名前が記されていたが、そこに付け加えられた後半の名前は、彼女のものではないように感じられた。「セドナ・ヴァレリエヴナ・カルダショヴィナ」という名前は、彼女が思い出せない過去の断片から生まれたものであり、彼女がほとんど理解していない遺産の残響だった。セドナはこれまでミドルネームを持っていなかった。それは押し付けられたものであり、彼女が選んだものではない。姓も、アメリカの市民になるための事務的な形式でしかなく、何の意味も感じられなかった。


混乱は実に明白で、頭の中は霧がかかったようにぼんやりしていた。最後のはっきりとした記憶は手の届かないところで踊り、暗闇の中で恐怖に襲われていた。セドナは生存の基本原則を忘れていた。つまり、慌てて動くと危険な結果を招くということだ。彼女は錯乱状態のまま外の世界へ向かって進み、エネルギーが尽きかけた頃、遠くに街を見つけた。それは、絶望の風景の中で希望の火をちらつかせる、虚無の中の小さなオアシスだった。街の境界にたどり着いた時、彼女は安堵の息をついた。だが、彼女が境界を越えた瞬間、再び心は沈んだ。そこには白い翼を背中に携えた兵士たちが巡回していたが、彼女を無視し、別の場所に注意を向けていた。彼らの翼は天使を模したかのようだったが、その姿にはどこか奇妙な感覚があった。この崩壊した世界の守護者であり、武装した警備兵たちは、セドナの存在を見落としていたかのように、混乱した表情を浮かべていた。


彼らは彼女がボロボロのパーカーを着ているのを見たのだろうか?それとも、彼らは任務に忙しく、彼女は混乱の中でただ見えなくなっていただけなのだろうか?もし彼女がこの兵士たちに捕らえられていたなら、アメリカ市民であるという彼女の身分は、彼女を容疑者として扱い、終わりのない尋問の対象にしていたかもしれない。この地では、何もが見かけ通りではなかった。街の通りにはパーカーを羽織った人々が溢れ、彼らの背中にはそれぞれの翼がついていた。顔立ちは様々で、戦争と生存に形作られた世界の物語が混じり合っていた。建物は彼女の頭上にそびえ立ち、見慣れたものと異質なものが入り混じった不気味な建築様式で、その姿はこの街が彼女の知るものとは違うことを思い知らされた。彼女の体は寒さに震え、胃の中に不安の塊が広がっていった。これは間違っている。すべてが間違っている。街の通りに散らばったゴミの中には捨てられた地図があり、そのインクで描かれた線が指し示していたのは彼女が知っている場所、ヤクーチアだった。セドナは自分の周囲に無頓着な人間ではなかった。


特に自分のルーツを示す場所には注意を払っていた。しかし、ここで大きな疑問が生まれた。どうやってアメリカからロシアに渡ったのか、そしてなぜ?彼女は誘拐された記憶がなく、この凍てついた荒野をさまよっていた理由も思い出せなかった。困惑と苛立ちのため息をつきながら、彼女は広場を見渡した。新聞売り場に目が留まり、彼女はためらいながらも足を向けた。ロシア語で書かれた新聞が彼女の目に飛び込んできた。その文字は、彼女にとっては馴染み深いものであり、同時に不安を感じさせるものでもあった。幼少期に家で話されていたロシア語が、再び彼女の中で鮮明に蘇り、その響きは彼女を安堵させると同時に、心を揺さぶった。


新聞の一面にある日付が、彼女の目を引いた。「2130年2月7日」。これは現在の日付ではなかったはず。その瞬間、彼女の頭をつんざくような現実が襲いかかり、知っていた世界が音もなく崩れ去り、時の裂け目に呑み込まれたかのようだった。この驚愕の事実は、彼女の脆い理解をも脅かし、心の糸がほどけそうになった。恐怖と困惑、そして自分が世界から取り残されたという鋭い孤独感が、一気に押し寄せてくる。奇妙で不気味なこの世界で、どう生き延びればよいのか、彼女にはまったくわからなかった。今、自分を示す唯一の証として残されたのは「セドナ・ヴァレリエヴナ・カルダショヴィナ」という、他人の人生の残響のような名であり、それがあたかも唯一の頼りであるかのように彼女にのしかかっていた。


広場には人々が溢れ、多言語が入り混じる喧騒の中、彼女はたったひとり、孤独に押し潰されそうになっていた。通りすがる人々の顔は、夢の断片のように目の前をすり抜け、そのたびに失われた繋がりの痛みが彼女の心を締めつけた。温もりある仲間を求める心が、叶わぬ贅沢のように思え、胸の奥で鈍く痛む。深い息をつき、新聞を脇に抱えながら、彼女は再び歩き始めた。冷たい風が肌を刺したが、その冷たさがかえって彼女を慰めた。それは少なくとも「実在する」ものだった。触れ、感じることができる、確かな現実だったのだ。これが夢であれ、何かの間違いであれ、あるいは運命の気まぐれであれ、彼女は生き抜かなければならなかった。振り返る道などない。ただ前へ進むしかない。こうしてセドナという少女は、ヤクーチアの地図の切れ端を手に、知らない街の路地へと足を踏み入れた。途方に暮れたまま、通りをさまよい歩いていた彼女の耳に、不意に誰かの声が飛び込んできた。

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