第16話 切り札
「警視総監からの直々の命令だよ。古賀麗羽は蜂グループの重要人物で間違いないし、都内で発生した何十っていう殺人にも確実に関与してる。そいつをOBに小言言われたくらいで逃がすなんて何事だ、ってな」
本庁に戻って係長を問い質すと、帰ってきたのはもっと早くに聞きたかった正論だった。
「警視総監は東大出身、種島さんは京大出身だからな。学閥が違えば意見も違う、ってわけだ」
「何を呑気なこと言ってるんですか。古賀を取られたんですよ? これであたしらの計画パーじゃないですか」
「お前一人で描いてた絵図だけどな」
煩わしげな態度に、奥歯を噛み締める。そんな態度に、係長はまたため息を吐いた。
「あいつはお前の嫌いなヤクザだ。それも日本のセコいヤクザじゃない。国際犯罪対策課がずっと目を付けてた香港マフィアの幹部だ。お前が肩入れする理由なんてないんじゃないか?」
それはそうだ。唾棄すべき悪。反社会的勢力の幹部なのは間違いない。
だが古賀麗羽が単なる悪でないことも、悪を叩くために必要な人物であることも、今は理解してしまっている。
「――すみませんね、ご迷惑をおかけして」
自席での押し問答に、恰幅の良い男が割り込んできた。白髪混じりの大男で、チャコールグレーのスーツが体格によく合っている。
「芝崎課長……」
係長が向き直って、直立不動の姿勢になる。課長といっても、穂乃香がいる暴力団対策課の課長はもっと痩せているし、目つきが悪い。この男は眠たそうな垂れ目に頬を肉で垂らした、まるで牛のような顔だ。
「国際犯罪対策課の課長様が、詫びでも入れにきたんですか?」
相手が相手なだけに態度には気を付けるべきところだが、そんな精神的余裕はなかった。係長に諫められる前に、課長が苦笑で応じた。
「いや、非礼はお詫びしなくてはなりませんね。しかし、古賀麗羽という人物にはそれだけの価値があるということです。どうかそこはご了承願いたい」
「殺しの捜査で茶々入れられて泣き寝入りするだけの価値ってどんな捜査だよ?」
「まさに殺しの捜査ですよ。しかも、被害者は善良な一般人だ」
灰色の瞳を鋭く閃かせて、芝崎課長は言った。
「蜂グループは復讐代行という名目で犯罪被害者を唆し、大金を受け取って殺しを請け負っている。その数は我々が把握するだけで七十件を超え、行方不明者や疑いのあるもの、近隣の県のものを含めれば、その三倍どころの話ではない。それだけの殺しを主導しているのは間違いなくあの女だ。中国黒社会で最悪の殺し屋と言われる祝黒蜂に最も近い幹部の一人。それを落とすことがどれだけの価値があるか、刑事なら分かるはずでは?」
理屈は分かる。大義名分も納得する。
だが過程や配慮を無視した正義に付き合ってやれるほど、寛容でもない。
「少し頭を冷やしなさい。君は古賀麗羽に当てられたんでしょう。これから大阪や和歌山との合同捜査を控えているんですから、少し休みを取るのも悪くないと思いますよ」
「あ……?」
最後にそう笑いかけると、芝崎課長は踵を返して去っていった。
「よその課長相手に変な態度を取るな。庇えなくなる」
係長に諫められて、腹立ち紛れにデスクを殴る。そしてバッグを取り、オフィスを後にした。
これで捜査は正攻法しかなくなった。あの男の供述を頼りに首謀者を特定し、本人と所属する組の幹部をまとめて逮捕する。それしか道はない。
何も悲観することはない。正当な手続きに基づく、正当な捜査をするだけのこと。むしろ健全だ。
だが古賀麗羽とともに古賀組の残党を殲滅することが目的になっていたせいで、それを受け入れることができない。
「……違う」
理由はもっと単純だ。古賀を奪われたことが腹立たしくて仕方ないのだ。何も知らない輩が上っ面の情報だけで決めつけて、あの女を逮捕という名目で横取りしたことが、どうしても許せないのだ。
あの女は殺し屋であっても、冷酷さと残虐さの向き先を弁える手合いだ。そんな物分かりの良い輩はこれまで見たことがない。老人の家に押し入って強盗を働いたことや、女子高生を乱暴して殺したことを自慢して触れ回る、下劣な品性のクズばかり見てきた。そんなゴミクズの掃き溜めを叩き潰したいと思っていた。
古賀麗羽はそんな奴らとはまるで別の人種だ。闇バイトのガキに殺しを自白させ、自分達に不利益を与えた銃砲店の店主を見逃し、穂乃香の過去に心を痛めてくれた。殺された部下のことを偲ぶばかりか、関係ない子供の幸せを願う、真っ当な心を残した人間。それに今までこの目で見てきた限り、あの女が殺したのは先に殺意を向けてきた相手ばかりだ。
「ダメだこれ、休もう」
ムカつきが収まらないが、もうどうにもならない。警視総監が動いた上、逮捕状まで取ってきているのだから、芸海連のコネを使っても助け出すことはできないだろう。
忘れるために酒でも飲もう。そう思ってポケットに突っ込んだ手が、異物に触れた。
紙切れ。852から始まる国際番号を書いた、メモのページ。万一の時にはここにかけろと託された、古賀の切り札。
一階に到着したエレベーターを降りて、穂乃香は小走りで本庁を出る。桜田門駅までの道中、スマートフォンに電話番号を打ち込む。
深呼吸を一つして、発信。耳に当てると、最初の呼び出し音が鳴り終える前に、受話器が取られた。
『喂』
「あ……」
短い応答に、間抜けた声を漏らしてしまう。
『請問您係邊位呀?』
若くて高い女の声は、威圧的に中国語を紡ぐ。
「あの、古賀麗羽からこの番号を教えてもらったんだけど」
ダメ元で日本語で応答する。相手が何を言っているのかまるで理解できない。
『あんた誰?』
同じ声で流暢な日本語が返ってきた。ホッと胸を撫で下ろし、声量を抑えて質問に応じる。
「警視庁組織犯罪対策部の白炭だ。古賀が殺人の容疑で捕まった」
『あぁ、そう。まぁ、殺人ならしょうがないね』
「仲間なんだろ? 助けろよ」
淡白な物言いを聞き咎めて、しかし自分の言ったことに戸惑う。
『警察のくせに身内の邪魔するんだ? あいつと関わるとみんなおかしくなるね』
呆れたような苦笑を吹き込んで、電話口の女は言った。
『まぁ良いや。殺人ねぇ。どこに捕まったの? 公安?』
「国際犯罪対策課だ。後ろには警視総監がついてる」
『警視総監ね。となると芸海連のコネじゃちょっとキツいから……あー……うん。切り札使うしかないか』
調べものでもしているのか、受話器の向こうからキーボードを叩く音が聞こえた。
『主席に報告してからだけど、まぁ明日の昼までには対処するよ。ありがとう、白炭さん』
電話が切られそうになったその時、
「あんた、祝黒蜂?」
古賀が頼る相手なら、そう考えるのが妥当。そう思って訊ねた穂乃香に、女は高い笑い声を返した。
『その名前はわたしには重いね』
「じゃあ誰? 蜂グループの幹部?」
『名乗る筋合いはないよ。感謝はしてるけど、あまり馴れ馴れしくしないで』
そう言って女は一方的に電話を切った。固定電話だったらしく、受話器を叩きつける音が最後に聞こえた。
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