「夏侯霸從妹爲張飛所得」①

 第二に話題としたいのは、劉禪の妻、蜀漢後主の皇后たる「後主敬哀皇后」及び「後主張皇后」に係わる逸話である。両者は「車騎將軍張飛長女」・「前后敬哀之妹」(二主妃子傳)とある様に、張飛の女で、姉妹である。逸話はこの二人の母に関するものであるが、両張皇后が同母姉妹であるかは不明で、厳密には後者、妹の「張皇后」に関する話題である。


 『魏略』が引かれているのは両皇后の傳である二主妃子傳でも、父である張飛の傳(卷三十六蜀書六)でもなく、卷九魏書九諸夏侯曹傳中の夏侯淵傳で、その次子夏侯霸の附傳に注して以下の如くある。


 霸字仲權。淵爲蜀所害、故霸常切齒、欲有報蜀意。黃初中爲偏將軍。子午之役霸召爲前鋒、進至興勢圍、安營在曲谷中。蜀人望知其是霸也、指下兵攻之。霸手戰鹿角間、賴救至、然後解。後爲右將軍、屯隴西、其養士和戎、並得其歡心。至正始中、代夏侯儒爲征蜀護軍、統屬征西。時征西將軍夏侯玄、於霸爲從子、而玄於曹爽爲外弟。及司馬宣王誅曹爽、遂召玄、玄來東。霸聞曹爽被誅而玄又徵、以爲禍必轉相及、心既內恐;又霸先與雍州刺史郭淮不和、而淮代玄爲征西、霸尤不安、故遂奔蜀。南趨陰平而失道、入窮谷中、糧盡、殺馬歩行、足破、臥巖石下、使人求道、未知何之。蜀聞之、乃使人迎霸。初、。故淵之初亡、飛妻請而葬之。及霸入蜀、禪與相見、釋之曰:「卿父自遇害於行閒耳、非我先人之手刃也。」指其兒子以示之曰:「此夏侯氏之甥也。」厚加爵寵。


 大部分は夏侯霸の経歴と、彼が正始十年(249)正月の司馬懿による大將軍曹爽誅殺によって蜀に亡命した経緯であり、それに挿入される態で、建安五年(200)に彼の「從妹年十三四」が張飛の得る所となり、後にその妻となって「劉禪皇后」を生んだと云う。乃ち、張飛の女である張皇后の母は夏侯霸の「從妹」であるという逸話である。

 この話に裴松之は論評を加えていないが、これを否定する論拠として挙げられるのは、先の話と同じく、『三國志』に述べられていない、という点である。蜀に仕えた陳壽ならば、張皇后の母について知る事が出来るので、記している筈、という論法である。


 確かに、卷五魏書五の后妃傳には文德郭皇后・明悼毛皇后・明元郭皇后の母(董氏・夏氏・杜氏)についての記述があり、陳壽は皇后の母が知れる場合は記しているとも言える。

 しかし、文昭甄皇后の母は張氏である事が裴注の王沈『魏書』から知れるが、后妃傳本文には見えず、劉備の皇后と為った吳氏(先主穆皇后)や、吳の諸皇后(卷五十吳書五妃嬪傳)の母についてはそれが不明である可能性もあるが、記述が無い。

 また、上記三皇后の母についても「母董爲都鄉君」・「追封后母夏爲野王君」・「封太后母杜爲郃陽君」と后母を「君」に封じた際の記述であり、魏が母族を封建した故に載錄されているだけとも言える。

 王沈『魏書』には文昭甄皇后・文德郭皇后の母への記述があり、后母について触れる範例はあるとも言えるが、少なくとも『三國志』に於いては必須ではなく、陳壽が記していない事を以て、張皇后の母が夏侯氏ではないとは言えない。

 では、張皇后の母、張飛の妻が夏侯氏であるという事に信憑性はあるのであろうか。


 先ず、『魏略』の記述について確認すれば、建安五年(200)に「年十三四」になる夏侯霸の「從妹」が「本郡」乃ち、「沛國譙(夏侯惇傳)」に在ったと云う。

 建安五年と言えば、当に河北の袁紹との対決、所謂「官渡の戦い」が行われていた年だが、前年に南方の袁術が斃死し、年頭に東方の徐州に自立しようとした劉備が討たれており、夏侯氏が本貫とする豫州沛國一帯は曹操の勢力圏として概ね平穏、安定していたと思われる。

 そして、主戦場である「官渡」周辺からもやや離れているその地に、非戦闘員である夏侯霸の「從妹」が滞在していたというのは充分にあり得ただろう。

 因みに、夏侯霸の父である夏侯淵はこの時期、陳留・潁川太守から行督軍校尉として「督兗・豫・徐州軍糧」、曹操の勢力圏の東方域である兗・豫・徐州からの兵站を担っている。沛國は豫州の一部であるから、この「從妹」は直接ではないが、從父おじである夏侯淵の庇護下に在ったとも言える。


 一方、彼女を「得」たと云う張飛だが、この時期の彼の動静は『三國志』からは不明である。

 建安五年正月の曹操の東征により、「(劉)備走奔紹、獲其妻子。備將關羽屯下邳、復進攻之、羽降。」と、劉備は袁紹の下に逃走し、關羽は曹操に降っているが、張飛に関する記述は無い。ただ、徐州(小沛)から曹操に逐われた張飛が沛國周辺に潜伏していたというのは、あり得ない話ではない。

 興味深い事に『三國志演義』(百二十回本)の第二十八回に「卻說張飛在芒碭山中」とあり、劉備・關羽等と離れ離れになった張飛は、やや後に「芒碭山」に在ったとする。「芒碭」は漢の高祖劉邦挙兵の故事がある沛國の地で、夏侯氏・曹氏の本貫である譙縣からは東方に当たる。この記述は『魏略』の逸話を意識している可能性もあるが、「霸從妹」には触れていない。

 ともあれ、「霸從妹」が沛國にて張飛に遭遇するという状況設定には妥当性があると言え、その点ではこの逸話は全く根拠が無い、虚構の説とは言い難い。


 そもそもの「霸從妹」の存在について言えば、夏侯淵傳の冒頭、「太祖居家、曾有縣官事、淵代引重罪、太祖營救之、得免。」という部分に、裴松之は同じ『魏略』を引いて「時兗・豫大亂、淵以饑乏、棄其幼子、而活亡弟孤女。」と注しており、夏侯淵に「亡弟孤女」乃ち姪がいた事が確認できる。夏侯淵の弟女であれば、当然、夏侯霸の從姉妹という事になる。

 「太祖居家」乃ち、曹操が「家」、この場合は郷里である譙縣に居たという状況が想定できるのは、武帝紀(卷一)から、「年二十、擧孝廉爲郎、除洛陽北部尉、遷頓丘令、徵拜議郎。」となる以前、この条に引く王沈『魏書』に見える「太祖從妹夫濦彊侯宋奇被誅、從坐免官。後以能明古學、復徵拜議郎。」となっていた時期、そして、「光和末、黃巾起。拜騎都尉、討潁川賊。遷爲濟南相、……久之、徵還爲東郡太守;不就、稱疾歸鄉里。」から「金城邊章・韓遂殺刺史郡守以叛、眾十餘萬、天下騷動。徵太祖爲典軍校尉。」となるまでの三期間である。

 曹操は建安二十五年(220)に「年六十六」で崩じるので、永壽元年(155)生まれであり、「年二十」というのは熹平三年(174)に当たる。曹操の從妹の夫である宋奇が誅殺されたのは、『後漢書』(卷八靈帝紀)の光和元年(178)十月に「皇后宋氏廢、后父執金吾酆下獄死。」とある事件の際であるから、曹操が免じられたのは同年以降となる。

 「黃巾起」というのは所謂「黄巾の乱」であり、それが鎮圧された中平元年(184)から中平五年(188)八月に「初置西園八校尉(『後漢書』)」とある西園八校尉の一、典軍校尉に任じられるまで、曹操は「鄉里」に在った事になる。

 明確に「鄉里」に在った事が知れるのは最後の時期、中平年間(184~189)であり、前二時期には「時兗・豫大亂」という事態は想定し難い。一方で、中平年間は「黃巾」が平定された後も連年、「反」・「叛」・「寇」といった騒乱が記錄されており、殊に中平五年(188)四月には「汝南葛陂黃巾攻沒郡縣」と、沛國の隣郡汝南に起こった「黃巾」が諸郡縣を寇掠している。


 この中平五年(188)というのは、建安五年(200)に「年十三四」である「霸從妹」が生まれた年、或いはその翌年である。であれば、『魏略』の記述が本来如何なるものであったかに留意が必要だが、夏侯淵が活かした「亡弟孤女」というのは、「霸從妹」と同一と見るのが妥当と思われる。從って、少なくとも『魏略』においては夏侯淵の姪に当たる少女が存在した事は一貫している。

 なお、夏侯霸は『三國志』本文に「黄初中、賜中子霸」、『魏略』に「黄初中爲偏將軍」とあるので、魏の「黃初中」(220~226)には成年、弱冠(二十)以上と推定され、建安六年(201)~十二年(207)以前の生まれとなる。

 更に、第五弟榮が夏侯淵傳に引く『世語』に依れば、建安二十四年(219)に父夏侯淵が戦死した際に、劉備軍によって「年十三」で殺害されており、建安十二年(207)生まれであるから、夏侯淵の次子(第二子)である夏侯霸は同九年(204)以前の生まれと目される。

 『魏略』の「從妹」に從うなら、中平四年(187)以前となり、「黃初中」の経歴がやや低く、齟齬があるかに見えるが、或いは「從姉」といった誤りがある可能性も考えられる。

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