「劉禪與備相失」②

 劉備の「子」に関する事実があったならば、何故それが『三國志』本文に載錄されなかったのか、その理由を考えてみたい。


 陳壽が『三國志』に載錄しなかった事は、この逸話を否定する根拠ともされている。つまり、陳壽は「蜀」の出身であり、当然、その事情には詳しい筈であるのに、この事に触れていないのは、その事実が無かったからだ、という論法で、これは以下の主題にも適用される。

 確かに、「劉禪」に関する限り、この論法は有効で、劉禪が劉備と生き別れとなったという事実は無く、この逸話は虚偽であり、陳壽が載錄しなかったのは当然である。だが、それは劉備の「子」とした場合も同様であろうか。


 先ず、劉備の子については、先主傳で先に引いた、徐州で三度「虜」となり、荊州(長阪)において「棄」てられたという、延べ四組の「妻子」が見える。

 その中で、最後の一組が劉禪とその生母である「先主甘皇后」であるのは、甘皇后傳(卷三十四)に「值曹公軍至、追及先主於當陽長阪、于時困偪、、賴趙雲保護、得免於難。」とある事から確認できる。この「妻子」には曹純傳の「二女」なども含まれるであろうが、「子」が「女」のみという可能性は低いと思われる。


 一方で、徐州時代の「妻子」は、劉禪が荊州で建安十二年(207)に生まれているのだから、「子」が彼でないのは明らかである。また、この三組の「妻子」も麋竺傳(卷三十八)に「建安元年、呂布乘先主之出拒袁術、襲下邳、。先主轉軍廣陵海西、。」とあり、少なくとも最初に呂布に「虜」とされた「妻」と、麋竺の妹(麋夫人)は別人である。

 從って、劉備には徐州時代に複数の「妻」と、少なくとも一人以上の「子」がいた事になる。なお、劉禪の生母甘氏は「先主臨豫州、住小沛、納以爲。先主數喪嫡室、常攝內事。(先主甘皇后傳)」とあり、本来は「妾」であるから、厳密には「妻」に含まれていない筈である。そして、この「子」は劉禪の生前であるから、当然、彼の兄という事になる。


 ところが、『三國志』蜀書では劉禪に兄がいたという事は見えず、二主妃子傳に「先主子、後主庶弟也。」という劉永及び、「亦後主庶弟也、與永異母。」という劉理の「庶弟」二人が確認できるのみである。

 この二人は 章武元年(221)に王に封じられる際、共に「小子」とされ、劉永が蜀滅亡の咸熙元年(264)まで存命である事、劉理が延熙七年(244)に卒し、後に子・孫と共に「三世早夭」とされている事から、劉禪の弟という事は間違いないと思われる。

 つまり、劉禪の兄に当たる劉備の「子」については先主傳からその存在が推定できるにも拘わらず、蜀書では事実上存在しない事とされている。そして、それは何らかの事情で早世した故とするのが妥当であるが、「虜」となったという事とは厳密には一致しないものの、劉備と「相失」した故とも考えられる。

 であれば、真偽の程はともあれ、漢中において「良家子」が劉備(玄德)の子であると主張し、それを「舍人有姓簡」(簡雍)が信じる素地はあったと言える。


 では、この「子」が何故、蜀書において存在を抹消されているのか、それを考察する事は、陳壽がこの逸話を載錄しなかった理由に繋がると思われる。

 先ず、この「子」が存在する事が如何なる意味を持つか、である。

 真偽の問題はさて措き、この「子」は劉禪の兄である。その母は不明だが、劉禪の母甘氏であれば母兄であり、異なるとすれば、甘氏が「妾」である事から、「妻」の子で嫡兄という可能性もある。仮に甘氏と同じく妾の子であったとしても、劉禪より年長である事は間違いない。


 なお、甘氏は「先主臨豫州、住小沛」時に妾と為ったと云うが、これを最も早く解すれば、劉備が陶謙に表せられて、豫州刺史と為り、小沛に駐屯した興平二年(195)、遅ければ、呂布に徐州を逐われ、曹操がその呂布を討った後、袁術迎撃の為に出征した劉備が刺史車冑を殺して、徐州に居座った建安四年(199)であり、おそらくはこの五年間の何時かという事になる。

 劉禪が生まれたのは建安十二年(207)であるから、四年からでも八年、興平二年からでは十二年も経っている。この間に甘氏が劉禪の「兄」を生んでいたとしても不審はない。

 この「兄」が劉備の下に至ったのは、「備得益州」後に張魯が「劉禪」を「送詣益州」とある事からすれば、建安十九年(214)に劉備が益州を得て、翌二十年(215)に曹操が張魯を降すまで、という事になる。

 この時期、劉備の立場は未だ安定せず、後繼の問題を云々する状況ではなかったとも思われるが、劉禪の「兄」というのは、それを紛糾させるものであったと思われる。


 また、この時期、そして、これ以降に、劉備、延いては蜀漢の政権を支えていくのは、諸葛亮以下、荊州にて劉備に随って入蜀した、主として荊州出身者達であり、それを補うものとして劉焉・劉璋父子に仕えた、これ以前に蜀に入っていた人士と、在地の益州出身者達がいる。

 徐州時代から劉備との係わりがあるのは、「亡命奔涿郡。先主於鄉里合徒眾、而羽與張飛爲之禦侮。」・「涿郡人也、少與關羽俱事先主。」(卷三十六蜀書六)と、劉備が涿郡に兵を挙げる以前から親密な關羽・張飛、「本屬公孫瓚、瓚遣先主爲田楷拒袁紹、雲遂隨從、爲先主主騎。(同上)」という趙雲の三將に、「後徐州牧陶謙辟爲別駕從事。謙卒、竺奉謙遺命、迎先主於小沛。」・「先主領徐州、辟爲從事、後隨從周旋。」・「涿郡人也。少與先主有舊、隨從周旋。」(卷三十八蜀書八)という麋竺・孫乾・簡雍の三者程度であり、蜀漢の中枢に在るのは徐州で生まれた劉備の子とは全く係わりが無い人物が殆どという事になる。

 その点で言えば、この「子」を漢中で見出したのが劉備と同郷で、最古参の一人であろう簡雍と目されるのは至極妥当である。

 蜀漢政権の性質について詳述する事は出来ないが、少なくともその初期においては劉備個人の存在、力量によって維持されていたと考えられ、劉禪の「兄」の存在は将来的であれ、それを動揺させる契機となり得るものであったと言える。そして、敢えて言えば、劉禪の「兄」などというものは、彼に対する思い入れがない者達にとっては、厄介の種でしかなかっただろう。


 以上の様な事情が想定できる事からすれば、蜀漢でこの「兄」が彼自身は兎も角、その存在を抹消されたと推定するのは不当ではないだろう。そして、それが蜀漢政権の公式見解であれば、陳壽がそれを『三國志』に記していないのも道理である。

 陳壽の『三國志』編纂方針、執筆態度については諸々言われているが、史実に忠実に、何事をも直裁に記すというものではなく、曲筆はせぬまでも、忌むべきは避け、憚るべきには触れないというものである事は、司馬氏への記載や高貴鄉公(曹髦)の死に関する記述(卷四魏書四)などから知れる。

 從って、この『魏略』に見える「(劉)禪與備相失」という逸話が『三國志』に載錄されていない事を以て、虚偽であるとは言えないと考える。無論、であるからと言ってこの逸話が全くの真実であるとは言えず、裴松之も云う如く「劉禪」という点では全くの誤りであるが、背後に何らかの真実があったと考える。


 なお、小説的にはこの存在を抹消された「備と相失し」た子を、「本羅侯寇氏之子、長沙劉氏之甥也。」とあるものの、その羅侯寇氏も、長沙劉氏も不詳で、出自が不分明な劉封と見るのも一興かと思われる。

 劉備の「子」と認めるわけにはいかない故に、養子とされたのであり、諸葛亮が「慮封剛猛、易世之後終難制御、勸先主因此除之。」と、彼を警戒・排除したのは、その本来の出自故と考える事も出来る。

 ただ、「先主至荊州、以未有繼嗣、養封爲子。」と、荊州にて養子となったとある事からすれば、「建安十六年」と一致せず、飽く迄も妄想でしかない。

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