「劉禪與備相失」①

 第一に蜀漢の主、但し、その創立者である先主劉備ではなく、その子である後主劉禪にまつわる逸話から見ていきたい。『三國志』卷三十三蜀書三の後主傳に見える『魏略』の文を引用すれば以下の如くになる。


 、不意曹公卒至、遑遽、後奔荊州。、竄匿、隨人西入漢中、、關中破亂、、遂養爲子、與娶婦、生一子。、及備得益州而簡爲將軍、備遣簡到漢中、舍都邸。、簡相檢訊、事皆符驗。簡喜、以語張魯、魯爲洗沐送詣益州、備乃立以爲太子。初備以諸葛亮爲太子太傅、及禪立、以亮爲丞相、委以諸事、謂亮曰:「政由葛氏、祭則寡人。」亮亦以禪未閑於政、遂總內外。


 劉備が小沛、乃ち徐州から曹操に逐われ、「家屬」を棄てて逃亡した際に、「時年數歲」であった劉禪が劉備と生き別れとなり、漢中で人買いに遭うも、父の名を憶えていた為に、益州に入った劉備に迎えられて太子となったという話である。

 この話自体は荒唐無稽とも言うべきであり、以下の如く、裴松之が勘案している。


 臣松之案:二主妃子傳曰「後主生於荊州」、後主傳云「初即帝位、年十七」、則也。十三年敗於長阪、備棄妻子走、趙雲傳曰「雲身抱弱子以免」、即後主也。如此、備與禪未嘗相失也。又諸葛亮以禪立之明年領益州牧、其年與主簿杜微書曰「朝廷今年十八」、與禪傳相應、理當非虛。而魚豢云備敗於小沛、禪時年始生、及奔荊州、能識其父字玄德、計當五六歲。也、至禪初立、首尾二十四年、禪應過二十矣。以事相驗、理不得然。此則魏略之妄說、乃至二百餘言、異也。又案諸書記及諸葛亮集、亮亦不爲太子太傅。


 二主妃子傳(卷三十四蜀書四)及び後主傳から、劉禪は建安十二年(207)に荊州で生まれており、その事は趙雲傳(卷三十六蜀書六)及び杜微傳(卷四十二蜀書十二)の記述からも裏付けられ、劉備が曹操によって徐州を逐われた建安五年(200)には生まれておらず、当然ながら「能く其の父が字を識る」事ができる年齢ではない。

 故に、これは『魏略』の「妄說」であり、諸葛亮が太子太傅と為った事も無いとする。最後の部分は蛇足の感もあるが、確かに、この指摘は全くの妥当であり、劉禪が徐州に於いて「(劉)備と相ひ失」う事はあり得ない。

 では、この逸話は全くの「妄說」で、顧慮するに値しないものであるのだろうか。それを考える上で、『魏略』にこの逸話が載錄された過程を考察してみたい。


 先ず、載錄と言った様に、この逸話の出処、如何なる過程で形成されたかが問題となるだろう。この話が全くの創作、『魏略』の捏造という可能性もあるが、そうであるとするには裴松之も云う如く「二百餘言」に亘り、詳細である。

 内容も具体的で、「劉禪」を買ったと云う「扶風人劉括」の名が見え、「劉禪」が訪問した「舍人有姓簡」は卷三十八蜀書八に傳が有る、劉備と同郷の涿郡人で、「少與先主有舊、隨從周旋。」という簡雍と見るのが妥当だろう。

 なお、この舍人「簡」は劉備が益州を得た後、「將軍」と為ったとあるが、同傳には「先主拜雍爲昭德將軍」とあり、簡雍は確かに「將軍」と為っている。また、建安十六年(211)には韓遂・馬超等が蜂起し、「關中破亂」となっており、時期的な不合理もない。


 こうした詳細さからすると、『魏略』が殊更に虚構を列ねたとは考え難く、何らかの基礎となる話があり、それに適宜修飾を施した、尾鰭がついたにせよ、大筋で、この逸話は事実であったと考える方が妥当ではないか。ただ、根幹となる劉禪が劉備と生き別れとなったという事実は無い。

 であれば、この話の根本となるのは徐州で劉備と生き別れとなった「子」がいた、という事ではなかったか。つまり、単に「劉備の子」であったのが、劉備の子と云えば劉禪との誤認から、混同されたという事が想定される。


 劉備と生き別れとなった「子」がいた、という事実がなかった場合、この話が生まれた原因、『魏略』に載錄された理由が不分明となる。

 この話の背景にあるのは、劉備が子と生き別れになる様な生き方をして来たという事であり、彼自身の意思はともあれ、彼がそれを許す存在であるという事を示している。つまり、この逸話は劉備が子を庇護しない、し得ない存在である事を伝えていると言える。


 それを強調する為にこの話が創作されたとも考えられるが、その内容は不必要に詳細・具体であると言える。

 例えば、「扶風人劉括」は他に見えず正体不明の人物であるが、単に「劉禪」を買った人物が居るという事を示すだけであれば、具体的な出身・名は必要ではない。簡雍が「舍人有姓簡」とぼかされている事を思えば、単なる劉氏、劉某といった表現でも充分である。

 逆に信憑性を増す為というならば、いま少し著名な人物に仮託する方が効果があるかと思われる。ただ、名を挙げる事で信憑性を増しつつ、無名の人物である事で事実の検証を困難にするという効果があるとも言える。


 ただ、そもそも、劉備が子を庇護し得ないというのは敢えてこの逸話を取り上げるまでもなく、顕著な事実であり、裴松之も挙げている如く、他ならぬ劉禪自身も荊州において、一時的とはいえ劉備と離れ離れになり、趙雲の奮闘がなければ、この逸話の様な状況に陥っていた可能性もある。

 そして、そうした状況が生じたのは一度ではなく、『三國志』先主傳には以下の如く、劉備の「妻子」が幾度も他者の虜囚となった事が記されている。


 下邳守將曹豹反、閒迎布。、先主轉軍海西。楊奉・韓暹寇徐・揚閒、先主邀擊、盡斬之。先主求和於呂布、布其妻子。先主遣關羽守下邳。


 先主還小沛、復合兵得萬餘人。呂布惡之、自出兵攻先主、先主敗走歸曹公。曹公厚遇之、以爲豫州牧。將至沛收散卒、給其軍糧、益與兵使東擊布。布遣高順攻之、曹公遣夏侯惇往、不能救、爲順所敗、。曹公自出東征、助先主圍布於下邳、生禽布。先主復得妻子、從曹公還許。


 (建安)五年、曹公東征先主、先主敗績。曹公盡收其眾、、并禽關羽以歸。先主走青州。


 曹公以江陵有軍實、恐先主據之、乃釋輜重、輕軍到襄陽。聞先主已過、曹公將精騎五千急追之、一日一夜行三百餘里、及於當陽之長阪。、與諸葛亮・張飛・趙雲等數十騎走、曹公大獲其人眾輜重。先主斜趨漢津、適與羽船會、得濟沔、遇表長子江夏太守琦眾萬餘人、與俱到夏口。


 この他、魏書九諸夏侯曹傳(『三國志』卷九)の曹純傳(曹仁傳附)にも「從征荊州、追劉備於長阪、獲其二女輜重、收其散卒。」と、劉備の「二女」が曹純に捕われた事が記されており、劉備が「妻子(女)」を庇護し得ない事はこの逸話を挙げるまでもなく周知の事と言える。

 從って、この逸話が生じたのは劉備に生き別れとなった「子」がいた、という事実があった故と考えられ、『魏略』に載錄されたのは、劉備が子を庇護し得ない人物である事を強調する意図があるにせよ、その子の境遇が数奇で、興味を引くものであった故ではないか。

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