エンシャルト 第三話
アルカナは椅子に座るとフランの手を離し、シャンパンを要求した。
「アルカナ様はほんとうにシャンパンがお好きですね。勿論極上のものを用意しております」
あっという間に周りの執事からシャンパンが注がれ、それに合うチーズやフルーツがアルカナの前に並んだ。
「わあい、嬉しいな。ありがとう」
エンシャルトに注ぎ込む金色の太陽の光は、健康な葡萄を育てる。綺麗な水に囲まれたこの土地に育つ葡萄は、王族の贈答品にも使われるほどに素晴らしい出来であった。しかも、天候や湿度に恵まれた最高の年のシャンパンは、高値で取引される。エンシャルトの歳入において無視できないほどの割合をワインが占めていた。
フランはアルコールに弱く、あまりお酒を好まなかったが、そういった国の事情がある以上皇太子としての役目の一環で口をつける機会が多かった。そしてアルカナは大のワイン好きで有名だ。彼女に気に入られているフランはよくアルカナの相手役にあてがわれたし、その度に彼女は乾杯を求めた。
「ね、フラン、一杯だけ」
勿論フランの手には要領の良い家臣によって既にシャンパングラスが渡っている。アルカナは自分の隣の椅子に目をやった。そこに座り、アルカナにシャンパンをつげといういうもの命令である。
「僕はお酒が弱いんですよ。アルカナ様もご存知でしょう」
そういいながらも綺麗にサーブしたシャンパンは黄金色で、この国の陽気を詰め込んだような美しさだった。しゅわしゅわと音を立てる泡を、目で追いかける。この瞬間だけは好ましかった。
「そういいつつも僕に毎回付き合ってくれる。フラン、結婚おめでとう」
控えめにグラスが当たり、涼やかな音が鳴った。
「ありがとうございます、わざわざお祝いにまでいらっしゃるなんて」
グラスを干すのが早い。アルカナは化け物なのではないかとフランは思った。この細い身体のどこにこの量のアルコールを分解する機能があるというのだろうか。継ぎ足された分にも口をつけ、涼やかな表情をしている。
「僕はあのアルトスティンの子と結婚するんだと思ってたよ。レーシファと言ったっけ」
「僕たち自身、かなり長い間そう思っていましたよ」
「レーシファを好いていたように僕には見えたけど、君は違う人と結婚してしまうんだね」
やはり彼女に隠し事はできないらしい。アルカナの瞳は吸い込まれるような不思議さがあり、一度見つめると全てを見透かされるようで怖かった。そうでなくても無限の力を持つという神族だ。アルカナが知らないことがあると思うのが間違いなのかもしれない。
「僕はエンシャルトの皇太子ですから。王族の窮屈さは、アルカナ様にも理解できますでしょう」
「自分だけで解決しようとするからだよ。僕がいるじゃないか」
隣にいるアルカナは、ぐっと椅子を寄せて、フランの耳元で答えを乞う。レーシファは君のなんなのだ、と。フランの中では、どうすべきか揺れていた。今から国に新しい王女を迎えて第一皇太子としての立場を確立していくフランには、色恋などあってはならないし、そんなの人に聞かれでもしたら弱みになりかねない。しかし、誰よりも強い権力、武力を持つ神族の王がそれを所望しているのだ。考え込むフランの横顔を見て、アルカナは満足そうに微笑んだ。全く、性格の悪い人だ。凛となる宝石のような横顔が、意地の悪い笑顔を讃えていても、それが一層彼女の美しさと世間離れした身分を強調した。
「レーシファは立派だよね」
アルカナはフランからふっと顔を背けて、またグラスに口をつけた。
「皇太子になるはずだった兄君を早くに亡くし、若いうちからこの国の女王となることを強いられ、あんなにも曲がらずに素直に健やかに育ったんだから。気が強いだとか世間は言うけど、そうでも無ければ生きてこられはしなかった、何せ超大国アルトスティンの次の王となるのだから」
アルカナが共感を求めているのか何かを聞き出そうとしているのかをつかみ兼ねて、フランも珍しく自分からグラスをすすめた。
そうだ、彼女は誰より強い。天真爛漫で娘らしい愛くるしさを秘めているところも、強気なところも、全て計算づくし。フランの前で「もう疲れちゃったわ」と甘えるようにもたれかかるときも、彼女の母である王妃が亡くなったときも、いつだって涙は見せなかった。結婚おめでとう、という彼女が涙を見せないことが、どんなに強い事なのかもいちばん知っているつもりだ。いつかレーシファの肩の荷がおりたとき、泣かせてやりたかった。そのときに肩を貸すのは自分がいいと、フランは昔から思っていた。これが恋というのなら、随分と長い間レーシファに恋していることになる。
「ねえフラン、僕と結婚しようか」
感情が読めなくて、何も言葉にならない。
「鈍感なお坊ちゃまだねえ。僕が相手なら誰もなんにも言えない、そうだろ。そして僕がその結婚を破棄すると言い出しても、誰も何もできやしない」
レーシファが第一王位継承者であるのは父であるアルトスティン国王が再婚を拒み、妾さえ作らず、他に子を成さないからだ。次、男子が生まれることがない限りレーシファは王位継承者であり続ける。しかし、子を成したとしたら。
恐ろしいことを考える人だ。そしてそれができてしまうのが何より恐ろしいことだ。フランはそっと首を振った。
「僕らが想い合う気持ちよりも、僕らが国を、民を想う気持ちの方が大きいのです。それは僕も彼女と同じ。難しいですね、そんなレーシファだから心地よかったのです」
「素敵な皇太子様だ。エンシャルトの民はさぞかし安心だろう」
席を立つ彼女の前には珍しく干されていないグラスが残っていた。
「でもね、君のことは大好きなんだ。君が幸せになれるなら僕は君の大切な民もどうにだってしてあげるんだから」
アルカナの身長の三倍ほどある大きく重い扉がどん、と鈍い音を立てて開けられる。人払いを聞いて外で待っていたフランの従者たちは、アルカナに手を煩わせてしまったことに慌てふためいていることだろう。しかしフランは彼女がそんなことで腹を立てるなどしないと知っていた。あんなにご機嫌なアルカナは久々に見たものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます