エンシャルト 第1話

美しい花が咲き、一年中春の陽気に包まれるエンシャルト王国。魔法の歴史を語るにはこの国を抜きにしてはならない。最も偉大な魔法使いと言われた『氷の天使』はウェンロットを統一した人間。彼の歴史は神話として長く美しく残酷な物語に織り込まれている。

この国の王子として、フラン・ウェンロットは若干十八の娘を娶った。彼女はエンシャルト有数の貴族の娘で、名をユーリエンディスと言った。政略的な結婚とはいえ彼女は可愛らしい姿形で朗らかで優しい少女だ、愛することはできそうだ。貴族の娘というなら社交界に通じるマナーを身につけているはずで、将来王としてこの国を治める人間の妻としては申し分ない。

恋や愛をしてみたくなかったといえば嘘になるが、それよりもフランにとっては王子として王位継承者として、役割を全うすることが大事だった。そうでもなければ顔を見た事もない者との結婚などするわけが無い。それでも不安はある。主に結婚相手となるユーリエンディスのことだ。話をしたことも無い五つ上の男といきなり結婚をさせられたこの娘はどう考えているのだろう。フランは国を治める者としては致命的な程に一人一人の人間を丁寧に扱おうとする性格だった。

挙式当日、ユーリエンディスのお色直しの直後にやっとその懸念についてユーリエンディスに聞く時間ができた。

「ユーリエンディス、君は僕と結婚なんてしてしまっていいのかい」

「ええ。私、今とても幸せですわ」

花が咲くような笑顔は心配は杞憂であったと思う程であった。幼い顔立ちは笑うと更に彼女を幼い印象にさせた。何も分かっていないのかもしれないが、彼女が不満を持っていることがないのであれば今は大丈夫だ。

「そう、もしも何かあれば僕に言うんだよ。今日から僕達は夫婦だ。共に何事も解決していこう」

「はい、フラン様」

彼女を今愛しているわけではないが、この幸せそうな顔を守れるようになりたい、フランはそう強く思った。


披露宴はエンシャルト王国が国家の誇りをかけて豪華絢爛に行っている。振る舞われている食事は最上級のシェフが腕によりをかけて作ったものだし、ワインも一本でドレスをオーダーすることができるくらいの年代物だ。自分の結婚式でなければフランも心より楽しんでいたことだろう。

既に酔いが回った頭でできる限り多くのことに気を配る。同じ宗教国家で世界最大の軍事力と国土を誇るアルトスティンの姫が披露宴に参加している。彼女には早い段階で挨拶に行かねばならない。それでも今日の主役はフランであり、これは国をかけた一大イベント。あまり下手に出るのはよくない。そしてエンシャルトと歴史的に仲の深い隣国のミシャルトとエルロットの王族の国賓たち。彼らへの挨拶と今度の大きな貿易への圧を忘れてはいけない。

昔から決して誰よりも頭が冴えているわけではない、ありふれた王子だった。魔法使いの物語ではこの国の王子は氷の天使に次ぐ魔力を持ち、人々をあっと言わせた。しかしフランの魔力は極めて平凡であった。いつもあの本を読み聞かされて、いつかそうなるのだと信じてやまなかった少年は深く傷ついていた。それでも神は彼を見捨てなかった。フランは人に愛された。母親譲りの優しい笑顔、包み込むような声色、そして人を居心地良くさせてしまうような空気を作り出すことができた。これは魔力でもなんでもなく、彼が恵まれなかったことで悲しみへの共感、不安への配慮といった人への優しさを手に入れたことに因る。成人を超えた今は、その良さを伸び伸びと生かしてきた。

そんなフランでも大舞台は緊張する。立ち上がる前にすぅ、と息を吸い込んだ。椅子を召使に引かせ立ち上がると、隣に座っていたユーリエンディスが心配そうにこちらを見た。

「大丈夫、君は座っていて」

「あら、それは私の台詞でしてよ、フラン様」

豪奢な金髪、深い緑の宝石のような瞳、そしてこの日のために誂えたであろう水色のドレスには沢山のダイヤが散りばめられていた。彼女こそは大国アルトスティンの王女だ。

「レーシファ様、こちらからご挨拶に伺うところでしたのに」

「結構よ。今日はフランちゃんの結婚式なんだから」

悪戯そうに笑う彼女はまだまだ幼く、ユーリエンディスよりも年下だ。幼い頃に舞踏会の裏で何度も手を引いてあげたことを思い出すし、きっと彼女はその頃と同じようにフランとじゃれることができる立場だと思っているのだ。

アルトスティンには今王子は一人もいない。王も妃も高齢でこれ以上の出産は見込めない。即ち、レーシファはアルトスティンという大国の王位継承者である。

レーシファはドレスの裾をつんと持ち上げて上品に会釈してみせた。優雅に振る舞う姿を見ると彼女がまだ十六の娘であることを忘れてしまいそうだ。王族の一人娘として立派にしつけられているのが少し歩いてみせるだけで見て取れる。しかし彼女は心の中はいつまで経っても子供のままである。それがフランを悩ませる。

「レーシファ王女、お席に」

「フランとお話するから後で帰るわ」

後ろからやってきた大臣に咎められても、何が悪いのかとさえ思っている返事だ。

諦めてフランはレーシファの隣に回った。社交界に慣れているとはいえたかが貴族の出だ、アルトスティンの王族になど会ったことはないだろう。ユーリエンディスはどうしていいか分からないというようにこちらへ目をやっていた。僕だって分からない、といった顔を返すとへにゃりと眉を曲げて膝に手を置き直した。


「レーシファ様」

「いいのよフラン、挨拶だなんて。いつもみたいに仲良くしてよ」

淡い水色のレースのグローブを外して覗いた素肌は真っ白だった。指は前会った時よりも長くなり、手のひらも大きくなった気がする。思えば身長差も昔より縮んでいる。

「実はね、小さい頃私はフランと結婚するものだと信じてたの。でもフランは結婚しちゃったわ。いや、そんな言い方はよくないわね。おめでとう」

フランも数年前まではそう信じていた。何がなんでも王子を産みアルトスティンの王に据え、王女のレーシファは隣国の王の妃となるだろう、と。しかし実際は妃を愛していた王は、高齢出産になる妃の代わりに新しい妻をと迫った大臣たちの言葉を一切聞き入れなかった。レーシファは女王となり国を継がねばならなくなった。それに気づいたフランはレーシファへ愛情を抱かぬよう距離を置き始めた。幼なじみのように育てられた二人だから寂しい思いもしたものだ。しかしだから久しぶりに、レーシファの顔を見たのだ。

「レーシファ、君も幸せになってね。今日は来てくれてありがとう」

懐かしい笑顔で応えると、白いハンドバックを持ち替えた。

「私、プレゼントをあげにきたのよ」

「アルトスティンから、沢山の祝い品を頂いたよ。ほんとうにありがとう」

「そうじゃないわ」

ハンドバックをするりと手から落とす。拾おうとフランがしゃがんだ瞬間、周りの照明が全て消えた。ざわめき声の中、レーシファが小さく声を出した。レーシファはハンドバックを掴んでいた時とおなじ体勢で手を開いていて、手の上にはエメラルドが浮かんでいた。この大きなサルーン全てを照らすような光を持っている。

「フラン、右手を」

フランが差し出した手の中にエメラルドは吸い込まれていった。完全にフランの体内に消えてしまうと、消えていた全ての照明がついた。

「私の魔力を少し分けてあげる。名前の一部が刻まれたエメラルドの破片よ」

フランは理解が追いつかないというように手を開いたり閉じたりして、何も変化がない以上幻覚だったのではと思うほどだった。しかし、レーシファは魔力の素養もしっかり国王から受け継ぎ、その上最上の教育を施されている。フランには縁がないため、ずっと目を背けてきた魔法というもの。初めて目の当たりにした衝撃は、想像以上のものだった。

「一体、何が何だか」

素直な感想をこぼしたフランをレーシファは年相応な笑顔で笑い飛ばした。しかしその後一瞬見せた怪しげな目を幼なじみのフランは見逃すことは無かった。なにか悪戯を仕掛けた時の目。思えば子どもの頃からよく遊んでいたフランとレーシファだが、レーシファのほうが一枚上手でかくれんぼでも鬼ごっこでもよく巻かれてはからかわれていた。そのときのようにいたずらっ子の目をして、そして王女の顔になった。

「あら失礼、鞄を落としてしまったわ」

エメラルドに気を取られて忘れていた。フランはそれを手に取ってはたくふりをして、レーシファの開かれた手に収めた。こうして表情をコロコロと変える彼女は女性として魅力的で、何より大事なことに既に政治に関わっても問題のない狡猾さを得ているのだとフランは察した。

「では、またあとでゆっくりお話しましょ。フランちゃん」

すぅ、とフランの右手を撫でた。ぞわっとして咄嗟に手を引いた。顔など見なくてもレーシファがいつもの様に勝ち誇った笑顔を称えていることくらいは分かった。

大臣を引き連れて一番の上座へと向かう彼女は、間違いなく次のアルトスティンの主だった。

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