個人的な思う解釈の話

2024.10.26

寝られない明け方の更新です。

とても眠いのだけれど寝られる気がしないです←


さて今回は前の更新分の個人的な解釈の延長線のお話。

これね。

私が思う”理解する””受け入れる”の解釈って病気や障害1つとっても本人、周りの人、家族、その他で様々な解釈があって両方の言葉もできる、できない、する、しないでも色々違ったりするんじゃないかなと思う自分がいるのだけれどね。


この2つの言葉って特に思うのは私の場合障害とかあると持つ言葉の意味がちょっと違うように思うなと思っています。

この場合は

理解する=知るとか記憶するとかそういう意味でいうと障害の種類とかにもよって

できる、できない、難しいなど何種類かになるのかなって。

例えば知的障害があれば障害の重さによって理解してできる、適応することの困難さとかも変わるし、

ある程度の自立ができるけど金銭管理が苦手でできないくらいのところからお風呂や食事とかの日常生活もこうする、ということを理解してこなすのが困難で解除が必要な人までいるから一概には言えないと感じるし、

そのほか例えば勉強というところで言えば知能が極端に高いといわゆる普通の知能の人のレベルだと理解できてしまう分健常の数字の知能の人からしたら理解しにくい領域のことをやっている、だったり

例えば学習障害も色々なものがあるのでできないものも人それぞれだったり。

中でも例えば計算ができない人がいるとすれば小学校低学年の算数も難しいとか識字がダメな人だったら話はできるけど教科書を読むことができないとか。

そういう感じで理解することに関しては「する」「しない」「できる」「できない」

は使う用途によって変わるところだなという気づきがあの後ありましたので書き留めておきたいと思います。


そのほかの様々なところで使ったりするところではこういう表現がしっくりくるのかな?と感じたのが

自分対他人で考えた時に

自分で言えば自分のダメなところだったりその言葉を使う上で受け入れられるか、理解できるかとなったりした時に自分がまだ理解できてないところ、受け入れられてないところをどこまで「自分はこういう人なんだと認めたりわかってあげられるか」に近い気がするし、


自分対他人で考えた時には

自分から見た相手がどんな人かを知ってその相手を認めることができるか、というような感じなのかなと思ったり。


そういう意味ではきっと理解をすることも受け入れることも病気や障害に限らずどんなことに対してもできるかどうかなど人などによって違いがあるので難しい部分なんだなと思います。


例えば、人対人であっても自分という人間以外は同じ人間でも血のつながっている家族であっても他人同士なので価値観や考え方が合わなければ理解し合えないということも少なからずあるし民族や国が違えばもっと合う合わないできるできないも変わってくる。


だからこそ何か1つとったときの多数派を「普通である」って定義してしまったり少数派を「排除する」というふうに決めたりしてしまうのもちょっと危ないような気がするなとぼんやり考えていた昨日のことでした。


それではまた更新します。



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