第2章 俺の苦しみ

第15話 自殺で得られたものは

 段々と体の末端から感覚が戻ってくる。

 指先が、外界のなにかを感じ取った。

 腕が、自身の体に触れているのが分かった。その体が熱を持っていることを思い出す。

 段々と、ゆっくりと、体の感覚が戻ってくる。

 だが、その感覚に、俺は違和感を覚えた。

 やけに、軽すぎる。

 体を覆い尽くしていたもやのような倦怠感が、体のあちこちに感じていた鋭い、鈍い、熱い痛みが、さっぱりと無くなっていた。

 ひりつくような首の痛みも、まるで最初からそこになかったかのように消えている。

 今までに感じたことのない違和感に、本当に体の感覚が戻っているのかと疑問さえわいた。

 だが、それでも、違和感を覚える体を動かすことができた。

 ぴくりと指先を動かして、腕を僅かに曲げ、肩を揺らして。そして、俺は目を開いた。

「……」

 その目に飛び込んできたのは、今まで目を閉じていた俺には優しい、真っ暗な空間だった。

 まさに、無という言葉がしっくりくるような、何もない空間。

 ――確かめるように周囲に目を向けると、それはいた。

 何もない空間に浮かぶように、しかし安定感を感じさせるように立ち、こちらを見つめている。

 それは、少女のように儚げで、無のような空間も相まって声をかけただけで消えてしまいそうだった。

 しかし、彼女の風貌を、表情を読み取ると、その考えは消えてしまった。

 黒の空間に遊ばせるように降ろした髪は、宇宙に悠然と存在する銀河のように金に輝いている。あどけない表情の中に爛々と輝く灰色の瞳は、どんな生物でも睨むだけで命を奪われてしまうような恐怖を感じさせた。

 変哲もないワンピースを身につけ、両手を後ろに組む姿はあまりに普通すぎて、そのどこかに凶器でも隠しているのではないかと思った。

 そのためあどけない表情さえも、相手を油断させ獲物を刈る捕食者を思わせた。

「お目覚めですか?」

「――っ?」

 だが、その印象さえも、鈴を鳴らすような暖かな声音によってかき消された。

 ――どう、言葉を返せばいいのかがわからない。

 様々な印象を感じさせてきた掴み所の無い相手に、どの言葉を選んでも不快にさせてしまうのではないかと言う考えが、俺の口を塞がせた。

「……」

「……ええと、反応してほしいのですが……といいますか、言葉、分かりますか? 合ってますか?」

「……わ、かる……」

 なんとか声を発すると、彼女はほっと頬を緩ませ、

「安心しました。やはり、死んだばかりだと感覚が残っていて怖いですか?」

「死――」

 その言葉に、ふと思い出す。

 この世界に絶望して、飛び降りたことを。

「……ここは死後の……」

「はい、その感覚で違いないかと」

 その言葉に、全身に無意識に入っていた力がふっと途切れた。

 死とは、絶対的な終わり。歓喜、快楽、痛み、苦しみ、哀しみ、絶望……全てを失くす平等な一手。

 どんなに不条理なことでも、死だけは平等に訪れる。

 俺は死を以って、重すぎる肩の荷を下ろすことができた。

 ……が、苦痛が失くなっても、人との繋がりが失くなっても、一つ残っているものに気がついた。

「……なんで、俺が居る……?」

 ……厳密に言えば、考えなかったわけではなかった。

 最後の審判。

 死後の世界。

 自殺するとき、それらを思い浮かべなかった訳ではなかった。だがそれらの可能性について、無意識に途中で考えることをやめていたのだろう。

 苦しみから解放されるために死に、その先で何かがあるなんて、考えたくなかった。

 もし考えていたら、死さえも恐ろしくなってしまうから。

 終わりの一手が、また苦しみの始まりだなんて少しでも考えたくなかった。

 たとえ天国であっても、死後の世界が安息の地であっても、俺は望まない。

 無が、唯一の望みだった。

 どんなに心が踊っても、笑顔が溢れても、微睡みに心地よさを感じても……そのどれにも、負が隠れている。

 いつかは、指先を切り落とされるような苦痛が、胃からせり上がってくる嘔吐感が、俺を襲ってくるのではないかと怯え、心から楽しむことはできない。

 だから俺の望みは、無だ。

 と、彼女が口を開いた。

「あなたの生活について、すこし見させていただきました」

 俺は、彼女のとらえどころの無い人格や言葉から、相手の考えを読み取ろうと、一挙手一投足を見逃さないように見つめた。

 俺の望みである無を、彼女は叶えてくれるのだろうか。

「随分と、そうですね――不幸な、人生でしたね」

 俺は、解らないからこそ抱く恐れを隠しながら、口を開く。

「ふん……ああ。そうだな。で、そんな俺になにか一つ、何でも願いを叶えてくれるなんてことはないのか? 女神様?」

「……驚きました。私は女神だなんて名乗った覚えはありませんが」

 彼女は隠さずに言葉で、表情で驚きを示してくる。それゆえに、俺がそう言うとわかっていてわざと茶番のようなことを演じているのではないかという、ぞわっとした感覚が俺を襲う。

 俺が言い当てたのはただ、死後の世界と女の姿をした存在から、女神だと思っただけのこと。

「で、どうだ? 叶えてくれるか?」

「ふむ……」

 女神は考え込むように、後ろ手に組んだ手の片方を、顎へと持っていく。

 そして、ふと、女神の顔から、表情が消え――

「――人間、少し、無礼が過ぎるのではないですか」

「――っ!」

 全身を巨大な鎚で叩かれたような圧を感じ、俺の考えは潰された。

 ――叶わない。

 俺の望みは、叶わない。

 女神には、どうやったって叶わない。

 脳内で女神にどう抗おうと考えても、そのすべてが、先ほどの圧に押し潰されてしまう。

 まるで重すぎる鎚でずっと壁に押し付けられているように、体が動かなかった。

「おっと……失礼しました」

 そう言って、ふっと笑みを溢す女神。先ほどの圧のせいでその笑みさえも恐ろしいものだったが、女神から発せられた圧は解けたようで、急に解き放たれた俺は崩れるように手を地面に着いた。

「私は、あなたとは良い関係を築いていきたいのですよ」

「……なにを……言う……」

「というのも、あなたにはやってほしいことがありまして」

「……ふざ、けるな。俺は十分な、人生だっただろう。これ以上……何をさせる……」

「その反抗心やよし、ですね。女神にそこまで楯突く人はそういないです。誇っていい。私は、あなたに適正があると見込んで声をかけたんです」

 散々な人生だった俺に、何を求める。唯一、心当たりがあるが――

「あ、言っておきますけど、あなたが考えてることではないと思います。あなたの頭脳なんか、私に比べたら……。そんなものより、もっと良いものです」

「良い……もの?」

「あら、頭脳を否定されても怒らないんですね」

「……ふん。今さら、そんなもので……」

「そうでしたね。前世ではもっと大変でしたね」

 女神は、こほんと咳をひとつすると。

「あなたは、人間を恨んでいる……ですよね?」

「……ああ」

「そんなあなたにやってもらいたいことがあるのです。――それは、人間の矯正、です」

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