第14話 この苦しみから解放される術は

 ……心のどこかで、彼は泣かないんじゃないかって思っていた。

 クラスメイトに殴られても、ものを壊されても、彼はいつも無抵抗だった。体は怪我をしても、心だけは動じていないんじゃないかって思うほどだった。

 どうでもいいと言わんばかりな表情で、すべてを受け流しているんだと思っていた。

 けど、そんな考えは彼の頬を見て一変する。

「ぅぅ……ぅぁぁぁあっ……」

 くしゃっと顔を悲痛にゆがめて、何かに耐えるように合わせていた手をぎゅっと握りしめる。

「俺のせいで……俺のせいで……すみません……シロさん……」

 ――違う。悪いのは太助君じゃない。

 彼の小さな背中を抱きしめて、そう言ってあげたかった。けど、そんなことを言う資格は私にはない。私も、シロを殺した一人なんだから。

 だから、私は心に深く刻み込む。

 もう二度と彼を傷つけさせない。彼に襲い掛かるものすべてを払って、普通に過ごせる日々を送らせてあげる。

 彼はもう十分クラスメイトのいじめに耐えた。あとは、私が何とかしてみせる。

「俺、シロさんに何も返せてないです。……これからだった。ぜんぶこれからだったのに……」

 彼はいつの間にか目を開いて両手をほどいていて、背を丸めて地面を眺めていた。

「本当はこんな社会なんて変えて、二度とシロさんのような存在を生まないようにしたいです。けど、もう疲れました……。ねえ、シロさん。俺はもう休んでもいいでしょうか……」

 ――今はゆっくり休んで、太助君。学校なんて辛いところ、しばらく休んじゃっていい。家でゆっくり休んで。その間に、太助君をいじめる人をいなくさせるから。

 そのあとに、一緒に社会を変えよう。太助君は隠していたけど、本当はすごく頭がいいってこと、私は知ってるんだから。そんな太助君なら、社会なんて簡単に変えられるわ。

「じゃあ、少しのさよならです。また、会いましょう?」

 太助は体を木で支えながら、ゆっくりと立ち上がった。そして、彼の自宅がある私のほうへと――

「あれ?」

 彼は、私がいる方とは反対の方角から、公園を出て行ってしまった。

 家はあっちじゃないはずだけど。そう思いながら公園を横切ろうとして、段ボールと小さな土の山が目に留まった。

 私は足を止めて、シロがいるであろう土の山の前にしゃがみ込む。

 そして彼と同じように両手を合わせて目をつぶった。

 ――シロちゃん。あなたを殺した私が手を合わせるなんて嫌かもしれない。けど、これだけは言わせて。ごめんなさい、と。

 私は目を開けると、鞄からピューレを取り出しシロの前に置いた。

「これ、本当は今日あげるつもりだったのよ。太助君と一緒に、食べるのを見るの楽しみにしてたのにな……」

 昨日の夜、ネットでピューレを追加で買ったばかりだった。

「あ、そろそろ行かないと。太助君を見失っちゃう。また明日もピューレあげるから、またね」

 顔を上げると、夕日は眠る支度を始めていて、辺りが木々で覆われていることも相まってずいぶんと暗くなってしまっていた。

 家に帰ったのなら、チャイムを押して呼んで謝れるのだけれど、家に帰ってないとなると探さなければいけない。

 この気持ちは、明日ではなく今伝えたかった。

 だから私は、彼が歩いていった方向に向かって走り出す。



 彼が行きそうな場所といっても、私は彼のことを何も知らない。

 コンビニやスーパー、カラオケやゲームセンター。高校生が立ち寄りそうな場所はほとんど回ったつもりだけれど、彼を見つけることはできなかった。

 そもそも私が友達と外で遊んでいるとき、彼の姿を一度も見かけなかった。ほかのクラスメイトには何度か遭遇したけど、彼がそのような遊ぶ場所にいる姿は見たことがない。

 彼を見る場所は、学校や通学路くらいしかない。

 ……学校か。そういえば、彼が公園から出ていったのは、家の反対方向。つまり学校だ。

 学校に行ったのかも。けど、何のために?

 私はその理由を考えながら、学校へと走り出した。

 もしかしたら、太助君もクラスメイトに対抗するのかも。その準備をしに、学校へ行ったのかもしれない。

 だとすると、私も手伝おう。残念ながら私には教科書を隠すとか、そんな幼稚なことしか浮かばないけど、彼ならすごい方法を編み出すかもしれない。

 私では逆立ちしたって思いつかないような、あっと驚くような方法なんだろうな。

 けどその前には、まず太助君に謝らなければ。

 学校に近づくと、帰宅時間なのだろう、大きなバッグを背負い帽子をかぶった野球部らしき生徒や、制服を着崩さず校則のままきっちりと着ている吹奏楽部らしき女生徒などとすれ違う。

 しかし太助君の姿は見当たらず、そのまま校門へとたどり着く。

 校門と校舎を挟むようにしてグラウンドがあって、そこでは体育着を着た男子生徒がサッカーのゴールやボールなどの後片付けに追われていた。

 早くしないと、学校の先生に下校時間だと追い出されてしまう。

「太助君はどこにいるのかしら。時間もあとちょっとしかないし」

 残り時間は何分だろうかと、私は校舎に取り付けられている時計に目をやる。

「えっと、あと10分……え……」

 視線を上げた先、校舎の時計のすぐ上に人影があった。ここからではよく見えないが、高校生とは思えないほど小さな体をした人影。片腕を寒そうに抱え何メートルも先の地面をじっと見つめて――

「え、うそ。まって、太助君?!」

 私は何かに突き飛ばされるように走り出した。



「僕」では、きっとそんな勇気も出せなかっただろう。

 机の角を見る度、鋭利な刃物を見る度、引き金を引くだけで楽になれるものを見る度、何度もその考えが浮かんだはず。「僕」がそれをじっと見ている姿を、俺はずっと見ていた。しかし、「僕」にはそんな覚悟もなく流されるままに生きていた。

 けど、それとももうさよならだ。

 心が動くことさえおっくうで、何も感じたくない。肌ひりひりと焼く夕焼けも、頬を撫でるぬめっとした風も、なにもかもいらない。

 これで終わりにしよう。

 ああ、これでなにもかもが無くなる。

 俺は水平線へと飲み込まれていく太陽に手を伸ばして――



 一段飛ばしで階段を登っていく。手すりを掴み己の体を引っ張って速度を上げていった。

 リノリウムの床をキュキュッと激しく鳴らしながら、ひたすらに上を目指して駆けていく。

 そして最上階へとたどり着くと、屋上へ続く扉を体当たりで開ける。肩に激しい痛みを感じたけれど、そんなことは無視。

 急に開けた視界に目がちかちかする中、私はくるっと振り返り扉の上を見上げる。

 ――ここが時計の上だから、太助君もここに――

 それを見た瞬間、さぁーっと血の気が引いていった。

 彼は虚空に手を伸ばして、体の半分がもう屋上の淵の外に出ていて。

「た、太助君!」

 その声に振り返った彼。目は髪に隠れてほとんど見えなかったけれど、口元は今まで見たことがないほどに笑っていた。

 と、太助君を認めた時からゆっくり動いていた時が解き放たれたかのように動き出し、一瞬で彼の姿が地面に吸い込まれたように消える。

「まって!」

 私はフェンスをガシャンと鳴らして地面をのぞき込む。

 頭から無抵抗に落ちていく姿が、嫌に脳裏に残った。

「え、うそ。うそうそうそ。だって、これからじゃない。太助君に謝って、一緒に社会を変えるのに、変えたかったのに……」

 私はフェンスに何度も頭を叩きつける。がしゃがしゃというフェンスの音が、私の耳を覆いつくす。その音で聴覚を埋め尽くしていないと、気が狂ってしまいそうだった。

「うそ、だって。違う。違う。え、私? 私が殺した? また私が殺しちゃったの?」

 と、急にふっと糸が切れたみたいに足の力が抜けてその場にしゃがみ込む。

 太助君をもっと知ろうとしていれば、もう少しここに早くたどり着けたかもしれない。

 シロちゃんに銃を向ける佐藤君を止めていれば、シロちゃんも太助君も死ななかったかもしれない。

 佐藤君に怯えてシロちゃんを売らなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。

 取り返しのつかないことだらけ。手を伸ばしても、すべてがつかめないところまで飛んで行ってしまった。

「ううぅうっ。ぅぅうぁああぁぁっ!」

 慟哭は、夕日が完全に沈んだ夜空に消えていった。

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