第13話 お墓

 玄関の扉を勢いよく開いて駆けこむ。

 ひとりでに閉まっていく扉の音を聞きながら靴を脱いで、いつもあの子が寝ているところに駆けていく。

 部屋の扉を開くと、僅かに斜陽が差し込む薄暗い部屋の隅っこに、真っ黒な塊があった。

「ううっ……ヴァルちゃんっ」

「うにゃっ」

「私……わたしぃっ……」

 宇宙のように吸い込まれそうな真っ黒の毛に、顔を埋め込んでいく。

「私……猫、殺しちゃったのかな……」

 頭の中には、シロが撃たれて泣いている声がリフレインしていた。目を閉じれば、気が狂いそうな真っ赤な血が浮かび、目を開くと、ヴァルの体に深く刻まれた怪我が――

 私はぶんぶんと頭をふるって、改めてヴァルを見る。

 そこにはもちろん怪我なんてなかった。滑らかな毛並みがあるだけ。

 もしヴァルが怪我なんてしていたら。そう考えるだけで、全身を気味の悪いものが這っていく。

「あ……そっか……。誰だって、自分の猫を傷つけられたら怒る……わよね……」

 ――あの時は怖さばっかりで、太助君が言う通り自分勝手だった。

 猫の命よりも、私は確かに自分のことを優先していた。

「こんなんじゃ、ヴァルちゃんと一緒に住む権利なんてないわ……飼い主失格よ……」

「にゃー」

 ヴァルを撫でる手の甲に、しめっぽくざらざらとした感覚。見ると、珍しく私の手を舐めていた。

「あは……はは……。こんな私にも、優しくしてくれるのね」

 私はあお向けになって、天井に手を伸ばす。

「私って……なにがしたいんだろう……」

 太助君に話しかけて。忘れられちゃったけど、いきなり首に大きな怪我をして登校してきたときは驚いて、忘れられたことなんて吹き飛んで。手当してあげて。でも、結局は、彼の大切なものを失わせてしまった。

「はぁ……」

 温かなぬくもりに頭をうずめながらついたため息は、天井に飲まれて消えていった。



 公園には、ざざっと土を掘る音と、風が木々を擦る音だけ。それ以外は何も聞こえなかった。本当に、何も。

 俺は気づけば止まってしまう手を無理矢理動かす。本当は、このまま何も考えずにぼーっとしていたい。精神が重力に引っ張られているのではないかと思うほどに、心がずーんと沈んでいく。

 ちらりと段ボールに入ったシロを見るが、鳴くどころかピクリとも動かない。

 俺は、擦れて燃えるような熱さを持ち始めた手先を無視して土を掘り続ける。こんな痛み、シロが感じていたものに比べればなんてことはない。

 シロは、何もしていない。ただ、生きていただけだ。それなのに、自分勝手な人間の快楽のために殺された。

 そんな世界、間違っている。きっと、俺の目の前にいるシロ以外にも、人間によって殺される存在は無数にいるのだろう。

 これ以上シロと同じ思いをする存在を無くすためにも、世界を変えてみせる。

 ……けど、俺になにができるというんだ。佐藤にすら敵わなかった俺が、世界相手になにができるというのか。

 それに、もう、疲れた……

 変えようと動いたところで、家には両親がいるし、学校に行けばクラスメイトがいる。まずはそこから変えていかないと、世界なんて変えられない。

 けど、どうやって? こんな軟弱な体で、どうやって両親に立ち向かう? どうやってクラスメイトを説得する?

 果たして、世界を変えるに至るまでに、俺の心は持つのか?

 それすらも、考えたくない。思考が無理やり停止させられる。

 もう、疲れた。

 俺は十分に穴を掘ると、段ボールに寝そべるシロに手を伸ばす。

 考えてみれば、俺はシロにもらってばっかだった。乱雑に叩きつけられる日々に、落ち着く時間をくれた。

 けど、俺はなにが出来た? ご飯をあげられたけれど、そんなことは当たり前のことだ。俺はシロに、なにも返してあげられてない。

 シロは、生きていて幸せだったのか?

「シロさん……すみません……」

 俺はそっと、シロの体を抱き寄せる。ほんの少しだけ残る温かさを肌に感じ、口元にそっとキスをした。

 俺とシロが初めて出会った木の下。そこに堀った穴に、俺はシロを寝かせる。

 そしてその上に土を――土を――

 土を被せれば、本当にもう出会えない。そう考えると、心をぞわっと撫でられたような不安感が襲った。

「くっ……シロさん……さ、さようなら……」

 最後にもう一度だけ、シロの毛並みを撫でる。

「ははっ……手が痛すぎて、何も感じないな…………」

 俺は意を決して、シロの体に土を被せていった。

 だんだんとその姿が見えなくなっていく。そして残りは顔だけとなって、そこでまた土を被せる手が止まった。

「最後に……。ああ、やっぱり、何も感じない…………今度こそ、さようなら……シロさん」

 シロの全身が、見えなくなった。それからも俺は土を被せ続ける。

 1つ土を被せるごとに、やっぱりもう一度触れたいという思いが湧き出てくる。

「シロさん……」

 これを逃したらもう二度と触れることは叶わない。だが、これ以上はシロも疲れるだろう。しっかりと休ませないと。

 何度手が止まったか分からない。そのたびに沸き起こる、土を掘り返してシロを抱きたいという思いを振り切って、ようやく掘り返した分をすべてシロの上に被せ終える。

 その上に木の棒か何かを立てようとして、思いとどまる。そんなことをすれば、ここに墓がありますよと言っているようなものだ。好奇心で誰かが掘り返してしまうだろう。

 ここにシロがいるのは、俺だけが知っている。ほかの人間に知られたら、きっとシロは汚されてしまう。ならば、ほかの人間は知らないほうがいい。

 俺はシロのすぐそばに寄り添うように座ると、両手を合わせて目をつぶった。



 このままでは駄目だ。このまま家でぐずぐずしていても、何にもならない。むしろ、今動かないと取り返しのつかないことになる。

 彼との関係が終わってしまう。

 私はヴァルを一撫ですると。

「思えば、さっきの私ってかっこ悪かったよね。佐藤君のせいにして、自分のことばっかで。太助君の言う通り、シロちゃんを……殺しちゃったのは私なんだ。……ヴァルちゃん、待っててね。私、ちゃんと謝ってくる。」

 頬に残った涙跡を拭って立ち上がり、部屋を出た。

 玄関を開けると、外は夕日が家々に隠れるほど落ちていて薄暗い。

 けど、まだ見えないほどじゃない。ゆっくりと閉まる玄関を押すように閉めて、その反動で走り出した。すぐに鍵を閉め忘れたことに気づいたが、その時間すら惜しかった。もうすぐお母さんが帰ってくるから大丈夫と、私は公園へ向かって走り出す。

 何を言うかはまだ決めなかった。ただ、太助君に会って謝りたいだけ。

 今言葉を決めてしまったら、なんというか、誠実じゃない気がした。事前に決めた台詞をただ読むだけ。そんな言葉では彼に伝わらないと思った。

 だから、彼を目の前にした時の言葉で、素直な言葉で、思いを伝える。

 ざざっと公園の木々がこすれる音が聞こえ、私は走るスピードを速めた。

 太助君は、まだいた。段ボールの傍、盛り上がった土の前でしゃがみ込んでいる。

 何をしているのかと思ってそっと近づき、木の陰から覗くようにして彼の様子を窺う。彼は両手を合わせて目を閉じていた。

 あれは、シロのお墓?

 木々のざわめきの中、彼の周りだけがまるで神社のような荘厳な雰囲気を持っている。

 よく見てみると彼は素手で地面を掘ったのか、爛れたように指先がめくれていた。

 見ているだけでも心が痛いのに、本人はただ無表情に目をつぶるだけ。風に靡く前髪すら感じていないのではないかと思うほど、何も動かない。

 ――いや、じっと見ていると、確かに少しだけ動いている。

「うぅ……ぅぅ……シロさん……」

「っ……」

 その、風に飲み込まれそうな小さな呻きが聞こえて、私はハッとする。

 彼の口はふるふると震えていて、痙攣するように瞼がぴくぴくと動いていた。

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