第10話 対象
「こんにちは、シロさん。今日はご飯を持ってきましたよ」
「にゃ?」
僕はピューレを取り出すと、きりとりとかかれている部分を切っていく。ぎりぎりまで詰め込まれていたのか、切った瞬間溢れだし手にこぼしてしまう。
と、シロは段ボールからジャンプして飛び出し、僕のピューレがついた手を、己の手で引き寄せた。そしてぺろぺろと舐め始める。
「ふふっ。かわいい……」
己の手で僕の手を押さえる姿に、決して逃さないぞという意思を感じ、あまりにも一生懸命な姿にほほえましさを感じる。
「せっかくなら一緒に食べましょう」
僕は先ほど烏羽からもらったお菓子、チョコを口に放り込む。
夏の残りで溶けかかったチョコが口全体に広がり、全身の力をほぐしていく。甘さの中にほろ苦さが含まれていて、くどく無い程度にチョコの風味がいつまでも口に残り続ける。
シロを見ると、僕の手に出したものは食べきってしまったのか、ピューレの口を直接舐めていた。が、それだけでは当然ピューレが出てくるはずもなく。しばらく舐めていたがしびれを切らしたのか、手でちょいちょいとピューレを出そうとしていた。
「すみません。今出します。そんなに気に入ったんですか?」
問うが、食べるのに必死になっているのかこちらに耳すら傾けない。
気に入ったのならば烏羽からもらえるかもしれないが、欲しいと言ったら嫌な顔をされないだろうか。
…………
「明日、聞いてみましょうか」
いつもなら自分から行動を起こすのは不安なのだが、シロの食べるのに夢中な姿と、烏羽の巻いてくれたハンカチに、僕は背中を押された。
予鈴が鳴る数分前に教室に入り、僕は早速烏羽の姿を探す。その姿はすぐに見つかったのだが、その傍には僕をよく虐げている男の姿があった。
どうしようかとそちらをちらちら見ていると。
「あ? 何見てんの?」
「い、いえ……」
「ちっ。最近なんか目障りなんだよ。首にやべー怪我したかと思えば、急に明るくなりやがって。なにかいいことでも見つけたのか? なあ、それ俺にも教えろよ。なんだ? 酒かたばこか? それとも薬か?」
「ち、違います……」
にやにやと笑いながら、男はこちらにじりじりと寄ってくる。
僕は無意識のうちに烏羽を見るが、ふいと顔を背けられてしまった。
え……? たまたま? そう思って彼女が向いたほうを見てみるが、眼前に迫った男に視界を遮られる。
「じゃあ、なんなんだよ。あ?」
「いえ、えと……」
この男にシロのことを話したら、いじめの矛先が僕からシロにいくかもしれない。それだけは嫌だ。シロは捨てられ飢えに苦しみ、十分に嫌な思いをした。これ以上痛い思いはさせたくない。
僕が口をつむっていると、男は諦めたのか小さく首を振った。
「まあいい。それよりも、いいことがあると心にも余裕が生まれるのか? だから首にスカーフなんか巻いておしゃれしてんのか?」
「いえ、あの、おしゃれじゃなくて……ハンカチ……」
と、急に男が顔を近づけてくる。そして耳元で低い声を響かせた。
「お前は俺に一生勝てない底辺の存在なんだ。……覚悟しろよ? 心に余裕ができる隙間なんて無くなるくらいに潰してやるから」
と、男は大きな手を僕の首に伸ばしてきた。僕は首を絞められると思い首に力を――
ばりっと首に張り付いていたものが取られ、まだ残る首の傷に響いて顔をしかめる。
気がつくと首の辺りがすーすーしていて、見ると男の手にはハンカチが握られていた。
「あっ……」
男の後ろで烏羽が、小さく声を漏らした。
「なんだ。本当にただのハンカチじゃねぇかよ。……って、「からすば まお」? おい。どういうことだ?」
「いやっ。あの。た、たぶん、私が落としたのを彼が拾ったのかしら。さ、探していたのよ。まさか、こ、こいつが持っていたなんて」
目を四方八方に動かしながら、震えた声で言葉を紡ぐ烏羽。心なしか呼吸が浅く、あげた口角も引きつっているように見えた。
いつの間にか教室内は静まり返っていて、誰もが男と烏羽に注目している。
烏羽もそれに気づいたのか、居心地が悪そうに己の腕を抱いていた。
ていうか、このハンカチは僕に巻いてくれたものじゃないのか? なんで彼女は嘘を言う?
「……ちょっと来い」
「あぅ……うん」
すたすたと教室から出ていく男と、少し駆け足気味についていく烏羽。烏羽は腕をさすりながら、どうしようどうしようとぶつぶつ呟いていた。
二人が教室から出ていき遠ざかっていく足音が聞こえなくなると、教室内は一気に喧騒を取り戻す。
「てか、首の怪我やばくない?」
「お、俺しーらない」
「ちょっ。私だって知らないわよ」
「俺たちは何にもやってないもんな。きっとどっかで転んだんだよ。きっと」
「そ、そうね。さ、そろそろホームルームが始まる時間。席に着こーっと」
そう言って僕の周りから人が居なくなっていく間、僕は彼女の言葉や態度が頭の中をぐるぐると回っていた。
「円安とは、外国の通貨と比べて円の価値が安くなることを言います。金額だけ見ると円が高くなっているから紛らわしいですが――」
黒板に書いてある絵を指しながら説明する先生。
と、不意にがらがらと教室の扉が開かれる。先生を含め教室の視線が一気にそちらに注がれた。
開かれた扉には、先ほどホームルーム前に出ていった二人、男と烏羽が立っていた。
「あ、すみませーん。ちょっとこいつが貧血だっていうんで保健室に連れて行ったんですけど、先生居なくてー。けど、もう大丈夫って言うんで戻ってきました」
「そ、そうなんです。ちょっと貧血気味だったんですけど、もう大丈夫です」
男は頭を掻きながら、烏羽は申し訳ないと頭をぺこりと下げながら言う。
「おう、そうか。なら授業はもう始まってるから席に着けー。烏羽、また体調崩したらすぐに言うんだぞ?」
「は、はい。けど、もう大丈夫です」
頭を下げながらささっと自席へ戻っていく。ずっと視線を床にやっていて、口がわなわなと震えているように見えた。それは席についても同じで、拳をぎゅっと握って教科書に目を落としている。
それをどこか冷ややかな目で見ていた男だったが、やがて男も自席へと歩いていった。
ゆっくり話せる昼休み中に烏羽から話を聞こうと、授業中はずっと考えていた。どう話を切り出そうか、そもそもどうやって呼び出そうかという考えが頭をめぐり、先生の話は耳から抜けていってしまっていた。
が、いざ昼休みになると、椅子を引くことができなかった。もし首の手当てをした記憶はない、なんて言われてしまったら、むしろ彼女までもが危害を加えてきたら。そんな考えが頭をよぎる。
そもそも、僕の記憶違いではないのか。シロを一時的とはいえ忘れていたのだから、その影響で記憶に齟齬が発生してしまったのではないのか。
その考えがまとまってから話しかけようと思っていたが、気づいたころにはもう昼休み終了まで10分を切っていた。これでは落ち着いて離せないなと思い、放課後にゆっくり話を聞こうと思った。
しかし放課後になるとすぐに、僕を虐げる男とその友達は、烏羽と一緒に教室を出てしまう。
顔だけでも見ようとしたが、烏羽は男と友達に囲まれながら教室を出ていったためよく見えない。だが、肩を落として己を囲む人たちに怯えているような、そんな様子をしていた。
――もしかして、矛先が僕から烏羽へと移った? そのおかげで今日は何事もなかったが、そのかわり烏羽が虐げられるのか?
…………
おかしい。僕はなんで立とうとしている? どうして彼らのもとへ向かおうとしているんだ?
このまま家に帰れば、これから学校では嫌な思いはしなくて済むんだ。
家では相変わらずだろうが、少なくとも学校で痛い思いや苦しい思いをしなくて済む。いいことじゃないか。
なのになんで、こんなに心は焦っている?
ここで行かなければ、なにか取り返しのつかないことになってしまいそうな、そんな感覚。
せっかく嫌な思いをすることが1つ減るというのに――いや、確かに1つは減るが、結局もう1つ増えるじゃないか。
教室で僕は虐げられる側だった。それがなくなって、今度はそれを見る側になるのだ。
僕を助けてくれようとした彼女の、そんな姿なんて見たくない。
僕は勢いよく椅子を引く。教室に残った数人が僕に注目し、それを尻目に僕は教室を出ていった。
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