第9話 烏の名前
僕は段ボールの中に猫を寝かせた。
激しい雨が木々をがさがさと、地面をばちゃばちゃと掻き鳴らし、それ以外に周囲の音は何も聞こえない。
猫が雨の中を駆けてきてくれたせいか、全身が濡れてしまっていた。
僕は上着……はもうぐっしょりなので、その一枚中に着ている服を脱ぐ。多少濡れているが、猫の体を拭いてあげるには十分だ。
僕は片手に服を持って、猫にそっと触れていく。
どうふき取っていけばいいかわからないから、とりあえず毛並みに沿って撫でるように。
「うにゃー」
と、どこか満足げな声を上げて寝転がる猫。それを見て、僕も間違ってはいないのかなと安心する。
あらかた拭き終えると意外と濡れてしまっていたのか、服は水分を吸ってずいぶんと重くなっていた。
それにしても……
「猫さん……本当は真っ白なんですね」
今までは土やら枯れ葉やらで汚れてしまっていたが、それが雨と服でふき取られると真っ白な毛並みが露わになっていた。
ふと、一つの単語が頭に浮かんだ。それを口にして、僕は猫に手を伸ばそうとする。
「シロ……なんて、安易かもですね。けど猫さん、名前を付けてもいいですか? えと、勝手でしょうか……」
問うがもちろん答えなんて帰ってくるはずもなく。しかし猫は、撫でようかと戸惑った僕の手に顔を摺り寄せてきた。
「ふふっ。いいですか? シロさん」
しばらく頭を撫でていると、不意にシロが頭を少し乱暴に動かし始めた。そして、ぐいぐいと僕の手に押し付けてくる。
もっと撫でてほしいのかと思い撫で続けるが、シロの動きは変わらない。
何事かと撫でながら見ていると、僕の手に頭を押し当てているというより、どうやら首の辺りを押し付けているように見えた。
試しに首を、くすぐるように撫でてみると。
「にゃにゃっ」
「おお……」
ぐでーんと首から倒れるようにあお向けに転がった。猫はこういう風に撫でるといいのか。
僕はその様子に肩の力がだんだんと抜けていくのを感じ、シロと同じように横に寝そべって撫で続けた。
「きりーつ。礼。さようならー」
「「さようならー」」
昨日に引き続き、クラスメイトが僕に危害を加える様子はなかった。
帰りにだろうかと思い、いつも僕を虐げてくる人をちらっと見てみると。
「えっ? それ大丈夫なやつ?」
「当たり前だろ? ただのガスガンだよ」
「ガスガン? 本物じゃないの?」
「ただガスで動くやつだよ。火薬とかは入ってない」
「なーんだ。おもちゃの銃か。びっくりしたー」
「は? おもちゃだからって馬鹿にするなよ?」
「ば、馬鹿になんてしてないって」
「まあいい。実はな? これは秘密なんだが……おい、お前らちょっと寄れ」
と、数人が壁を作るようにして周囲の視界をさえぎった。
僕はその隙間から見えるリボルバーっぽい銃を尻目に、教室から出た。
階段を上がってしばらく歩く。そこは空き教室が並ぶ廊下。その端に二つの蛇口があり、僕はその一つをひねった。
じゃーと流れる音が廊下に響きわたる。それ以外の音は何もなかった。
僕は首に巻いてくれたハンカチを、乾燥した血が皮膚からぺりぺりと剝がれていく感覚を覚えながら外していく。
これをくれた彼女が言うには、きれいにしておかないといけないらしいので、水で洗っていく。僕が持っている、数年使い古したハンカチとは比べ物にならないほど滑らかなハンカチ。なるべく痛まないようにと優しく洗っていった。
しかし、うっすらと血の赤が残ってしまっていた。どうしようと思っていると、ハンカチの端に刺繡でもしたのか、小さな引っ掛かりを手に感じる。
見てみると、そこには金糸のきらきらした刺繍がされていて。
からすば まお
と書かれていた。彼女の名前だろうか。ひらがなで書かれているため、どこか可愛らしさを感じた。子供の時に作ったものだろうか。
「あ、太助君。ここにいたんだ。偶然だわ」
「っ……」
ばっとそちらを振り向くと、手をひらひらと振る女生徒の姿があった。昨日僕の傷を手当してくれた人だ。
「そ、そんなに驚かないでよ。私までびっくりしちゃうじゃない。まあいいわ。で、そのハンカチ、きれいにしてくれてるのね」
彼女は僕の横に立つと、しきりにハンカチをいろいろな角度から見始める。
「で、どう?」
「え、えと。汚してしまってすみません……あ、あの、新しいの……買えないんですけど……」
「え? いや、そのくらいいいわよ。あげるつもりだったんだし。で、見たわよね?」
「見た……? えと、刺繍のことですか? 綺麗ですね。えと、からすばまおさんっていうんですか?」
「そうそう、そうよ。私は烏羽茉桜。漢字は――」
指先で虚空にすらすらと書いていく。
「名前の入ってるそのハンカチもあげたし髪留めもあげたんだから、忘れないでね」
僕はこくんと頷く。
「そういえば太助君。なにかいいことあった?」
「いいことですか?」
「ええ。首に怪我してる人に言う言葉じゃないと思うんだけど。いつもと雰囲気が違って、ちょっと明るめかなって」
「……そうですね。昨日、猫さんに会いました」
「ね、猫? どこで会ったのかしら?」
「こ、公園です。あの、コンビニ近くの……」
「ああ、あそこね。名前はあるのかしら?」
「えと、シロさんです」
「へえ、シロちゃん。で、種類は?」
「種類? ね、ねこ?」
「違うわよ。ほら、ペルシャとか、スコティッシュフォールドとか、いろいろあるじゃない」
「えと、白い猫で……」
特徴を言おうとしたが、他の猫をじっくりと見たことがないため、ほかの猫と比較してどんな特徴があるとかがわからない。
「猫さん、好きなんですか?」
「ええ、もちろんよ。嫌いな人なんてほとんどいないんじゃないかしら。……それにしても太助君から、猫さん、なんてかわいらしい言葉が出てくるなんて、ふふっ。笑っちゃうわね」
ぐーともぱーともつかない手で口を隠しながらくすくすと笑う彼女。
笑われるとき、いつもなら胸がきゅっと搾り取られるような感覚を覚えるのだが、今は彼女の笑みが綺麗だなと思った。
「あ、そうだ。 私も猫と一緒に暮らしてるんだけどね。よかったら、えーっと、あった。これ、あげる」
そう言って彼女は鞄から、包装されたスティック状のものを取り出した。
「ぴゅーれ?」
「そうそう、はしっこを少しだけ切って押し出すと、中からジェル状のピューレが出てくるのよ。それを少しずつあげるの」
「こんなに高そうなもの……いいんですか?」
「え? 高くないわよ? 袋で買ったから、1本だいたい5,60円くらいかしら」
「でも、それだけでもやしとか3袋くらい買えますよ? それだけあればお腹いっぱいです」
「そりゃあ私だってもやしをそれくらい食べればお腹いっぱいになるわよ。まあそれ以前に飽きちゃうけどね。てか何の話よ。……とにかく、それあげるわ。またほしくなったら言って。まとめ買いしてるから分けてあげる」
「あ、ありがとうございます……」
僕はもらったピューレを触ってみる。なるほど、確かにジェル状だ。パッケージを見るとシロに似た猫が写っていて、背景には茹でた鶏肉を割いたものや色とりどりの野菜の写真が写っていた。
ふと、お腹の辺りがごろごろと鳴り出す。僕はきりとりと書かれた場所に手をやって――
「ちょちょっ。太助君のじゃないからね? 何食べようとしてるのよ。そりゃ自然のものしか使ってないから人間でも食べられるけど。無添加だから安心だし」
「むてんか? ってなんですか?」
「無添加ってのはね……添加物が入っていないってことよ」
「てんかぶつ?」
「ええ。それが入っていないと……。入っていないと……? あれ、どうなるのかしら。と、とにかく、体にいいってことよ。猫にあげるのは、やっぱり体に良いものじゃないとね」
「詳しいんですね」
「まあ、これでも猫の食事には気を使ってるから。でも、今あげたのはあくまでも猫のものよ? 人間は、ほら、これ食べなさい」
そういうと、彼女は鞄からお菓子を取り出した。
「なんでも入ってるんですね。食べるの好きなんですか?」
「い、いや、食べ物だけじゃないから……。ほら、教科書とか、ノートとか。まったく。いっぱい食べる女だって思われたら心外だわ。と、とにかく、これあげる」
「というか、ピューレに引き続き、悪いです」
「いいのよ、これくらい。さて、私もそろそろ行くわ。太助君の猫には会ってみたいけど、今日は友達と遊ぶ約束してるの。急に断ると嫌われちゃうわ。じゃ、またね」
遠慮する僕の手に無理やりお菓子を握らせると、彼女は手をひらひらさせながら廊下を歩いていった。
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