第8話 痛みと記憶
先ほどの女生徒からもらった猫の髪留めを掌に転がす。
見ているだけで心臓の鼓動が落ち着いていく。和むとは、こういうことを言うのだろうか。
……けど。最近、同じような経験をした気がする。
木製の猫では感じるはずもないのに、少しジトッとした毛並みが手に触ってくるような感覚を感じた。
手で梳くようにして撫でると、枯れ葉や土が手につくのだ。
けど、手を見てみても何もない。
毛並み……ということは……
「っ……いたっ……」
不意に首に痛みを感じた。スースーするようなものではなく、抉るような、食い込むような痛み。
思わず傷口に手を当てると、ぬるっとしていて生温かかった。
手を見てみると、目に真っ赤な血が飛び込む。
「っ……!」
あれ……深く考えようともしなかったけれど、そういえばこんな傷どうやって出来たんだっけ?
記憶を探ろうとするが、それ以上は止めろと言わんばかりに首の痛みが増していく。
ハンカチだけでは吸いきれなくなったのか、つつーと生温かい血が流れていくのがわかった。
じんじんと主張するように熱を持つ。あの消毒の染みる冷たさすら恋しくなるほどに熱くなり、立っているのも耐えられなかった。
膝から、重力に任せて崩れ落ちる。
膝にアスファルトのゴツゴツした感触を覚えたが、それもすぐに首の痛みに吸い取られていく。
――こんなに痛いなら、思い出す必要もないか。
諦めた瞬間、ふっと体の力が抜けたような感覚を覚え、じんじんとした首の痛みが引いていった。
しかしそれと同時に、まるで焦らせるように心臓が激しく鳴り乱れる。
本当に忘れたままでいいのか。思い出さなくていいのか。そうどこか急かすように、頭のてっぺんから足先まで響かせるように鳴っている。
ふと、彼女の言葉が蘇った。
「痛いのを無くすためにはね、この痛みを耐えなくてはいけないのよ」
この痛みも、そうなのだろうか。諦めるんじゃなく、受け入れて耐える必要があるのだろうか。
諦めようとしても痛みは引いた。が、それと反比例するように心臓が強く叩いてくる。
首の痛みは治れば消えるだろう。しかしこの胸の痛みはどうだ?
消毒をしてくれたわけでもない。僕自身がなんとかしなければいけないんじゃないのか。
いつもはこの痛みなど諦めていた。痛いなら痛いでいいと。抵抗するほど苦しいのだと。
しかし、心臓が諦めるなと主張してくる。
僕はその原因を確かめたくなった。
手には木製の黒猫。
血だらけになってしまったけれど、首には彼女のハンカチ。
その二つをぎゅっと握る。
そして首の痛みに神経を集中させた。
「ぅぐっ……」
すると、首を左右からぐいぐいと締め付けられるような痛みを感じた。
そして眼前には、顔を怒りと憎しみでぐちゃぐちゃにした母親の姿が。
「ああ、もうっ! さっさと倒れてしまいなさい!」
吐き捨てるように言うと、僕の首に手を伸ばしてくる。親指を喉に押し当てて、握るようにじわじわと気管を狭めてくる。
それを排除しようと、肺から大量の空気が咳として放出される。その度にケンケンと異常な音が喉から鳴り出した。
その苦しさに逃げ出そうと体の力を――
「……にゃ……」
「はっ……!」
気がつくと、僕の手は母親の手を握っていた。
「なによ……。私に抵抗しようっていうの? 犯罪者のくせにっ!」
犯罪者。その言葉に僕は、またも力が抜けて……いや、どうして犯罪者と言われている?
僕は何をしたんだ?
「……ゃー……」
もう片方の手が、窓を掴んでいた。
どうにか窓を引き離そうするが数センチほどしか動かず、力負けして勢いよく首に突き刺さる。
「うぐっっぅぅぅっ……ぁぁぁああぁぁっ」
力では及ばない。僕はそう考えて窓を掴む手を離し、拳を握った。
「母親を殴ろうなんて最低ね! 産んでやった恩も忘れてっ。けど、そんな体で私に叶うわけないじゃない!」
母親は、窓を押さえつける手はそのままに、僕の喉を締め付ける手を離して、拳を受け止めようとした。
僕は首に窓が食い込むのに負けないくらい、爪が食い込むほど手を握る。
そしてその拳を叩きつけた――
ガチャンと耳元でガラスが割れる音が聞こえて、骨が軋むほどの痛みと、ガラスが突き刺さった痛みが手を襲う。
「……っ」
だがその己の手は逃さずに、鋭利なガラスを手探りで探し、パリと窓から剥がす。
それを離すまいとぎゅっと握った。ぷちっと手が切り裂かれ、どくどくと血が腕を伝っていく。
「あんた……何してんのよ……」
信じられないものを見るような目で僕を見ながら、ジリジリと後退していく。
「にが……さない……」
僕は両足で母親の体を捕まえる。
「ちょ……っ。離しなさいっ。離しなさいっ!」
非力な僕では直ぐに解かれてしまうだろうが、それでいい。少しの間拘束できればいい。
頭で無理やり窓を開けると、薄っぺらい腹筋を振り絞って上体を起こす。
決して離さないように、胸の前でぎゅっとガラスの破片を握り。
「ぅぅぅぁぁぁっ!」
母親の首めがけて、それを振り下ろした。
「はっ……」
目覚めると、背中や頭にごつごつとしたアスファルトの感触。僕の視界いっぱいに、今にも零れてきそうな曇天が広がっている。
今まで熱されていたであろうアスファルトの熱と、少し肌寒く感じる湿っぽい風。
僕はその温度差に、だんだんとまどろみから解放されて――
「猫……さん」
そう呟くと、僕は今だ響き続ける首の痛みも無視して無理やり立ち上がった。そして走り出す。
僕は勝ったんだ。あの白いもやに。
僕はあの公園めがけて足を回すが、数十秒もしない内に貧弱で体力もない体は悲鳴を上げる。
喉の奥になにかがへばりついているように感じ、酸素を取り込む管が細くなった。吸っても吸っても足りなくて、息を吐いても吐いても古い空気が体に残り続けるように感じ、酸素と二酸化炭素の循環がうまくいかない。
足を地面につける度、いつかできたであろう傷に響く。しかし、響かせないようにやさしく足を地面につける余裕もなかった。
額にだらりと汗が垂れる。それを何度拭っても、また一つまた一つと汗が顔を伝っていった。その拭う動作すら疲れ、頬を伝う汗を無視して走る。
拭うのを止めてどれだけ走っただろう。足と腕の動きが自分でも把握できないほどにこんがらがり、それを処理できるはずの頭は、全身の熱にやられてしまいそうだった。
不意にぽつりと頭のてっぺんに水が落ちたかと思うと、それはやがて全身を覆いつくした。ざあざあと視界を灰色に変えるほどの叩きつけるような雨に、体の熱が解けていく。
足を止める要因が一つ減った。まだ走れそうだ。
そうして走った時間はどれくらいだろう。
ふと、木の澄んだ香りが、雨の匂いに混じったのを感じた。
いつのまにか地面がアスファルトから土に変わっていて、ブランコや鉄棒などの遊具が目に入る。
僕は鉄棒に手をついて、がくがくな足と倒れそうな体を無理やり支える。それを手すりのように使いながら、息を整えつつ歩いていった。
鉄棒の端までたどり着き前を見据えると、木の根元に見覚えのある段ボールが。
「はぁっ、はぁっ…………猫さん……っ」
僕は最後の力を振り絞るようにして鉄棒から離れ――
「ぅっ……」
膝の筋肉がぎゅっと押し固められたかのように動かなくなり、言うことを聞かなくなった足と、前に進もうとした体がちぐはぐに動いて地面に激突した。
「にゃっ……」
と、叩きつける雨音の隙間から猫の鳴き声が聞こえ、僕は段ボールへとどうにか顔だけ動かす。
その段ボールからぴょんと飛び出してきた白い猫は、一目散にこちらへと駆けてきた。
全身を地面に吸われそうなほど疲労した体を起こし、僕はその猫に向かって手を伸ばす。
「猫さん……っ」
「にゃにゃっ」
手に触れた毛並みは、やっぱりどこかジトっとしていて、雨に濡れているのかひんやりしていた。
しかし確かに温かみはあって。
僕はその陽だまりの残る体を、ぎゅっと抱きしめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます