第7話 傷の手当
「っ!」
差し込む日の光に、ぞわっと背筋が凍りつくような感覚を覚え目を覚ますと、朝の11時を回っているところだった。
「うそ……」
遅刻だ。
がばっとタオルケットをかけたまま起き上がると、首に刺すような鋭い痛みを感じた。手を当てるとぱきぱきとかさぶたが剥がれ落ちていき、タオルケットに引っかかる。
僕は窓を開けると、タオルケットをばさばさとはたいて血の破片を落としていく。
そして窓を閉めようとして、ふと手が止まった。すべて締め切ると、なにかが真っ二つに切れてしまうような、そんなおかしな妄想みたいなものが、僕の頭をよぎる。
おそるおそるゆっくりと窓を閉めていき。
「ん?」
窓の桟のところに、赤いものがこびりついていた。血だ。それは壁を伝って地面へと落ちるように伸びている。手で触れると、あっけなくぱりぱりと落ちていった。
「ぅっ」
不意に頭の中をかき混ぜられるような感覚を覚え、平衡感覚が消えていく。
「早く倒れなさいよ! ほらっ。ほらっ」
突如聞こえた声に気圧されるように、僕は地面へと倒れ伏す。
「首が……切れる……っ」
迫りくる窓を遠ざけようと手をがむしゃらに動かすが、何も手ごたえがなくただ中を掻くだけ。
「やめ……て……」
「ああ、もうっ! さっさと倒れてしまいなさい!」
それでも迫りくる窓を退けようと手を動かすと、首を絞めようと手を伸ばしてくる母親のそれをはじいてしまった。
「っ。すみません」
ひっぱたかれるか、腹を蹴られるか……身構えるが、衝撃はなにも襲ってこない。
それどころか、首の痛みも消えていた。僕はいつの間にか頭を守るようにしていた手を元に戻す。
……これは、いつの出来事?
どうして僕は首に怪我を負うような事態に陥ってしまったのだろうか。
なにか、思い出さなければいけないような……
それはそうか。また同じような目に合わないために、どうしてこうなってしまったのかは思い出さないと。
僕は記憶の糸を手繰り寄せるように思い出そうとする。しかし。
「いたっ」
その糸には薔薇のような棘が無数に生えていて、手繰り寄せる度に胸に痛みを感じた。
こんなに痛いなら、思い出さなくてもいいか。
そんなことよりも、学校に行かなければ。あまりにも学校に行くのが遅れると、保護者である母親に連絡が行ってしまう。
そうなれば、また暴力を振るわれる。
過去や未来の痛みよりも、今起きるかもしれない痛みを回避するほうが先だ。
痛いのは、嫌だから。
僕はがらがらがらと窓を閉め、制服に着替え薄い鞄を手に取って、部屋を後にした。
朝食が用意されているはずもなく、僕は水道で軽く顔を洗って水分をとると、玄関へと向かう。
がらがらと玄関の扉を開くと、地面には箒が倒れていた。掃く部分が致命的に曲がっていて、もう掃除をすることは難しそうだ。
と、急に軽快な音楽が家の中に鳴り響いた。チャイムの音である。
僕は思わず呼び鈴を見てみるが、傍には誰も立っていない。僕との距離も離れているし、誤って押してしまったわけでもなさそうだ。
誤作動かと思ってしばらく待ってみるが、またひとりでに鳴り始めることはなかった。
僕はつい首を傾げてしまい、いつの日か怪我したであろう首の痛みに顔をしかめる。
「いてて……」
首をなぞってみると、いくつかの引っ掛かりがあった。自分では見えないため、油断すると傷口に爪が引っかかる。それほどに深い傷だった。どうやってついてしまったのかを想像しようとすると、心臓をきゅううと締め付けられたような痛苦しさを感じる。
だから、思い出す必要なんてないんだって。これ以上痛い思いをする必要なんてないはずなのに、心は無理やり過去をこじ開けようとしてくる。
僕は心臓に痛みを感じながら、学校へと歩みを進めた。
ずっと心臓が痛い。
考えるのは止めようと思ってはいるのに、気が付くと昨日の記憶を手繰り寄せようとしている自分がいる。今日の授業中、ずっとそのことばかり考えていた。その度に棘が刺さる。
下駄箱に上履きをしまい靴を取り出すと、廊下の方から視線を感じた。
向くと、こっちを向くとは思っていなかったといわんばかりに目を開いて物陰に隠れた。艶やかに光る黒色の髪が中空に遊び、その持ち主に数瞬遅れて隠れる。
ああ、今日は何もないと思っていたけど、帰り際にか……
僕は靴に履き替えると、昇降口から外に出た。
校門を出てしばらく歩いていると、後ろから駆けてくる足音が。反射的に肩に、荷物を持つ手に力が入った。
「えと、あの」
が、相手は遠慮がちに、というよりなにか腫れ物を触るような様子で声をかけてくる。はぁはぁと小さく息を乱していて、顔が薄っすら赤みがかっていた。
濡れた烏の羽のような艶やかな髪の持ち主である女生徒は、僕の顔を、というより少し下の辺りをじっと見つめる。
「その首、大丈夫?」
「……は、はい。なんとも」
「うそ、ちょっと見せて」
彼女は少ししゃがみ込んで、僕の首の傷に顔を近づけた。僕の目の前で、黒猫の髪留めが揺れる。
……猫?
ふと僕の手に、いつかの感触を感じた。少し脂っぽいふわふわの感触。飢えているのか、その中にごつごつと――
「ちょっと染みるわよ?」
「いたっ」
まるで傷口にドライアイスを当てられたかのように冷たい感触。それと同時に、傷口の中を何かが侵食していく感覚。それらから逃れるように、僕は反射的に彼女の手をはたいた。
彼女の手から何かが落ち、見ると消毒液が地面に転がっている。
「あ……す、すみません……」
「じっとしていて。消毒してないわよね? しないとどうなるかわかってるでしょ? なんなら、私よりもわかってるんじゃないかしら」
「あの、手をはたいてしまってすみません」
僕は消毒液を拾うと、殴られるのではないかと思い、おそるおそる彼女へと手渡した。
しかし彼女は何も気にしていない……むしろ先ほどよりも柔らかい声音で答える。
「ごめんね。ちょっと急だったかも。次はゆっくりやるね」
「……いえ、痛いのは嫌なので、やってもらわなくて大丈夫です」
「だーめ。今は痛くても我慢するの。じゃないと後で膿んじゃうんだから。そのほうが嫌でしょ?」
あの時は驚いた。目が覚めると傷口から白い何かが溢れ出ていたのだから。
「はい……あの時は面倒でした」
「って、膿んだことあるの?」
「えと、はい。……いたっ」
すーすーした痛みに逃げようとするが、肩をがっしりと掴まれて動けない。意外と力が……
「あ、ちょっと今失礼なこと考えたでしょ。違うからね。太助君が非力なんだからね」
一般的な力など分からないが、今動けないのは確かだ。
「あの、ちょっと聞いてもいいですか?」
「お、ちょっと余裕出来たかしら。いいわよ」
「どうして僕を助けてくれるんですか? 何もしてあげられないですし、むしろ僕に関わっているとあなたまで暴力を振るわれますよ」
そう聞くと、彼女は目をそらして、ごまかすように笑った。
「全然助けてなんていないわ。こうすることくらいしか、私にはできないの。ごめんなさい」
「いえ、自分が虐められるかもしれないリスクを背負ってここまでしてくれるんですから」
「リスク……ね」
そう呟くと、彼女は辺りを見渡した。学校の人に見つかってしまったかと思ったが、そもそもここは人通りもほとんどない。学校の人どころか、それ以外の通行人すら見当たらなかった。
「放っておいたら膿んでたかもしれません。こんな見ず知らずの人の怪我を手当てしてくれて、ありがとうございます」
「ううん。けど、やっぱり見ず知らずか……」
「あ、えと、どこかで会ったりしてますか……?」
「まあ、同じクラスメイトなんだけどね……ははっ」
どこか諦めたような声音の彼女。もしかしたら、彼女は前から僕を知っていたのかもしれない。
まあ、教室内で虐められることもよくあるから、悪目立ちしていたのかも。
けど、皆が皆僕を虐めているわけではない……のかもしれない。
クラスメイトの名前なんて今まで覚えてなんていなかったけれど。
「あの、あなたの名前を聞いても……いたたっ」
今度は反対側の傷に消毒を当てられた。少ししても落ち着くどころか、傷の奥に浸透するような痛みに僕は、思わず手で傷口についた消毒を払おうとする。
が、手に傷口のかさぶたが手に引っかかって。
「いたぁっ」
「ああ、もう、なにしてるのよ。大丈夫。この痛みは太助君を苦しめるものじゃないわ。治すものよ」
「うく……ですが、痛いですよ」
「それはもちろん痛いわ。でも、その痛みから逃げると、さらに酷いことになってしまうのよ。膿んだりとか、悪化してずっと痛みが残ったりとか。それは嫌でしょ?」
「……そう……ですね」
「痛いのを無くすためにはね、この痛みを耐えなくてはいけないのよ。……さて、大体は終わったわ」
首に巻いてくれたハンカチをきゅっと結ぶと、彼女は手を離した。少し首に圧迫感があるが、気にするほどでもない。
「あの、すみません。治してもらって」
「ううん。保健室の先生に頼めばよかったんだけど、ここから学校まではちょっと距離があるし。こんな処置しかできなくて申し訳ないわ」
「いえ、すみません」
「すみませんじゃなくてありがとうを……やっぱいいわ。それが太助君なりの感謝の仕方なのだものね」
そう呟くと、肩をポンと優しく叩く。
「あ、私の名前なんだけどね、あとで教えるわ。今言葉で伝えても忘れちゃうだろうから」
「えと、じゃあ、僕の名前だけでも。僕は――」
「知ってるわよ。太助君でしょ? というか、さっきから呼んでたじゃない。とにかく私の名前、次はちゃんと覚えてよね?」
次? 今までも自己紹介をされたのだろうか。それに、いつ教えてくれるかもわからないし。
「じゃあ、私あっちの道だから。あ、そうそう。そのハンカチ、傷が治るまでは返さなくていいわ。傷が治るまでは使ってていいから。ちゃんと毎日洗って、きれいな状態を保つのよ?」
「わかりました」
僕はお礼とさよならの意味を込めて頭を下げると、彼女はその頭にポンと手を乗せた。
その手が離れるが、頭……というより髪に違和感を感じる。
それに触れてみると、小さな木製の何かが引っかかっていた。
「男の子の君はちょっと嫌かもしれないけど、もっていて欲しいの」
見ると、黒い猫の髪留め。自分のを取ったのかと思いハッとして彼女の頭を見ると、しかしそこには僕の持っているものと同じものがあった。
「それ、ちょっと古くなったからあげるわ。……今度は覚えていて欲しいから」
と、少し俯く姿はどこか不安げだった。
僕は手の中にある猫に目を落とす。
紺色に近い瞳はじっとこちらを見つめていて、首から背中に向けて滑らかな曲線を描いている。
「……かわいい」
「あ、太助君……」
「……えと、なんですか?」
「いえ、笑うんだなって。そんな顔初めて見たから。それを見られただけでも、あげた甲斐があったわ」
どこか満足げに笑う彼女は、僕から一歩離れるとひらひら手を振って。
「じゃあ、また明日ね」
「あ、はい。また明日……です」
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