第6話 犯罪者

 ばたんと何かが勢いよく閉まる音に、僕は目覚めた。時計を見ると、いつもより遅い時間に目覚めたことがわかる。けど、まだ学校には間に合う時間だ。

「太助っ!」

「ひっ」

 キッチンのほうから聞こえた母親の怒鳴り声に、僕は寝起き眼をこする暇もなく立ち上がった。

 呑気に寝るなと怒られるだろうか。そう思い僕は、寝起きでふらつく体を無視し急いでタオルケットを片付けた。

 と、勢いよく自室の扉が開かれる。ずんずんと母親が部屋の中へと入ってきた。

「おい、あんた! 勝手に牛乳盗ったでしょ!」

「え、えと……」

「なにしらばっくれてんのよ! 牛乳が無くなってるの! 証拠は残ってるんだからね!」

 やっぱりばれてしまった。ああするしかないとあの時は腹をくくったが、眼前に迫る怒りの顔に、僕は手が震えているのを自覚し、体の震えが止まらなくなっているのを感じた。

 もしもあげたのがばれてしまったら、あの猫も暴力を振るわれてしまう。それだけは避けなければ。あの猫は、十分に苦しい思いを体験している。苦しいことはもうさせたくない。

「人のものを勝手に飲むんじゃないよ!」

「え……飲む……?」

「そうよ! あんたが飲んだのはわかってるんだから! あの人が勝手に飲むわけないでしょ! 残ったのはあんたしかいないのよ!」

 ……そっか。猫にあげたことはばれていないみたいだ。そりゃあそうか。猫にあげた形跡なんか残しようがないからか。

 母親は大きくため息をついて、腹の底に響くかのような声を発する。

「最低。人のものを盗むなんて。正気の沙汰じゃないよ、あんた。犯罪者だよ、犯罪者」

「犯罪者……?」

「そうよ。この牛乳はね、私とあの人が汗水たらして働いたお金で買ったものなのよ。それを、あんたは何の苦労もせずに盗った。卑怯よ、卑怯。どうせ今までも誰かのものを盗んできたんでしょ。分かってるんだから。この意地汚い人間がっ!」

 ぺっと吐き捨てられた言葉に、僕は大きく心を揺さぶられる。大きく放たれた言葉と、眼前まで迫りくるような迫力に、僕は思わず後ずさった。

 犯罪……。そうか、僕は犯罪を……

 必死に働いて得たものを、僕は横からかすめ取るようなことをしてしまったのか。

「で、でも、ね……こ……」

「は? なによ! もっと大きな声で言ってくれないとわからないでしょ? それともなに、後ろめたいことだから言えないの? ほら、やっぱり盗んだんじゃない」

「あ……ぅ」

 牛乳を盗んだのは猫のためだ。けど、悪いのは猫じゃない。猫はただ空腹に苦しんでいただけだ。

 悪いのは。悪いのは猫じゃなくて。

「す、すみませんでした……」

 僕なのだ。

 僕は、母親にむかって頭を下げた。頭をはたかれるのも覚悟している。今回、僕は許されないことをしたのだ。だから、殴られるのも、暴言を吐かれるのも、すべて僕のせい。

 ぎゅっと目をつむり、後頭部への痛みに耐える準備を――

「そう、やっぱりあんたなのね」

 と、どこかその言葉を待っていたかのような声音が聞こえてきたかと思うと。

「最っ低」

 ざっと足をするような音が聞こえ、顔面に衝撃を受ける。妙な浮遊感を味わい、気が付くとお尻を地面に強打していた。

「ぅぅぁうぅ……」

 遅れて、燃えるような熱さと、鼻をつんと刺すような痛みが襲い掛かる。涙で視界がぼやける中何とか目を開くと、膝を振り上げた母親の姿があった。

 後ずさろうとすると、すぐに背中に壁がぶつかる。振り向くとまだ少し薄暗い外が、窓から見えていた。

「まさか、逃げようなんて考えてないよね? 人の物を盗んでおきながら、逃げようなんてさ」

 ……そうだ。僕は逃げてはいけないんだ。罪には、罰があるものなのだ。

 母親はゆっくりと近づいてくると、その手を僕の髪の毛へと伸ばしてくる。

「ぅくっ」

 頭皮がひん剥かれそうなほどの痛み。それに耐えていると、後ろでがらがらと窓が開かれる音がした。

 痛みを冷ましてくれるような風が当たり、頭皮の痛みが幾分か落ち着く。

 が、急に真上に引っ張られて、ぶちぶちと髪の毛が引きちぎられるような痛みとともに後ろに押し付けられる。窓の桟が首裏に食い込み、どんよりと曇った空が視界に飛び込んできた。

 と、ぱっと髪の毛から手を離され、支えを失った頭が落ちそうになって。

 がらがらがらと、窓が動き出す音がした。

「あぁぁっ! ががぁっぁあがぁぁっ」

 そのままねじ切られるのではないかというような強さで、窓が首に食い込む。

 どうにか窓に手をやろうと動かしたが。

「動くんじゃない! これは罰なんだよ!」

 その言葉で手が動かなくなってしまった。

「そうそう、わかってるじゃない」

「ぅうっぅ。あがぁっぁうっあぅうぅぅ」

 じりじりと窓が閉まっていき、桟と窓の隙間に皮膚が挟まったのか、ぷちと引きちぎられる音が聞こえた。

 じわりと、僕の首筋から肩に向かって、温かい血が流れだしていく。

 頭もろくに動かせない中、どうにかして目だけを母親のほうにむける。

「こんなことじゃ、社会に出た時やっていけないよ? 人のものを平気で盗むような大人には、私はなってほしくないのよ」

 圧倒するような目力と、口角から覗く白い歯が、嫌に目に残った。

 しかしその母親の顔が、不意に白いもやに包まれていく。

 それとともに、首に感じていた窓の食い込みが薄れていくのを感じた。

 ああ、白いもや。また僕を救ってくれるのか。そして、この嫌な記憶ごと消え去って……消え去って……

 

 消えて、欲しくない。

 もう一度、あの猫に会いたい。また、あの優しく滑らかなぬくもりを感じたい。

 もしもこの嫌な記憶が消えてしまったら、猫と出会ったことすら消えてしまいそうな気がする。

 それは、嫌だ。

「あぁぁぅ、ね……こ、さん……」

 抗うように呟くと、消えそうになっていた首の痛みが戻ってくる。

「ほら、どうした? 謝罪の言葉は? 申し訳ないって思ってるんでしょ? まぁ、言えないと思うけど」

 白いもやが僕を誘惑してくる中、僕はその霧のようなものを晴らすように、首の痛みを思い出していく。

「あぐぅっ……すみませ……すみません……ごほっ」

「っ!? なんで。いつもならこのくらいで気を失っているはずなのに……。くそっ。早く倒れなさいよ。ほらっ。ほらっ」

「ぐっ。あぐっ。うぐぅぅうぅっ……」

 先ほどまではじっくりと首を挟み込まれていたが、今度は反動をつけて首に食い込んできた。

 首から窓が離れたかと思うと、また窓に挟み込まれる。

 離されるから一度出来た傷とは別のところに食い込んで、痛みが何重にも重なっていく。

 抵抗するのはこんなにも苦しいものなのか。

 油断すると、白いもやに身を委ねてしまえという甘い誘惑に取り込まれそうになる。

 もういいかと諦めようとするけれど、その度に僕はあの猫を思い出す。

 窓に手をかけて力を入れても、非力な僕じゃ敵わない。

 比較的自由の利く足があっても、母親を蹴る資格なんて犯罪者の僕にはない。

「ああ、もうっ! さっさと倒れてしまいなさい!」

 ぎりぎりと、窓で締め付ける力が強くなっていく。じわっと、血が滲んでいく感覚がした。

 もう……だめかも……。白いもやに視界が覆われていき、またもだんだんと痛みが遠のいていく。

 僕は痛みを引き寄せるように、きつく唇を嚙み締めた。

 ぶちっと破れたかのように血が口の中に広がっていき、意識が痛みとしょっぱさで繋がれる。

「まだ……ぅぅっぅあぅ……まだ……」

 何とか抵抗しようと視線を母親の方に向けると、母親は窓を持つ手はそのままに、反対の手が無造作に伸びてきて、喉をぎゅっと押さえつけた。

「ふっ、っぅっ。ふぅぁぁぁっ。ぁふっ、くふっ……」

 苦しい。口を大きく開いても、体内に酸素を取り込めない。

 白いもやが、僕の全身を覆っていく。手足をじたばたさせてそれに抗おうとしたが、視界がだんだんとちかちかしてきた。

 忘れない。忘れたくない。

 白いもやって、どうやったら晴れるんだっけ。

 えと、そうだ。痛みだ。痛いのを、更なる痛みを。

 僕は最後の力を振り絞って、喉を抑える母親の力さえも借りて、無意味かもしれないけれど、首を大きく捻った。

 窓にこすりつけた首は、ピッという切れたような感触を覚えて、狂いそうなほどに激しい痛みが僕を襲った。その痛みは思わずかっと目を見開くほどで、白いもやが晴れるほどで。

 忘れずに……済むのかな……。忘れたく、ないな。

 後にはその願いが残って。

 手には、あの猫の感触。決してふかふかとは言えないけれど、それでも心をほぐしてくれるような熱が残って。

 ふっと、入っている力さえもガクッと抜けて、地面が近くなる。

 痛さも苦しさも、外の肌寒さも、薄暗い光も、何もかもが真っ暗に消えていった。

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