五、ボートを浮かべて


 湖に浮かべたボートを漕ぐ。

 濃密な乳白色の霧はヴェールのように視界をおおい、あっという間に岸と別荘は見えなくなった。オールで水を掻く音しか響かず、向かい合って座るエレナだけがセオドアの視界にいる。

 湖に漕ぎ出してから再び驚愕した。明らかにエレナの顔色がさっきよりいい。それどころか痩せ細った体はだいぶふっくらとして、ゆるくウェーブのかかった長い黒髪は以前のように艷やかだ。

 エレナが着ているのは、彼女のお気に入りの白いドレスだった。活発な彼女らしく装飾的な袖やスカートの膨らみは少なく、品のいいレースや刺繍がさりげなくほどこされている。彼女は人前に出る時は仕草も言葉遣いも非の打ちどころのない淑女を装うが、セオドアとすごす時間は男女の違いなどなかった無邪気な子供時代のままに振る舞った。

 湖の中腹辺りまで来たセオドアはボートを漕ぐ手を止め、エレナを呆然と見つめた。物憂げで神秘的な美しさをたたえる女が目の前にいる。セオドアとよく似た愛しい妹の姿は、いつの間にか健康だった時のものに戻っていたのだ。

 何が起きたのか。これは夢か、奇跡か。寒くはないか、どこかつらいところはないか。疑問がとめどなく頭に浮かぶがどれを言葉にしていいのか分からないし、今はどれも言葉にする必要がなかった。

「セオ。子供の頃、ここへ来た時のこと覚えてる? 森の中で見つけたキノコのフェアリーリング」

「夜に二人でベッドを抜け出して森に行ったよね。妖精を探しに。探している間のことはあまり覚えてないけど、別荘に戻ったらすごく怒られたのは覚えてる」

「そうそう。今思えば怒られて当然だけど、あの時は――」

 元から病に臥せってなどいなかったように、エレナは朗らかに笑いながら楽しい思い出だけを語る。木に登ってどちらが鳥の卵を多く見つけられるか競争したり、服を取り替えてお互いのふりをして使用人をからかったり――幼い頃から使っている二人だけの秘密の造語を交え、昔のように笑い合いながら急にセオドアの青い瞳から涙がこぼれ落ちた。

 なぜだろう。苦しくてたまらない。悲しみが心臓を抉りながら泉のように湧き出てくるのだ。エレナはここにいる。彼女さえいれば、悲しいことなど何もないはずなのに。

「エレナ、どこにも行かないよね? 私を置いていかないで」

 涙を拭うことも忘れて懇願するセオドアを見つめ、エレナは顔から静かに笑みを消した。

「駄目だよ。死んだ私が行く場所にセオは行けない。私が置いていったんじゃなくて、セオが私を置いていったんだ」

 その淡々と言い聞かせるような声は責めるわけでも、怒っているわけでもない。ただ悲しそうだ。彼女は青い瞳にセオドアを映しながらひどく遠くを見ていて、まるでセオドアの姿が見えていないようだった。

「お父様とお母様は敬虔な人だったけど私達はお祈りの時間も嫌いだったし、神様なんて信じてなかった。いい子じゃなかったけど、それでも闇は遠ざけるべきだって知っていた……」

 そう言いながらエレナの姿は霧の中へ忽然と消えた。

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