三、青闇
三
頭痛がする。陰鬱な霧のせいだろう。耐え難いほどではないとはいえ鬱陶しいそれが、最近ずっと続いていた。
夜になると特に痛む。自室で安楽椅子に腰かけて頭を抱えていたセオドアは、近づいてくる男の気配に顔を上げた。上着を脱いでも上品な色のウエストコートとズボンといった紳士の服装を崩さない美貌の男だ。
「セオドア、薬を」
ヒューバートが粉末薬の入った包みを差し出してくる。こうして手持ちの薬を分けてくれるが、用意がよすぎて怪しく感じるのは彼を悪く疑いすぎだろうか。
「君の薬を飲むと、いつもいつの間にか眠っている」
「精神を安定させる効果があるからな。エレナのことで、こういう薬がなければあまり眠れないのだろう?」
確かに薬を飲めば一時的に頭痛を忘れ、朝まで目覚めることなく眠られる。好ましい男ではない。しかし彼の同情は心からのものに感じるのだ。
ヒューバートはテーブルの上の水差しからグラスに水を注ぎ、薬とともに手渡してくる。うながされるままにセオドアは薬を水に溶かして飲み干した。
水が喉を流れ落ちていく。その感触で急に喉がひどく渇いていたことに気がついた。熱く爛れるほどのこの渇きに、なぜ今の今まで気づかなかったのか。
「は……水を、くれ……」
掻きむしりたい喉を手の平で押さえつけながら発した声は、自分のものではないように掠れていた。
「あと少し我慢するんだ」
懇願してもヒューバートは涼しい顔をして首を振る。ならば自分で水を取ろうと、椅子から立ち上がろうとしたが体に力が入らない。薬が効いてきたのだ。今日も急激な眠気に襲われ、たちまち思考が鈍って深く物事を考えられない。
セオドアは喉を潤すことを諦め、椅子の背に体をあずけて溜め息をついた。
「……君は、なぜ私とエレナにつきまとう?」
「あまり考えるな。そのうち思い出す」
「私が何かを忘れているというのか……?」
意味ありげに目を細めて笑うヒューバートを映す視界が湾曲し、意識がぼやける。
「美しい双子達よ。この世にいっさいの興味がない冷たい憂鬱な目が、お互いを見つめる時だけ心を宿して安堵にゆるむ。二人だけの世界を宝物のように抱えているお前達を、俺が愛おしく思わないはずがないだろう」
いつの間にベッドに横になったのか。うっすらと瞼が開いたが、まだ夢の続きかもしれない。
明かりは消え、夜の青闇と霧が室内に漂う。開けた覚えのない窓から聞こえてくる密やかな森の旋律が、まどろむセオドアの耳をくすぐっていた。鳥の羽音、鳥がとまった木々の枝葉がゆれる囁き、小さな獣の寝息、人ならぬものの笑い声――異常なほど聴覚が研ぎ澄まされている。やはりまだ夢を見ているのだ。
子守唄のようで心地よい音色に混ざって、すぐ近くから人間のものではない息遣いを感じる。闇に呑まれた室内にそれはいた。
ゆるりとベッドが沈む。横たわるセオドアの体に覆いかぶさってきたのは大きな獣だった。
夜の匂いを漂わせる白銀の毛並みはやわらかく、月のように妖しいまでに美しい。不思議と驚かない。これをよく知っている気がするのだ。灰青の眼差しは暗闇の中でひどく鮮やかで、その瞳がヒューバートと同じだと気づくのとどちらが早かったか。獣はヒューバートの姿になっていた。
セオドアの首筋にヒューバートが唇を埋める。『それ』が聞こえてきたのは同時だった。
「――!」
途端にヒューバートは獣のように鋭い牙を剥きながら声にならない叫びを上げ、煙のように姿を消した。
まどろんでいたセオドアの意識は目を覚まし、動かすことを忘れていた体が自由に動く。起き上がって使用人を呼ぶ鈴を鳴らすと、耳をふさぎたくなる『それ』はただちに止まった。
窓辺へ行き、窓を閉める。ヒューバートが唇を埋めた首筋に触れながら、セオドアは室内の闇を凝視した。
森の音はもう聞こえない。夢だったのか。いや、違う。
あれはなんだ――と、問うつもりもなかった。間違いなく答えを知っている。今は分からない。忘れているのだ。
ほどなくして自室の扉がノックされ、蝋燭を手にしたメイドが現れた。
「旦那様、お呼びでしょうか」
「屋根裏部屋で何をしていた?」
窓辺に立つセオドアの剣呑な眼差しと咎めるような低い声に、メイドは怯えて体を縮こませる。
「アンの……アンのために、みんなで祈ってました」
今晩、遺体は屋根裏の使用人部屋に寝かせられている。そこから祈りと聖書の言葉が聞こえてきたのだ。聞こえた途端、ヒューバートの姿はかき消えた。
「もう夜中だ。やめなさい。エレナの眠りをさまたげてしまう」
メイドは釈然としない様子だった。彼女の目は赤く潤んでいる。友人のために涙を流し、祈りを捧げていたのだ。
死を悼む行為を咎めるのは、褒められたものではないとセオドアも分かっている。しかしエレナの眠りをさまたげたくないのもあるが、なにより、弔いの祈りが死に向かいつつあるエレナを弔っているように聞こえて心穏やかでいられないのだ。
「君達の気持ちは理解する。私も亡くなった彼女に哀悼の意を示したい。葬儀は私が出すつもりだから、明日、その旨を彼女の家族に伝えてほしい」
幾分か声をやわらげて提案したセオドアに、メイドはほっとしたような表情を見せて「分かりました」と頭を下げる。
その時、彼女が首にさげた十字架のネックレスがゆれた。
鳥肌が立ち、冷や汗が浮かぶ。
「どうかされましたか?」
「……いや、下がりなさい」
彼女が視界から消えると、セオドアは理由の分からない嫌悪と恐怖に顔を強張らせたまま息をついた。
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