一、霧の別荘にて②

 夏の終わりに陰鬱な霧が漂っていた。

 晴れない霧にうっそり浮かび上がる灰色の石造りの別荘は、あまりにおどろおどろしい。湖のほとりの別荘はブナの森に囲まれている。風はなく、湖面にも木々にもいっさいの動きがないため、静寂が重く垂れこめている風景だった。霧さえ晴れれば、密やかな鳥のさえずりが心地よい隠れ家のような場所なのだが。

 湖の桟橋に立つセオドアにボートが近づいてくる。ボートの中には少女が横たわっていた。

 じっとりと濡れた衣服は別荘のメイドのもの。肌に血の気はなく、絶命している。

「アンですね。やっぱり。近くの村から奉公に来てた娘だったんですが。なんてことだ……」

 ボートを漕いできた初老の男は、別荘の管理を任せている者だ。彼は深い溜め息をつきながらアンという名前のメイドの瞼に触れて虚ろな目を隠す。湖に人が浮いているのが見え、朝から姿が見えないアンではないかと彼がボートで確かめにいったのだ。

「足を滑らせて落ちたのだろうか」

「だと思います。岸の近くでも深いですから。落ちて、溺れて……危ないって知ってましたし、暗い時間や霧が出てる日は近づかないはずなんですけど」

 霧は深い。数日前から森に立ちこめている乳白色は濃密で、肌にシーツのようにまとわりつく。息を吸うと霧が肺を満たして溺れているような感覚におちいった。

 こういう霧が続く日は夏の終わりにたまにあるらしい。近隣の村出身の少女なら、視界が不明瞭な夜に湖に近づくのは危険だと十分に分かっていただろうに。

「その首のは?」

 セオドアが気づいたのは遺体の首筋にある傷だ。小さな穴のようなうじゃけた傷がふたつ並んでいる。

「虫に食われたんでしょう。ヒルかもしれません」

 きっと、そうなのだろう。しかし少女の死色の皮膚についたその傷痕は、腐りかけた果実のように赤黒く鮮やかで胸を妙にざわつかせる。

 ひっ、と短い悲鳴が背後から聞こえ、セオドアは意識を奪われていた傷痕から視線を逸らした。

 さっきエレナの部屋にセオドアを呼びにきたメイドと別荘の管理人の妻が、震える体を支え合いながら恐る恐る近づいてくる。湖から遺体を引き上げる場面など、女に見せるものではない。別荘の中で待っているように言ったのだが、共に働いていた者の死が事実なのか――居ても立ってもいられなかったのだろう。

「彼女を最後に見たのは?」

 三人の使用人の顔を見回して尋ねると、メイドがおずおずと「……アタシです」と呟く。彼女も近隣の村の出身で、変わり果てた姿になったメイドとは幼い頃からの友人だという。

「昨日の夜はアンが『エレナ様』についてたんですが、夜中の十二時頃だったと思います。アンの声が聞こえた気がして、様子を見に行ったら、その……」

「続けなさい」

 言い淀む彼女をうながす。

「ヒューバート様が……アンとヒューバート様が『エレナ様』のお部屋の前で、だ……抱き合ってて。それが最後に見た時です」

「ヒューバート?」

 その名前を聞いたのと、ここにいなかった男が現れたは同時だった。

「これはこれは。俺に内緒で朝からボート遊びか?」

 軽い調子で歌うように言葉を紡ぎながら、霧が漂う森の中から歩いてきたのは都会然とした紳士。トップハットをかぶり、真鍮のハンドルのステッキを片手に持ち、都会とはほど遠いこの場に不似合いな瀟洒な衣服で身を包んだ彼――ヒューバートの容姿は悪寒がするほど美しい。

 セオドアとエレナの双子も昔から飽き飽きするほど容姿を称賛されてきたが、ヒューバートの美貌は人離れしている。後ろに撫でつけた白銀の髪に陶磁器のような肌。すらりとした顔立ちは上品で、灰青の眼差しは涼しげでいて深く甘い。背は高く、所作は指先に至るまで洗練され、美しいものをかき集めた芸術品のような男だがどこか禍々しい美貌だった。魔性――そんな言葉が似合うのだ。

 常にやわらかく笑みを浮かべる薄く形のよい唇は、美しすぎて近寄りがたい容姿の中で唯一、親しみを抱ける類のもので見る者の心を掴む。それがセオドアには人を惑わすための罠に思えた。

「メイドの彼女か。痛ましいな」

 近づいてきたヒューバートはボートに横たわる遺体を見て綺麗な顔をしかめる。痛ましいなどと心にもないことを言っているように聞こえたのは、セオドアが彼を良く思っていないせいだろうか。

 ヒューバートは招かざる客だった。少し前からセオドアとエレナに付きまとっている怪しい男だ。なかなかセオドア達が懐かないので、姑息なこの男は他者を疑うことを知らない心やさしい叔父に取り入った。別荘にはその叔父に頼まれ、セオドアの話し相手としてついてきたのだ。

 父と母を馬車の事故で亡くしてから成人するまで、様々な援助をしてくれた叔父には世話になった。顔を立てるためにヒューバートを邪険にできないでいる。

「ヒューバート、深夜に彼女と会っていたらしいが。何をしていた?」

「何を? それを聞くのか、セオドア」

 片眉を上げて笑って見せる。

「いちおう、はっきりさせておくために聞いただけだ」

 ヒューバートは己の不道徳を隠すつもりがない。別にセオドアも品行方正というわけではないが、彼の無秩序な雰囲気はどうも好きになれなかった。

「若さは有限だ。惜しまず使わねばならない。だが、こうなってしまえば老いることも叶わないな。気の毒に。火照った体を冷ますために湖畔を歩いていて足を滑らせたのだろう」

 顔だけはぞっとするほど美しいこの男にかどわかされ、夢心地の中で溺れ死んだのか。

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