第8話【向日葵が見た夢】

「うーん、困ったなあ・・・今月も赤字、か・・・。」

 沢井絵美子は電卓とにらめっこしながら呟いた。

 日中のスーパーでのアルバイトでの一か月の収入と、家賃、食費、光熱費諸々、差し引くと先月に続けてマイナスだった。

 なんど計算してもマイナスだった。

「やばいなあ・・・夢を見るのも潮時なのかなあ・・・。」

 絵美子は隣の部屋を見ながら呟いた。隣の部屋には、絵が沢山置いてあった。

絵は風景を描いたものが多かった。自分の住む街の風景が主で、海に行った時に見た風景画、他には果物などの絵等・・・。

 絵美子が住む賃貸アパートは2LDKだ。必死に探して見つけた自分だけの夢、画家になることをを追いかけるための部屋だ。

 高校の頃からの夢だった。そのために大学も芸術専門学校に進み、何度かコンテストにも受賞した。専門学校の講師からも

「君なら本当に画家としてやっていけるかもしれないね。こうして何度もコンテストで受賞できたのは凄いことだよ。」

と言ってもらっていた。その言葉を胸に、いままで頑張ってきた。

 しかし、先日開いた展示即売会でも、売れたのはほんの数枚だった。在学中にコンクールで入賞の実績なんて、何の武器にもならなかった。会場の利用料を払ってしまうとマイナスになってしまった。このままでは自分の生活さえやばい。

 今、絵美子は昼間はスーパーでパートタイマーとして働いている。そして、夜や休日の日に絵を描く、そんな生活をしている。スーパーで稼いだお金で生活費と、絵筆やキャンバスなどの絵描き道具を揃えているが、その道具も最近値上げもあって生活は厳しい。描いた絵が売れればいいのだが。

 三カ月前はどういうわけか運よく多めに収入があったので、それを切り崩しながら生活していた。

 だが、今の調子ではあと2カ月が精いっぱいだろう。それまでになにかチャンスがない限り、画家なんて夢を追いかけるは諦めるべきかもしれない。生きるために、安定した収入を得るためには今のスーパーの仕事も辞めて、ちゃんと就職活動も考えなければいけないのかもしれない。

 全て覚悟のうえで画家の道を目指したのだが、現実は厳しかった。芸術大学で学んだことを生かせる仕事を探すべきなのか・・・。不安は一杯だった。頭から煙が出そうになってきた。

「あ~、やめやめ、気が滅入るだけだから、こんなこと考えるのよそう。」

 絵美子は電卓やらをダイニングテーブルに放りっぱなしにして散歩に出かけることにした。そうそう、散歩して気晴らしして、楓に教えてもらった美味しいと評判の喫茶ジータに行って、心を落ち着かせよう。そうだ、楓も呼んじゃおう。

 夏も終わりに近づいて、夜は過ごしやすくなってきた。半袖のポロシャツとジーンズをはいて、絵美子は町の風景を見ながら歩いた。駅前のロータリーを通って、片隅のベンチに座って行き交うスーツを着た人たちやクルマの流れをしばらく眺めた。

「みんな、夜遅くまでお仕事頑張ってるんだなあ・・・あたしくらいかしら・・・ろくに働かずこうして売れもしない絵を描いて、こうしてぼーっとしてるのは・・・なんだか罪悪感感じちゃうな・・・。ちゃんと働いた方が世間体だっていいし、・・・絵は趣味レベルに格下げかな・・・。」

 絵美子は独り言をつぶやいた。下を向いた。自分の足を見た。薄汚れたスニーカーがあった。所々絵の具の色で汚れていた。

 ちゃんとした仕事に就けば、収入もきっと上がって、もっといい革のハイヒールなどを履いて、いろいろな人と出会って、見識も広がって、・・・。そうそう、今目の前に立ち止まった人が履いているような靴・・・。

 そこで気づいたように顔を上げると、電話で呼び出した大林楓が立っていた。

 楓は絵美子が通っていた美術大学の同級生で、ライバルでもあり、友でもあった。

 在学時代は常にお互い切磋琢磨しながらも、よく一緒に絵を描きに出かけていた。一緒の時間をよく過ごしていた。美術大学を卒業するとき、絵美子は小さいころからの夢、画家になる夢にまっすぐ突き進む道を選んだ。いっぽうの楓は自分が描くのではなく、数多くの絵と触れ合いたい、と美術館のホールスタッフの仕事に着いた。

 ホールスタッフの仕事は絵以外にも世界の多種多様な芸術品の知識が必要な、狭き門でもある。美術館のホールスタッフに合格したとき、絵美子は「いつか楓に私の絵を紹介してもらえるように、私も頑張らなきゃ。」と約束とともに祝った・・・。

 楓は絵美子の隣に座るや訊いてきた。

「絵美子、お待たせ。どうしたの、絵美子?あらたまって・・・。」

「うん・・・ちょっとスランプなのかな・・・それとも、潮時なのかな・・・って悩んでる・・・。」

「スランプ?。」

 楓が訊き返した。

「うん・・・世の中甘くないっていうことなのかな・・・私の実力が元々ないのかな・・・こないだの展示会でも全然売れなくて、自信喪失・・・。もう画家で生きていく道なんか諦めて、趣味程度にして普通に働いた方がいいって、神様に言われてるのかな・・・って・・・。」

 絵美子が力なく呟くように楓に言った。

「なにしょげてんのよ。いつも向日葵みたいに元気印の絵美子なのに。」

と楓は冗談めかして元気出させようと言ったものの、いつも以上に深刻な絵美子の表情を見て返答に困った。楓は

「それに・・・絵美子の人生、絵美子のものなんだもの、あたしなんかに訊かれても、正しい答えなんて言えないわよ。」

と言うしかなかった。

 絵美子は「うん・・・。」としか言えずしばらく無言だった。楓は

「ま、ともかく。こんなところで話すよりも、行こうよ。ジータ。あそこで、温かいコーヒー飲んで、元気貰おうよ。」

と言うしかなかった。


「あ、あそこが空いてるね。」

 楓が選んだ席は窓際の二人用の席だった。

 藤田にコーヒーを頼んで、

「さて、と絵美子の悩みなんかコーヒー飲んで吹き飛ばしますかね?。」

と言って楓は絵美子を見た。が、絵美子が目を見開くように楓の斜め上後方をじっと見つめているのに気付いた。

 楓もその方角を見た。そこに飾ってあったのは一枚の大きな写真、壮大な山々と朝露に濡れた木々の葉を写した写真だった。言葉を失った。やがて口を開いたのは楓だった。

「うわあ・・・すごい写真・・・無限の生命の存在みたいなのを感じるわ・・・絵ではとても描けない世界ね・・・。」

 楓がそう呟いた。絵美子は無言のまま写真を見ていた。

 絵美子は立ち上がり、写真の傍に近寄って見入った。

「本当に・・・すごいわ・・・無限の命が、写真に撮られたことで永遠に生き続けているように感じる・・・絵ではとても表現できない世界が映されている・・・すごい・・・。」

 写真に見入っている間に、コーヒーが運ばれてきた。絵美子はテーブル席に戻ったが、ずっと写真に見入っていた。

 絵美子は写真を見たまま、言った。

「うん・・・そっか、そういうことか・・・。」

と絵美子は言った。

 楓はしばらく絵美子を見ていた。

 やがて、楓は落ち着いた声で、絵美子に言った。

「ところで絵美子・・・あんたさあ、もしかして諦めちゃうの?・・・あんたの夢・・・。」

 楓の問いに絵美子は楓に向き直り、横に顔を振りながら

「違うわ・・・描きたい気持ちは変わらないわ。でも、まだはっきりとはわからないの・・・未来が分からないの。何を描いたらいいのか、それがわからなくなっちゃったの・・・。あの写真からはものすごい説得力を感じた・・・今の私の絵にはその説得力が欠けているんだと思った・・・。」

と楓に説明した。

「なるほど・・・。」

 楓は相槌を打つように答えた。一日美術館でのホールスタッフの仕事は基本ずっと立ち仕事だ。慣れてきたとはいえ楓の足は疲労がたまっていた。

「あ~、美味しい・・・一日働いて疲れたけどこの一杯が癒してくれるのよね。本当に美味しいわ・・・。ほら、絵美子もコーヒー飲みな!?。本当にいい気分転換に合うんだあら、ここのコーヒー。」

「うん・・・。」

 勧められるままに、絵美子はコーヒーを一口口に含んだ。

 喫茶ジータのコーヒーが口の中に広がる。そして、喉を通り、胃袋にとコーヒーが入っていく。しばらく二人は写真を見つめながら無言だった。

 5分以上経って、楓がようやく口を開いた。

「そうだ絵美子・・・あのさあ・・・しばらく絵をやめてみたら?。」

「えっ・・・絵をやめる?。」

絵美子は楓の提案に驚いた。

「そう。筆も、キャンバスも、いったん片付けちゃうの。いま絵美子の頭の中は絵のことでいっぱいいっぱいになってる。だから、いちどリセットするの。空っぽにしちゃうの。パートにしろなんかの仕事にしろ、それだけの生活にしちゃうの。休みの日も絵以外の世界にするの。映画観に行くも良し、博物館で絵以外の芸術品とか見て過ごすの。今うちで陶磁器の展覧会をやってるんだけど、勉強になるわよ。」



 自宅に帰って楓に言われた通り、絵画のための部屋を入室禁止にした。

そしてパートだけに集中した生活を続けた。

 休みの日は楓の働く美術館にも行って陶磁器の展示会も観たりした。他にも博物館で色々な芸術品を観た。帰りに喫茶ジータに行き、例の写真を見ながらコーヒーを飲む、そんなルーティンを繰り返した。

「ねえ、マスター。あの写真を撮られた方をご存じなんですか?。」

 絵美子はコーヒーを藤田が運んできたタイミングで質問した。

「知っていると言えば知ってますが、うちのお客様としていらっしゃったことがあるだけですからねぇ。」

「じゃ、もしかするといつか会うこともできるんでしょうか?。できれば会ってお話ししたいな、と思ったので・・・。」

「まあ何とも言えませんが・・・会えなくはないでしょうね。写真の隅に連絡先の付箋が貼ってありますので電話されてもいいと思いますよ?。」

 藤田の提案を聞いて、絵美子は

「それもそうですね。」

と言い立ち上がって付箋に書かれている名前と連絡先をメモした。

 そして席に戻るとき、絵美子の中で一つのアイデアが浮かび、藤田に声をかけた。

「あの・・・マスター、他の空いているスペースに私が描いている絵を飾ってもいいですか?。」

 キッチンのほうに戻っていた藤田は

「あなたの絵を?。」

と確認するように訊いた。

「はい・・・。ハガキよりひと回りくらい大きいくらいの絵です。絵としては小さいですし、この店の雰囲気に合う絵を持ってきます・・・ダメでしょうか?。」

と訊いた絵美子に対して藤田はしばし考え、答えた。

「・・・そうですねぇ・・・。まあ、ダメという理由もないし、貴方が描いているのがどんな絵なのかを見てみたいのも事実ですし、いいですよ。」

 絵美子は明るい笑顔を見せ、言った。

「有難うございます。明日にでもいくつか持ってきます。」



 絵美子が喫茶ジータに絵を飾った数日後、絵美子の部屋には喫茶ジータに飾られている写真ほど大きくはないが同じ写真が部屋に飾られていた。

 そうしていくことで、絵美子のなかで何かが少しずつ変わっていくのを感じた。

 ある日、職場であるスーパーの店内に特設売り場が設けられ、大手食品メーカーの新製品が並べられていた。その商品の背景にのボードに商品メーカーと契約したタレントAの大きなはじける様な笑顔の写真とその背景にインパクトが今一つ足りないイラストが背景に描かれていた。

 それを見て、絵美子は立ち止まってイラストに対し

「手抜きのイラストで済ませるなよ・・・元気いっぱいのAさんの笑顔に失礼ジャン。どうせ描くならさあ・・・。」

と絵筆を持っているつもりで指先でラクガキのように手を動かしていた。子供が書くようなお陽様の絵を素っ気ないイラストに描き足すように。その時にアイデアが閃いた。

 そして、絵美子は気づいた。

「やっぱり私は絵が好き。好きな絵を描くんだ!。」

 仕事が終わって更衣室で着替える時、仕事中に閃いたアイデアを手持ちのA5ほどの大きさのノートにささっと鉛筆書きで描いた。

そして帰り道の途中、絵美子はたすき掛けに持っていたカバンかスマートフォンを取り出し、電話をかけた。相手は楓だ。


 楓は鳴り続けるスマートフォンの画面を見ていた。仕事帰り、最寄りの駅の近くで立ち止まってスマートフォンの画面を見ていた。きっと大事な話に違いない。深呼吸して、気持ちを落ち着けて、通話開始ボタンをタップした。

「・・・もしもし・・・。」

 恐る恐る話しかけてくる絵美子の声が楓に聞こえた。

「あ、もしもし、楓?・・・ごめん、仕事中だったかな・・・?。」

「あ、・・・ううん?今から帰るところ・・・。」

「よかった。・・・あ、まずは・・・こないだはありがとう。楓にすごいアドバイスもらっちゃったし・・・。」

「ううん、気にしないで・・・絵美子も、うちの美術館に観に来てくれてありがとう。」

 二人ともにお互いの存在の大事さを身に染みた。ただの友達じゃない、一生大事な友達。絶対別れてはいけない友達。そう思った。

 そこで絵美子が言った。

「あ、あのさ・・・今日閃いたの。描きたい絵が見つかったの・・・。」

「うん。」

「だから、お休みしていた絵、帰ったらもういちど始めようと思うの。」

「・・・うん・・・。」

「私、やっぱり・・・絵は止めない。続ける。次のコンテスト、頑張る。」

「本当に?。」

「うん。」

「本当の本当に?。」

「だから、頑張るから。本当に。」

「きゃーっ。嬉しい~っ。」

 楓は絵美子の答えに喜びの大声をあげてしまった。駅前の、大勢の人前であることも忘れて。



 一週間後。

 絵美子の絵画部屋に置いてある大きなキャンバス。縦横はそれぞれ800ミリ×600ミリくらいの大きなサイズだ。その絵はまだ出来上がってはいないが、鉛筆で下書きがされ、少しずつ色が付けられていた。

 絵美子が過去にどこかの田舎で見た風景だろうか、田畑を背景に、遠近感を強く出して書かれた絵。深く青い空と輝く太陽。その空と太陽はリアルな描き方ではなく漫画チックに表現されていた。そして、狭い空き地に植えられた数本の向日葵が太陽に向かって太陽よりも大きくキャンバス一杯に描かれていた。

 向日葵は花びら一枚一枚までしっかりと描かれ、背景との絵のあり方が絶妙にバランスされていた。

 手前には麦わら帽子を被った、10歳くらいの少女。その少女は片手で麦わら帽子が飛ばないように抑えているのだが、その少女もまた漫画チックに描かれている。

 キャンバスの横には絵のタイトルが書かれた付箋が置いてあった。そのタイトルには『向日葵が見た夢』と書かれてあった。

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