第6話【森本浩一郎の夏】
6月の第3土曜日。
梅雨の期間中だが、「今日と明日の土日、梅雨は中休みです」との予報通りに、空は晴れていた。
森本浩一郎は自宅のガレージの奥にある物置小屋に納まった自転車を見て、喜びと戸惑いを感じていた。
一週間前、ショッピングセンターで一目ぼれしたスポーツタイプの自転車をあらためて買い、愛車のセレナに乗せて帰ってきた。
夏のボーナスも入って、予算に余裕ができたこともありつい懐が緩んでしまったのだ。いつかは乗りこなしてみたいと思っていたロードバイクだ。
前からめぼしをつけていたロードバイクを専用スタンドと共に買い、とりあえずは物置小屋の中を整理して空きスペースを確保し、保管するようにした。
濃いブルーメタリック塗装のフレームが輝いていた。ハンドルバーには黒い革製のバーテープが巻かれている。
他の道具の邪魔にもならないので家族も「別にいいんじゃない?。」と文句を言う者は誰もいなかった。おかげで家族への罪悪感はないのだが、森本の心は戸惑っていた。
「これから夏、かぁ・・・。」
と腕組みしながら呟いた。
翌日の日曜日。
森本は喫茶ジータが開店する時間に合わせるように到着し、いつもと駐車場の様子が違うことを確認すると、店に入るや否やマスターの藤田に訊いた。
「あれ?マスター、いつものレガシィツーリングワゴンは故障でもしたの?。」
あまりに唐突に言われ、藤田はこけそうになった。
「ははは、違うよ。今日は天気もいいし、家からここまで自転車で来れる距離だし、運動がてら自転車通勤さ。」
と藤田はカウンター内で作業しながら答えた。
森本はカウンター席に座りながら、
「ほんとに~?。ま、確かに健康のためにもいいことだね。」
と言いながらアイスコーヒーをオーダーした。そして続けて
「そういえば自転車なんて長く乗ってないなあ、特にこんな暑くなると、乗る気がしなくなるんだよなあ・・・。」
と言った。乗る気がしなくなるとは言ったものの、ちょうど話題が自転車になったことだし、自分がこの暑い夏を直前にしてロードバイクを買ったことを白状しようか、と森本が考えていると、
「もうそんなに暑いのか?、外は。」
と藤田は話題を変える方向に話を続けた。
「ああ、今日も最高気温は35度を超えるらしいよ。」
「今朝家を出るときはまだなんとか涼しかったが?。」
藤田はそう言ったが、森本は手を顔の前で左右に振りながら、
「あ~、9時を過ぎたらもうダメダメ。日が暮れるまで、気温は下がらん。だから、俺は絶対真夏に自転車には乗らないね。」
と言ってしまった。
そう、森本は夏の暑さが苦手だった。外出することは好きなのだが、夏は日陰などでできるだけ涼しく快適に暮らすもの、と決めていた。やはりロードバイクを買ったことは言わないでおこう、と森本は心に決めた。
すると藤田が言った。
「ははは、冬になったら寒いからまた乗らなくなるんだろ、確か。」
その通りだった。冬もまたできるだけ暖かくして快適に暮らす、それが一番という森本だった。
「正解。」
「わははは・・・。」
二人揃って笑った。一方で森本は心の中ではぁ~、とため息をついていた。
「ねえ、知ってる?」
その日の夜、リビングで新聞を読んでいると、森本は不意に妻の恵子に話しかけられた。
「何?」
読んでいた新聞を下ろして森本は答えた。
恵子は、森本が自分を見るのを確認すると、
「たった一種類のコーヒーしか出さない喫茶店。だけど、そのコーヒーがすごく美味しいんだって。店の名前は『ジータ』っていうの。」
と言った。自慢げに、そして面白そうでしょ、という顔だ。
森本はこれまで学生時代の友人の藤田が喫茶店をやっていることは言ったが、その喫茶店のマスターが藤田であることは恵子に言ってなかった。そこまで言う必要はないと思っていたし、聞かれなかったからだ。
「あ~、それ、藤田がやってる店のことかな?。」
と藤田が言うと、恵子は
「え!?ジータって、藤田さんがやってる喫茶店なの?。そうなんだ!。キャア、すごい偶然!。愛子に知らせなきゃ!。
っていうか連れてってよ、ぜひ。飲んでみたい、そのコーヒー。愛子が言ってたのよ、すっごく美味しいって!。行こうよ!ねえ!。」
と興奮しながら森本に迫った。
愛子とは恵子のママ友の一人だ。子供が小学生の時に知り合い、15年以上たった今も仲良く付き合っているのだ。定期的にお茶会などしている。
「わかった、わかった。じゃあ、来週にでも早速行くか?」
と森本は家族の予定を書き込んでいるカレンダーを見た。町内会の用事が入る時もあるが、幸い特別な用事は次の土日には入っていなかった。
「そうだな、土日のどちらか、天気の良い日に行こうか。」
「わあー、楽しみ。」
と恵子は嬉しそうに言った。そして、
「あ、そうだ。どうせなら自転車で行こうよ。」
と森本に言った。
「自転車?。またどうして?。外は暑いぜ。」
「たまにはいいじゃない。それに、せっかく貴方もいい自転車買ったんだもの、そんなに遠くないんでしょ?。それに・・・」
恵子は続けて言った。
「コーヒーを飲むためだけに自転車で行くって、なんか面白いじゃない?。いい運動にもなるかもよ。」
次の日曜日の朝。
喫茶ジータでは開店間もない時間に自転車でやってきた森本に藤田は驚いた。しかも、奥さんを連れて、だ。
「おいおい、夏が嫌いなはずの男が『夏』してるじゃないか。」
と、藤田はついからかったが森本は「それを言うな」と言いながら、窓際の二人掛けのテーブル席に座った。妻の恵子もそこに座った。
「今の人が、藤田さんね。」
と恵子は興奮気味に森本に話しかけた。
森本は恵子の言葉を聞いて聞かずか、逆に注意するように恵子に言った。
「恵子。言っとくけどな、ここは上品な大人の喫茶店だからな、あんまり大きな声で喋るんじゃないぞ。」
「何かっこつけてるのよ、ここまで自転車に乗って来るだけでわいわいと子供みたいに賑やかだったのは誰かしら?。笑っちゃうわ。」
と恵子はすかさず笑いながらそう言った。
「だから、藤田の前でそういう話をするんじゃない・・。」
と森本が止めようとしたが既に遅かった。静かな店内に二人の会話は筒抜け状態であったし、
「ほほう・・・そういうことかぁ・・・。なんだ、本当は夏が大好きなんだ、森本は。」
と、いつのまにか藤田が注文を取りに二人の目の前に来ていた。
「あっちゃー・・・。」
と森本は頭を抱える一方で、恵子はあらたまって立ち上がり、藤田に挨拶した。
「いつも主人がお世話になってます、妻の恵子です。今日は主人に無理言って来させていただきましたの。とても美味しいコーヒーが頂けると知り合いから聞きましたもので。オホホホ・・・。」
恵子のその説明を聞きながら、森本はもう何も言えなかった。森本は喫茶ジータと藤田のことを教えなければよかった、と後悔した。
恵子はその森本を見ながら、
「では早速アイスコーヒーをふたつ、お願いします。」
とオーダーした。
すっかり自転車のとりこになった森本は、50歳を過ぎた肉体に鞭打つように土日の晴れた日には朝まだ気温が上がりきらないうちに河川敷のサイクリングロードを往復する習慣をつけた。
最初のうちはシフト操作でもたつくこともあったが、徐々に発進時に最適なギヤを覚え、変速機の操作にも慣れて、信号の多い街並みを走る時もスムースに走れるようになってきた。
同じようなロードバイク乗りが気になるようになり、帽子ではなく同じように手袋やヘルメット、サングラスなどの装備をすべきなのだと気づくと、すぐに買いそろえた。サイクルジャージも買おうかと考えたがそれは止めた。競争やレースするわけじゃないし手近なポロシャツやショートパンツで十分だろう。
一方でこういった装備を揃えてしまうと、当然思いつくことは、長距離ツーリングや『旅』だった。
そして、『旅』の計画を立て、実行することにした。8月の連休の間、家族サービスとは別に自分だけの時間を作り、自転車で瀬戸内海の島々を走ることにしたのだ。そう、しまなみ海道である。
新幹線と在来線で広島の尾道まで移動し、駅前のレンタサイクルを使う事にした。最初は自分のロードバイクを輪行袋に入れて持って行こうかと思ったが、それには輪行袋をあらためて買わなければいけないし、またタイヤを付けたり外したりの作業に自信が持てなかったのと、しまなみ海道起点となる尾道ではレンタサイクル屋が多くあり、あらゆる種類の自転車を用意するショップがある、と知ったからだ。
インターネットで調べて予約できたのは電動アシスト機能が付いたクロスバイクだった。しまなみ海道は島から島へと渡るときの坂道が大変だと聞いていたので、電動アシストは外せなかった。
初日は家の用事で自宅の出発が約一時間遅くなってしまった。また尾道に着いてホテルにチェックインした後予約したレンタサイクル屋へ行ったが、手続きやフィッティング調整にも時間がかかり、試走を兼ねた尾道の町の観光の時間がほぼなくなってしまった。明日以降時間を作って尾道の観光は改めてしよう、とその夜は早めに就寝した。
二日目。
空は曇っていたが、おかげで体力消耗や熱中症の心配が少なくなる。
朝早く、一番のフェリーで尾道を出発して今治まで行き、公衆浴場でひとっ風呂浴びてとんぼ返りで尾道に戻る予定だ。往復で約120Km以上の距離になるが電動アシストのクロスバイクならなんとかなるだろう。そのために7月の間走りこんで鍛えてきたのだから。
着替えを含めて大きな荷物は尾道のホテルに置いたままにし、サイクルウェアに着替え、ヘルメット、そしてペットボトル飲料、貴重品や汗拭き用のタオルや日焼け止めクリーム等を入れたウェストバッグを持って部屋を出た。
ホテルの朝食はしっかりと多めに食べた。体力をどれだけ消耗するかわからない。
最初の島へは中型のフェリーで行くことになる。乗れるのは自動二輪までで乗用車は乗れない船だ。
森本が乗り込もうとそのフェリー乗り場に行くと、同様に自転車で島に渡ろうとする人達が大勢並んでいた。しかも自分より若い者でいっぱいだ。同じようにひと夏の思い出を作りに来ているのだろう。立派な荷物を背負っている人もいた。その光景を見ているだけでもワクワクが止まらない。森本浩一郎はすっかり少年に戻っていた。
やがて乗船の時間となり、順番に誘導員の指示に従って船に乗船した。
乗船して出向を待っているときにふと斜め後方から視線を感じてそのほうに目をやると、そこに一人の女性がいた。5mほど離れた、手すりに片手をやりながら立っている。彼女はサイクルジャージではなく、白い長袖のシャツとゆったりとした履き心地の良さそうな面パンを履いていた。身長は160センチくらい、細身だが痩せているわけではなく、そして透き通るような白い肌と、薄いピンク色の口紅を付け、つばの大きな麦わら帽子を被り、涼やかな目元で笑顔で森本を見ていた。
はて?どこかで見たかな?などと思っていると、向こうからお辞儀をされた。
これは大変だ、と森本は思った。
知らない女性に挨拶をされた。しかも目を奪われて当然のような美人だ。どうしようか。いや、知らない人だと思い込んでいるだけで、もしかすると実はよく知っている女性かもしれない。この知らない土地でただ偶然に出会ったのかもしれないと思い、必死に親戚や職場などの知っている女性を思い出そうとしながらとりあえず挨拶を返さなきゃ、と森本もお辞儀で返した。
森本がそうして混乱していると、女性のすぐ近くにいた男が近寄ってきて
「こんにちは。おひとりのようですが、どちらからお越しですか?。」
と、声をかけてきた。
男は森本と同じくらいの年だろうか。よく日焼けした中年男性だった。贅肉はほとんどついていない、引き締まった体をしていた。この男もポロシャツと綿パンツを着ていた。パンツの裾をペダリングの時にギヤなどに巻き込まれないようにするためバンドで縛っていた。
「あ、こんにちは。」
森本は声をかけてくれたその男に挨拶をすると、
「私は東京のほうから来ました。ちょっとした一人旅です。」
と答えた。
「一人旅とはお洒落ですねぇ。自由が利いていい!。」
「いえいえ、あれこれお土産を買う約束をさせられて・・・家族にわがまま言ってきましたから、後が大変です。」
「あはは、そんなもんですかね。私は家内と二人でして・・・。」
と、男は先ほどお辞儀で挨拶をしてくれた女性を紹介した。
森本は『そうだよな、あれほどの美人に男がいないわけないよな』と思いながらも
「いいですねぇ。美人の奥さんと、仲がよろしいようで羨ましいです。」
と答えた。すると男は
「いえいえそんなことないですよ。しょっちゅう喧嘩してますから。」
と照れ隠ししながら、言った。
「せっかくの連休ですし、家内の里帰りのついでです。自宅は兵庫県の神戸なんですが、家内が愛媛県の松山の出身でして、今年は運よく連休が長くとれたのでゆっくりあちこち巡りながら帰ろう、と思いましてね。」
その男は特に訊かずともどんどん話してきた。男の快活で積極的な性格に、森本は好感を持った。
「そうそう、あなた、◎〇ホテルに泊まってたでしょ?。」
と、男はいきなり言ってきた。
「え?どうしてご存じで?」
「実は私たちも同じホテルに泊まってまして、今朝がたホテルのレストランで貴方をお見かけしたんですよ。」
と男は森本に言った。男は続けて言った。
「家内と一緒に食事をしていたら、その時に自転車のヘルメットを持ったあなたがやってこられて・・・いくらこの連休で自転車乗りが多いとはいえ、全く同じヘルメットに同じウェアに同じ手荷物、同じ背格好で、しかも同じく独り身の方はそうはいらっしゃらないでしょう?。」
そう男に笑顔で言われて、なんだそういうことか、と納得がいくと同時にがっかりする自分がいた。勝手に抱いていたとはいえ期待が裏切られたような気分だった。
森本はやはり自分はスケベだなと思いながら
「え?そうですか?。いやあ・・・お恥ずかしい・・・。」
となんとか言いながらも美人と出会えたことを森本は喜んだ。
しばらく他愛もない会話をしている間に船は出向し、あっという間に対岸の島に着いた。
順番にフェリーから降りた後、二人と森本は、
「これからは別行動になりますが、お互い無理のないように。安全運転でいきましょう。」
と互いに挨拶をして別れた。
曇天であったが、森本の心は爽快に晴れ渡っていた。
途中の島で観光と休憩をしながら、走った。電動アシストは上り坂の時だけONにした。平坦路や橋を渡っているときはできるだけOFFにして走った。往復約120Kmを走るためだ。電力は無駄に使いたくない。
おかげで大抵の人が橋を渡るための上り坂で体力を消耗しているのに、森本はほぼ疲れ知らずだった。
そんな調子で最初の橋を渡り始める。
今日、時間制限は設けていないが、一日で120Km以上走るので、ペースを少し上げた。橋の上り坂ではスピードは落ちるが、それ以外はおよそ20~25Km/h、下り坂では35Km/hを記録することもあった。
気づくといつのまにか雲が風に飛ばされていて、青空が見えた。
大橋を渡るときに見た、瀬戸内海を進む船舶、瀬戸内海に浮かぶ島々。
優しく吹き渡る潮風。その風で、海面がキラキラ光る瀬戸内海。
島の一般道を走っているときには逆方向の自転車乗りとすれ違う時に互いに会釈したり、
「こんにちは!」
と声をお互いにかけて走る、同じ自転車乗り達。なぜだかみんな笑顔での挨拶だ。
何もかもが気持ちよかった。
暑い夏が苦手だったはずなのに、森本の心は暑い夏にときめき、輝いていた。
そして、気づいた。なぜ心がときめき輝いているのか。その理由がふたつ、分かった。
ひとつめは、空気だ。
東京の夏は、排気ガス臭いだ。いや、夏に限らず、排気ガス臭い。排気といっても自動車やトラック・バス等の排気ガスだけでなく、エアコンの排気、人の生活から出るごみ等からの臭気ともいえる排気、いろいろある。それが夏になると特にひどくなる。
高層ビルが乱立する東京は大自然の空気が入りにくいし、街の中の空気も出て行きにくい。空気が簡単に入れ替わらないのだ。だから空調の効いた場所に居たくなるのだ。
そんな大都会の東京に比べて、地方では高層ビルがないので空気が吹き抜けやすい。だから、常に新鮮な大自然の空気と触れ合うことができる。暑いのだが、新鮮な大自然の空気のおかげで爽やかな気持ちになれる。特に、ここは瀬戸内海。
潮風に吹かれながら、瀬戸内海の島々を眺めながら、自転車を走らせながら、・・・。
二つ目の理由はこの瀬戸内海で出会う人たち。
ここに来て、途中で休憩のために寄った店でかき氷を食べたが、その間に近所の子供たちもかき氷を食べにやってきた。頭の先からつま先まで、小麦色に日焼けした素肌を見せながらかき氷をほおばる姿を見て、森本もつい顔がほころんだ。
その店内にはエアコンや空気清浄機などの空調設備はなかったが、窓を開け放して扇風機ひとつで快適だった。そして、自然に集まる常連と思われる島の人々の団らんの声。
それに比べると、東京は狭い空間に多くの人が住んでいるというのに隣同士で仲良く交流・・というのは滅多にない。誰かが主催しなければ集まらない。そして、みんな髪を染めたり高い衣装で格好つけたり高級車を乗り回したりしてどっちが格好いいだとかの競争に明け暮れている・・・自分もその一人なのだろうが・・・。
目的地の今治に着いたのは11時半頃だった。
ホテルでの朝食の時間から6時間近くが経っていた。すっかり腹ペコになった森本は身近なところにある定食屋に入って昼食をしっかりと食べた。そして、あらかじめ目星をつけていた日帰り温泉へ向かった。
その温泉でしっかりと汗を流した。そして露天風呂から見た風景をみながら、ふと思った。最初のフェリーで出会った夫婦ふたりは今頃どこを走っているだろうか。それとも、すでに本四連絡橋を渡り切っているだろうか・・・。
そんなことを思いながら、風呂を楽しみ、風呂の後も休憩所で小一時間昼寝をした。
夏の日照時間は長い。
とはいえ、少しゆっくりしすぎたようだ。公衆浴場を出たのは15時だった。急がなければ、しまなみ海道を渡り切る前に真っ暗になってしまう。それだけは避けたい。
レンタサイクルに再び乗って来た道を引き返す。それだけだった。
なのに、道を間違えた。
手持ちのスマートホンを使って自分の現在地と帰り道ルートを確認しようとしたが、あろうことか電池切れだった。昨日の夜しっかり充電したはずなのに、いったいどうしたことか。
地元の人にしまなみ海道への道を訊いた。親切に教えてくれた人に出会えてよかった、と心底思った。東京では無視されまくるに違いない。
心から感謝しながら、森本は帰路を急いだ。
やはり一日でしまなみ海道を往復するのは電動アシストがついていてもきつい。
というより、尻が痛い。
17時ごろ、尻を楽にさせようと中間地点の島にいる時、一度休憩をした。海岸沿いの通りに自転車を止め、立ったまま、海を見ながら非常食としてウェストバッグに入れていたカロリーメイトを口にした。買い足したスポーツドリンクを飲む。
なんとか3時間後にはホテルに戻りたい。
そう思いながら、思いついた尻痛の対策をした。首に巻いていたタオルをサドルに巻いた。クッション代わりになるだろう。そして幾分サドルを下げた。首にはあらためて日焼け止めクリームを塗り、予備のもう一枚のタオルを巻いた。
再び走り出した。
若干だが振動が和らぎ、尻の痛みの悪化は減ったようだが痛みが取れることはなかった。ただ無心にペダルを回すだけだった。電動アシストがあっても登りはきつかった。
最後の橋を渡る時、ちょうど日没の時間と重なった。
西の空を染めながら、陽が傾いていく。その光景に感動した。
この橋を渡り切れば、フェリーに乗って本州側の尾道の町に帰れる。尻の痛みと戦いながら、何とか戻って来た嬉しさも混じってか、よくわからないがなぜか涙が出て来た。
「わははは・・・。」
藤田は笑いが止まらなかった。
「そんなに笑うな。そんなにおかしいか?。」
3日間の旅行で日焼けして帰ってきてた森本は、連休明けの最初の日曜日、喫茶ジータが開店するより15分前の時間にやってきて土産の煎餅を渡して旅行の思い出話を藤田に話したところだった。
「だってさ、だってさ。あれだけ『夏は暑いから嫌いだ』と言ってた森本が、まるで子供のような、わははは・・・しかも人様の美人妻に勝手に心奪われたりだとか、わははは・・・これを笑うなという方が無理、可笑しくないはずが・・・わははは・・・しかも尻が痛くて泣くなんて・・・わははは・・・それに、今の森本の顔が面白すぎ・・・あははは・・・。」
藤田はツボにはまったように笑いがなかなか止まらなかった。こりゃどうしようもないな、と気づいた森本は
「ふん、そうやって笑うがいいさ。藤田だって、こんな場所で格好つけてコーヒー屋なんて商売やっているけどさ、島に行ってみろよ。大自然と触れ合って、素朴な人たちと出会ってみろよ。絶対そのほうがこの喫茶店のコーヒー飲んでいるよりもずっと健康的だし、心もスッキリするし、絶対藤田だって変わるって。」
しばらくしてようやく笑いが止まった藤田はようやく落ち着いて、言った。
「まあ、そうかもしれないね。いくら俺が、毎日の仕事に追われる人たちの心を癒すコーヒーとか言っても、大自然には負けるだろうな・・・。」
「だろ?。だから、藤田も行って来いよ、島へ。」
「森本みたいになるってか?。」
「ああ、俺が保証する。お前がそれだけ笑い転げるくらいなんだから、な。」
森本がはっきりと言うので藤田は「ほう~?。」と含み笑いしながら言い、考えた。そして、
「まあ、考えておこう。でも・・・そうか、なあんだ、森本は実は夏が大好きだったんだな。」
と言った。森本は笑顔になりながら
「しつこい!。」
と言い、そして二人で笑った。そして、翌年の二人の夏休みの計画が始まった。
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