第5話【おいしいホットコーヒーをみっつ】

 木曜の夜8時前。

 どういうわけか客は一人としておらず、藤田は特にやることもなかったので早いけど掃除でもしておこう、と立ち上がり倉庫部屋に置いているホウキと塵取りを取ってきた。

 そして店内のチェックをしながら床掃除をはじめた。

店の隅っこのテーブルの下に誰かが忘れ物をしたようで、一冊の雑誌がそのテーブルの足元に落ちていた。

 その雑誌を拾った。女性向けの雑誌ではあるが、『結婚特集』なる大きな文字が表紙に明かれていた。

これはきっと大事な雑誌だろうに、と藤田は思いながら表面の埃をはたいて落とし、カウンター席の隅に置き、店内の清掃を続けた。

 その時、扉が開いた。

「あ、あの・・・まだやってますか?。」

と女性の声がしたので、藤田は

「はい、もちろんです、いらっしゃいませ、お好きな場所へ・・。」

続きのどうぞという言葉を言おうとしたが、女性を見て驚いた。しばらく呼吸するのも忘れるほどだった。その女性も藤田を見て驚いていた。

 どのくらいお互い無言だったろうか。藤田は手にホウキを持ったまま、時間が過ぎていく。

 ようやく言葉を発したのは藤田だった。

「香織・・・久しぶり・・・いま、どうしてる?。元気・・・そうだね・・・?。」

「・・・うん・・・ま、なんとか、ね。」

 香織と呼ばれた女性は藤田の別れた元妻だ。

 別れてから10年、お互い連絡を取り合わないことに決めて今まで過ごしてきた。

当時仕事に追われるばかりの藤田を「家族のことを何も考えていない人」と香織は思っていた。

 確かにその通りだったかもしれない。当時の藤田はある会社の営業販売の主任の立場でもあり、現場を部下たちと走り回る仕事に追われ、家はただ眠りに帰る場所になっていた。

 たまの休みも仕事疲れから起きるのが遅くなったり、一週間の新聞の読み直しをしたり、月曜日からの仕事の段取りを考えたり、ほとんど家族のことは考えもしなかった。家族のために働くという意識もほぼなく、ただ働いていい満足のいく結果を残して業績を上げ、会社に貢献する、そればかりだった。

 連休の時くらいしか家族を相手にすることはなかった。だが、それも一人娘の恵美が小学生の間までで、彼女が中学に進学したころからは家族の不協和音は拍車がかかった。

 得意先との付き合いやトラブル対応などで忙しかったこともあったが、恵美がクラブ活動や学校行事などに行くようになると、顔を見ない日も珍しくなくなり、見事にすれ違うようになってしまった。

 何も言わなくても妻の香織がなんとかしていると思っていたが、実際にはそうではなく、逆にある日突然香織から離婚を切り出され、恵美を連れて出て行った・・。

 その恵美も、もう24歳・・・そんなことを思い返していた。

「で、いつまでこうしてお客を立たせたままにしてるの?私はお客様なんだから、席まで案内してくれてもいいんじゃないの?。

 それに、・・・近くに用があって、・・・その帰りに寄ってみただけだからね、ここのコーヒーが美味しいって噂を聞いて、確かめに来た・・・それだけだからね。」

 いつのまにか香織の表情は固く、強い口調になっていた。

「あ?、ああ、そうだな。」

 藤田は席の方に香織を案内した後、手に持っていたホウキと塵取りを片付けた。手を洗って調理場に行くと、コーヒーの準備を始めた。

 椅子に座って少し落ち着いたのか、香織は藤田の作業する姿を見ながら、

「へえ~、なかなかいい感じのお店じゃない。ジータって店名もお洒落だし。あ、もしかしてフ・ジ・タの名前からとったのかしら?フ・ジータって。ダジャレみたい。。」

と昔と変わらず勘の鋭さを発揮しながらも皮肉を込めながら感想を言った。藤田は数秒してから

「そうか・・・ありがとう。」

と小声で応えるのが精いっぱいだった。

「店内はいたってシンプルでありながら落ち着いた雰囲気で、ゆっくりと経営者のつくるコーヒーがゆっくり楽しめる空間になっている・・・このへんは噂通りね・・・あなたがやっている店だとは知らなかったけど。」

 香織はそう続けた。

 藤田は無言のままだった。

「・・・そういえば会社・・・営業の仕事はやめたの?どうしてまたコーヒー屋に?。」

「・・・あの会社はお前と別れて間もなく辞めた・・・その仕事で俺たちが破局に追い込まれたようなもんだし・・・な。すっかりやる気をなくしたっていうか、・・・わかるだろ、・・・お前とは社内恋愛で結婚したのに離婚に至ったわけだから、いろいろと噂話も耳に入るし、居られるはずがない・・・。会社にも迷惑かけてしまっているし、なんとか後任に引き継いで退職した・・・まあ、クビみたいなもんさ、誰にも引き止められなかったよ・・・。」

「・・・あら・・そう・・・。」

 香織は口を押えるようにして小悪魔的な表情をして黙った。

 藤田はコーヒーメーカーからドリップされるコーヒーの雫を見ながら、過去を思い出しながら話した。

「会社を辞めたその日、その帰り道・・・ある喫茶店に寄ったんだ・・・普段なら気にも留めない、見知らぬ喫茶店に・・・。

 一人で席に座って、一杯のコーヒーが運ばれてきて、しばらく飲まずに、ただいろんな角度からコーヒーカップを見たりした・・・。俺の人生、なにが悪かったのかな、どこで間違えたのかな・・・ってさ。

 ひとくち飲んでみた・・・。そしたらすごく苦く感じてさ、なぜか涙が出てきた・・・その時の俺の人生と同じ味だ…って思った・・・。

 でも、ふたくち、みくちと飲むうちに今度は怒りが込み上げてきた。ただ苦みが強いだけで、味わいなんて何もない・・・インスタントコーヒーよりもひどいと思った。人生を失敗したような俺に、さらに仕打ちをかけてくるような苦いコーヒーだった・・・苦ければそれでいいような、それで500円もとるのか、ってな・・・。

 じゃあ、俺がもっとおいしいコーヒーを作ってやる、失敗して落ち込んでる人間を優しく受け止めてくれるコーヒーを作ってやるってその時決めた。・・・で、ただの喫茶店ではない、あらゆるコーヒー豆を扱うコーヒー専門店で人員募集の店を探して働き始めた・・・。

 そこで数年働いた。いろいろな豆を勉強して、技術も身に着けた。その店独自の味や、その作り方、豆の扱い方、・・・。そしてその店で多くの客と接しているうちに、以前の自分が我儘で本当に自分勝手だったことに気づいた・・・。

 で、その専門店で働くうちに、これからは世話になった世の中に少しずつでも恩返しをしたい、と思うようになったんだ。そのために、自分のできる恩返しの方法・・・それは、自分ならではの拘りのコーヒーで、現代の競争社会で疲れた人たちの少しでも癒しになるコーヒーを作り、そのコーヒーを提供する喫茶店を作ること・・・。」

 藤田はドリップされたコーヒーをカップに注ぎ、スプーンを添え、カップソーサーとともに香織の目の前に置いた。

 そのコーヒーを見ながら、

「・・・そう・・・だったんだ・・・。」

と香織は言った。

 そのコーヒーカップを手にし、

「これが、噂のコーヒーなのね・・・。では、あなたの、その集大成のコーヒーをいただきます。」

と、まずは何も入れずにコーヒーを一口、飲んだ。

「あら・・・なにこれ・・・香りがいいのはもちろん、すごく優しい口当たり・・・そんなに苦くないし酸味は隠し味程度だし、・・・それよりもしっかりとしたコクを感じる・・・だけどしつこくなくて、飲みやすい・・・美味しい・・・。」

ふたくち、飲んだ。

「砂糖なんていれていないのに、ほんの少しだけど甘く感じるのはなぜかしら・・・不思議・・・。お世辞じゃなく、大人の、わかる人には評判高いっていうのが分かるわ・・・。」

「・・・ありがとう・・・。」

 しばらく無言だった。

「あなた、変ったわね・・・。」

「そうかな。」

「変わった。」

 香織はそう言い切った。

「でもないさ。頑固で一途なところは相変わらずだと思うな。営業マンから一転、突然にコーヒー屋を始めるくらいだし・・・。」

「それでも・・・以前のあなたは自分の満足が目的だったと思っていたけど、今は違うんでしょ?・・・『世話になった人への恩返し』って、言ったじゃない。」

 藤田は無言だった。

「ねえ、私たち・・・もういっかい、やり直せないかしら・・・一緒に暮らさない?。」

 突然、香織からそんな言葉が出た。

「えっ・・・。」

 藤田は香織からそんなことを言われるとは思いもしなかった。

「あら、どうしたのかしら私って・・・。でも・・・あなたと離婚してしばらくしてから、少しずつ思ってたことなの・・・しかも時が経てば経つほどに・・・。」

 香織は自分のこれまでを話し始めた。

「実はね、私もあなたと別れてから今まで、一人で恵美を育ててきたけど、仕事をすることの大変さがやっとわかったの・・・。最近は恵美も就職して、ほとんど手がかからなくなって楽になったけど・・・。きっと私の我儘だったのよね・・・意地っ張りだったな、って思うわ・・・。」

 二人の間にある一杯のコーヒーが、二人の間にできていたわだかまりをゆっくりと、しかも確実に溶かしていた。

 香織本人も、藤田の煎れたコーヒーを飲んでいるうちに、なぜか素直な自分の気持ちを藤田に打ち明けている自分に驚いていた。

「あなたと別れて、いったん実家に帰った時にお母さんから

『まあ、呆れた!。隆さんに一生ついていきます、って結婚式の時に言ってたのは嘘だったの?。そんな嘘つきな子に育てたはずないのに、付き合いきれないわ。』

って嫌味をほぼ毎日いやというほど聞かされて・・・そんな生活も耐えられなくて、結局実家からも離れたわ・・・その時お父さんは何も言わず、住まい探しのためのお金を工面してくれた・・・。

 その後別の人との再婚を友人とかは言ってきたけど、恵美があなた以外の人を受け入れないと思ったし、私も心のどこかに貴方への思いが残っていて、そんな気にならなかった・・・。

 そんな時に恵美にこう言われたわ・・・。

『お母さん、お父さんと別れてから、笑わなくなった・・・。お母さん、笑ってほしい。』

って。恵美に心の中を全部見透かされている、って思ったわ・・・。

 あなたからの慰謝料もいらないなんて意地張っちゃったもんだから、とにかくお金稼がなくちゃって思っていて、本当に目が回る思いだったわ・・・。全く心に余裕がなくて、ほとんど恵美を構ってあげられなくて・・・。

 その時、とにかく恵美のために働いて稼がなくちゃ、と思って・・・その時ふと、一心不乱に働いていたあなたと同じことをやってるって気づいた・・・何やってんだろう、私・・・って。さすがにその時、自分が嫌になったな・・・自己嫌悪。そして、あなたの存在の大きさにやっと気づいたの・・・。

 だけど私の意地みたいなのがあって、こんな都合のいい考えでまたあなたの世話になるなんてそれこそ単なる我儘だし、お母さんに言われたことを認めたくなくて、強がっていた・・・。」

 藤田は無言で香織の話を聞いていた。ただ、俺と別れて香織も苦労したんだな、ということに気づいた。

「あなたと別れてもう10年なのね・・・。過ぎてみると早かったようだけどずいぶん通り道した気がするわ・・・。

 最近は恵美も、

『ねえ、もうお父さんのこと、怒ってないよ。昔は休みの日も仕事ばかりで全然私たちのことを構ってくれなかったお父さんに対して、自分たちを愛していないんだ!って文句言っちゃったけど、私も大人になって社会人になって、職場の人たちを見てわかったわ・・・。お父さんと同じくらいの歳の人で、私よりも早く出社して、自分の仕事もあるのに部下の面倒見たりして、遅くまで残ってる・・・私は彼が私よりも先に帰るところを見たことがないわ・・・。特に責任ある立場に着くといろいろあるんだなってことに気づいた・・・お父さんが私たち家族のほうに時間が使えなかったのも仕方がないんだってこと、分かったの・・・。』

なんて言うのよ・・・。」

 藤田はずっと無言だった。

「それに・・・私は家事優先でいたいからずっと早めに帰れるように、正社員ではなく派遣で働いて、ご飯の用意や炊事洗濯掃除とかの家事をやってきた・・・。だけど恵美も働くようになったら時々帰りが遅くなることもあるし、せっかく私が早く帰って晩御飯を恵美のために作っていても、結局一人で食べてるの・・・。なんだかバラバラ・・・。

 家族って、なんなのかしら・・・離婚してからこの10年間、逆に幸せから遠ざかったみたいだった・・・私が求めていた幸せって、こんなのじゃないよねって・・・。

 だから・・・今なら心から言える・・・幸せになりたい・・・いま、貴方と一緒なら、きっと・・・。」

 香織は残りのコーヒーを飲み切ると、お代を置いて、

「美味しいコーヒーをご馳走様。あなたとこんなお話ができるとは思わなかった・・・。さっき言ったこと、考えといて。じゃあね。」

と言い、帰っていった。



 藤田はその夜、一人暮らしのアパートに帰った。翌日の金曜日は定休日ということもあり、ビールを飲みながらこれまでの25年近くを振り返っていた。

 職場で知り合った香織と恋に落ちた。

二つ年下の香織は女性としては背が高く、タカラヅカ歌劇出身の女優の誰だったかに似ていた。藤田は仕事で会話する機会を無理に作ったりして、香織にアピールした。そして、早帰りの日は改めて待ち合わせをして夕食などを食べて親交を深めた。

 お互いがお互いを認め合い、1年の交際の後結婚した。

 二人で話し合った結果、香織は寿退社を選んだ。やがて香織との間に一人娘の恵美が誕生した。仕事を頑張ってこの純真無垢な赤ん坊を守っていかなきゃ、と決意した。

 営業の仕事も順調で、出世街道を邁進していった。30歳には主任になり、40歳を前に課長へと昇進した。次は部長、将来は役員や社長への道もあるんじゃないか、と周りからも社内の出世頭と言われる存在だった。ある意味絶好調、逆の意味で天狗になっていた。

 そんなある日、突然に香織から離婚届を突き付けられた。なぜ?どうして?。順調に出世していく藤田を祝福するのではなく否定してきたのだ。頭の中が真っ白になった。

 家族のために働いてきたのに、と言っても

「家族のためですって?。じゃあ貴方、家族の何を分かっているの?。恵美の学校の行事も仕事で忙しいなんて言って全部放ったらかし。それでいて私にはああしろ・こうしろと命令ばかりで家族の会話なんてほとんどなかった。家のどこに何が片付いているのか分かってる?。私はあなたの召使いでもないし、あなたは仕事を理由に家族に全然向き合ってくれない。それで家族のためだなんて、よく言えたものね。ただあなたの自己満足なんじゃないの!?。」

と香織に言われた。

 香織の有無を言わさぬ勢いに負けて、離婚届にハンコを押した・・・そして、香織は中学生の恵美を連れて出て行った・・・。

 そんなことを思い出しながら、3本目の缶ビールを飲みほしていた。アルコールの力が藤田の理性を失わせていた。

 まだ幼いころの愛くるしい笑顔で笑う恵美の姿が脳裏によみがえった。

「愛しい恵美ちゃん・・・・。」

 そういうと、食卓のテーブルに突っ伏すようにして眠りについた。



 南東の窓から入ってきた陽射しの強さに気づいて目が覚めると、自分が泣いていたことに気付いた。

 時刻を見ると、9時を過ぎていた。全く覚えていないが、昨日の着の身着のままではあったが寝室で布団を被って寝ていた。

 浴室に行ってシャワーを浴びて、その場で顔を洗い、歯を磨いた。

 新しい下着とシャツ、ズボンに着替え、パンとインスタントコーヒーだけの朝食を済ませた。

「ちょっと散歩でもするか。」

と、小さい鞄に財布などを放り込んでたすき掛けにして出かけた。

 ぶらぶらと歩きながら、コーヒーフレッシュやスティックシュガーが減っていたことを思い出し、近所の業務スーパーに行くことにした。

 平日の開店間もない時間帯の業務スーパーはさすがに客が少ない。ゆっくりといろいろな商品を見ることができるが、今日は歩いてきた。大量の買い物はできない。

 店内を巡りながら、今一度昨晩の香織の言葉を思い出していた。「ねえ、もういっかい、一緒に暮らさない?。」「家族って、なんなのかしら。」「幸せになりたい・・・貴方と一緒なら、きっと・・・。」「さっき言ったこと、考えといて。じゃあね。」

 ふと気づいた。

 考えといてね、という言葉はその答えを聞くために近いうちにまた店に来る、ということだ。しかも、かなり本気で香織は言っていた。

 自宅への帰り道、改めて考えた。

 確かに、あの頃は自分も若く、ただ突っ走っていた。突っ走ることが生きがいであるかのように、わき目も降らず突っ走っていた。自分が突っ走ることしか考えていなかった。家族のことなんて、ほとんど考えていなかった。

 自分が稼いだ金で家族が生きていけるなんて、傲慢だったし屁理屈でもあったと思う。お金のやりくりや家事・子育てを香織にすべて押し付け、自分は突っ走っていればいいと思っていた。

 今でこそ、自分でやるしかないから家事もしているが、しょせん自分の家事なんて香織がしていたことには遠く及ばない。なんせ香織は自分を含めて家族三人分、無報酬で頑張っていたのだ。

 そんな彼女に対し感謝の気持ちなんて思ったこともなかった。当たり前だと思っていた。その香織の努力に家族の一員として自分も応えてやらなきゃいけない。香織に『ありがとう』と言う言葉を使ったことはあっただろうか?。藤田の記憶の限りではほぼゼロだった。家族と本気で向き合おうとしなかった。家族とは何なのか、そして家族がいることのありがたさを、離婚して初めて知った・・・。

 もともと藤田は離婚を望んでいなかったので、香織からの再婚への話は嬉しかった。

 またこれまで一人だったのは理由がある。それは、一人娘の恵美の存在だ。恵美の存在が別の女性と一緒になるつもりにならない最大の理由でもあった。もし別の女性と一緒になっていたら恵美に軽蔑されるに違いない、と藤田の中で結論付けていた。

 香織と恵美が戻ってくるかもしれない。そう思うと、居ても立っても居られないくらい藤田は嬉しかった。あの香織の言葉が一時の気の迷いでなければ・・・。



 それからおよそ2週間後の、月曜の夜9時ごろ。

 月曜の夜は客が少ない。この日は特にそうで、もう1時間くらい自分以外誰もいない。週初めの月曜日から疲れるサラリーマンはそんなにいないということだろう。

 ラストオーダーの時間に客が来なければもう今夜は早じまいしてもいいか、と思っていた時、駐車場に一台のクルマが止まった。白い、フィアット500というイタリアの小さなクルマだ。

 運転席と助手席のドアが開き、二人の女性が降りてきた。

 喫茶ジータのドアを開け、

「こんばんは~。」

と入ってきた。

 調理場では藤田が洗って磨いたカップを棚に直していた。振り向いて

「いらっしゃい、お好きな席へどうぞ・・・。」

と二人の女性を見て驚いた。香織と恵美だった。

「お久しぶり。」

 香織が笑顔とともにそう言って店内に入っていく。その後ろを、恵美がどんな顔をしたらいいのかわからない表情で藤田をちらちらと見ながら香織についていった。

藤田の心が高揚していた。

 香織と恵美が来た。二人で来た、というのは再び一緒になる心の準備が香織と恵美にできている、と言うことに違いない。

 4人掛けのテーブル席に、調理場の藤田がよく見えるように並んで二人は座った。

 香織は笑顔だった。心はもう決まっていて、まっすぐ自分の人生を受け止め進もうと覚悟ができた者の、いい顔をしていた。

 恵美はというと、約10年ぶりの父親の姿を目の前にしてどう対処していいかわからない複雑な表情のままだった。

 そんな恵美と藤田は同じ思いだった。10年間、会いたくても会えない距離にいた愛娘の恵美が今、目の前にいるのだ。10年前、まだセーラー服だった少女が立派な大人になっている。10年前の面影は多少残っているが、背も伸びて立派に成人していた。

 そんな娘に対して父としてふるまうべきなのか、それとも喫茶店ジータのマスターとしてふるまうべきなのか・・・。

 洗い物を磨いていた布巾を片付けると、伝票を手に持ち藤田は二人のもとに行った。

「おきまりでしたら、伺います。」

 藤田は接客の決まり文句を言う一方で心ここにあらずであった。

 香織はそんな藤田と恵美の様子を見ておかしく思った。そして、自分自身の心境の変化に驚いてもいた。10年前なら思いもしない、藤田と一緒にいることの安心感、喜びを感じていた。

 そして、香織が言った。

「あなたが煎れてくれた、おいしいホットコーヒーをみっつ。」

 「ふたつ」ではなくはっきりと「みっつ」と指を3本立てながら恵美が言ったのを見て、藤田も笑顔になった。

「かしこまりました。しばらくお待ちください。」

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