第2話【誰かのために】
三谷博はすでに疲れ果てていた。
4月上旬の午後。職場には電話で話す者、プリンターの音、打ち合わせをする者などで活発に業務が処理されていく。その部屋の中で、三谷は目の前のPCの画面に映る担当顧客から配信されてきた資料を見ていた。そんな時だった。
三谷のデスク脇の電話が鳴った。製造部の責任者である佐藤部長からだった。至急来てくれと呼ばれた。三谷は上司に断って工場棟の製造部事務所を訪れた。すると、いきなり文句を言われた。
「三谷君さあ、これはどういうことなんや?。ちゃんと阿呆な俺でも分かるように説明してくれるか?。」
関西出身の佐藤はこれ、と言いながら見せてくれたA4サイズの紙は三谷が発行した『生産依頼兼指示書』だった。発行者である三谷のハンコと上司の確認印が発行部署名の欄に押されていた。
「あ・・・はい、・・・そちらに書いている通りでお願いしたいんですが。」
「あのなぁ、三谷君。」
いったん自分を落ち着かせるような声で佐藤は三谷に言い始めた。
「先週の生産会議の時に、俺言うたやろ?。忘れたんか?。今は別製品の生産でラインに余裕ないから、急にこんな予定を入れられても対応は無理や、って!。」
佐藤は普段は愛想もよく話していて面白い人なのだが、感情的になると強い大阪弁が出てくる。
「あ、あの・・・でも何とかなりませんか?お客さんともう約束しちゃったんで・・・。」
「ジブンなあ、二言目には『お客さんと約束した』っていうけどなあ、現場の誰かに話したんか?確認したんか?調整したか?。してないんやろ?。さっきウチの川田くんからの打ち上げで初めて知ったけどなあ・・・。なんでなんも言わんとしれっと紙切れ一枚だけ回してあとは現場にお任せ、はいおしまい・・って真似すんねん!。・・なあジブン!、何の相談もなしに話を勝手に決めるな、って言うてんねん!。・・・ワシいう事間違うとるか?なあ!?・・・黙っとらんとなんか言えや!!。ラインいじるちゅうことがどんだけ大変なんか知らんやろ?。」
関西出身の佐藤の言う「ジブン」とは、佐藤自分自身のことではなく面と向かっている三谷のことだ。相手のことを「ジブン」と発言する佐藤の言うことが三谷にはわからず、
「は・・・はぁ・・・。」
と応えるのが精いっぱいだった。
「はぁやないねん!ずっと前から言うてるやろ!こんな短納期で現場が対応できへんようなこと、お客さんと勝手に約束すんなって!。なあ、ちゃんと俺に分かるように説明してくれや!。どういうことやねん!。」
知らずに佐藤の声は大きくなっていた。三谷には返す言葉が出てこなかった。
学生時代にラグビーをしていた佐藤は身長175センチで体重は100Kg近くあろうかという男だ。分厚い胸板や広い肩幅は三谷とは比べ物にならない。三谷はその佐藤に、たとえ座っていても威圧感を感じた。しかも腕組みしながら、関西弁で叱られるのは三谷にとって恐怖でしかなかった。周囲の人間も佐藤の剣幕に驚いて二人を見ていた。
ちょうどその現場に三谷の先輩の谷聡一郎も別の製造部担当者と話し合いで居合わせていたので、谷が飛ぶように二人のもとにやってきた。
「すみません、三谷が失礼をしたようで、指導不足ですみません。ほら、三谷君も謝って!。」
谷が真っ先に頭を下げた。そして三谷もいやいやながら頭を下げた。谷は腰から曲げるように上半身をおよそ90度に、三谷はそこまではいかずおよそ30度くらいか。
それを見た谷は三谷の背中に手をやり、半ば無理やり自分と同じような姿勢にさせた。
佐藤は周りに部下がいる前で感情的になってしまった自分を顧みながら、
「わかったよ、シフトを考え直してなんとか間に合うよう調整してみるよ。なんかあったらまた連絡する。」
と応えた。
「有難うございます。宜しくお願いします。」
谷は再び頭を下げてそう答えたが、三谷にはその言葉が出てこなかった。佐藤の顔を見ることができず、せいぜい首をうなだれて下を向くのが精いっぱいだった。
それとは別に、三谷の心には『最初からそうやって調整してくれたらいいじゃないか、注文を取ってきたのは自分だし、その仕事があるから会社が儲かるんだし、会社が儲かるからみんなも給料もらえるんだし、・・・。その仕事を取ってきた自分に対してなにかしらの感謝の言葉があってもいいと思うのに、なんで文句を言われなきゃいけないんだよ・・・。なんで怒られなきゃいけないんだよ、なんでこんな思いをしなきゃいけないんだよ・・・。』という被害者意識の塊になっていた。
そして横にいる先輩の谷についても、お客さんにも社内の人間にもペコペコ頭下げて、社内の人間相手ならもっと威張ればいいのにという思いが沸き、理解することができなかった。
なんとか難を乗り越えて自分の職場に戻るとき、谷が
「なあ、三谷。自分が悪くなくても相手が少しでも機嫌悪そうにしていたら先に『ごめんなさい』って言って、あえて自分が悪役になるのもコミュニケーションをうまくする一つの方法だからな。」
などとアドバイスしたのだが、三谷は生返事するだけで頭には何も入ってこなかった。
すっかりやる気をなくした三谷はその日の仕事に身が入らなかったのもあって、遅い帰宅となった。
時刻は夜の9時を過ぎていた。また残業の一日だった。やれやれ、今日のところは終わろう。
帰りの電車は帰宅ラッシュの時間を大幅に過ぎたのもあって、何とか座ることができた。
座って何気なしに周囲を見た。
自分と同じように遅くまで仕事をしていたと思われる人が比較的多いのだが、仕事帰りに一杯ひっかけてほろ酔いのような人もいるし、重役さんのようなしかめっ面の人もいるし、現場仕事の作業着のままの人もいるし、また遊び帰りのような楽しそうにおしゃべりをする学生たち・・・。
自分のように、要領が悪いのかなかなか周りの人と上手くいかず悩んでいる人はこの列車に乗っているだろうか・・・。
そんなことを考えていた。
30分ほど電車に揺られて自宅の最寄り駅で下車し、自分の住むアパートまでの道を歩いていた。ふと気づくと以前携帯電話ショップだったところに新しい店がオープンしたようで、灯りがともっていた。その灯りも、会社の室内灯のような青白い光ではなく、優しい暖色系のオレンジに近い光だった。明るいのだが、明るすぎず落ち着いた雰囲気の店内の様子が見えた。
がらんとした店内に、その店の責任者と思われる男がカウンターの向こう側に椅子があるのだろう、座って雑誌を読んでいるように見えた。
店の名前は【喫茶ジータ・営業中】と入口手前のところにコルクボードに手作りの張り紙のようなもので表示されていた。
「へぇ~、こんな時間にやってるんだ。」
三谷は誘われるように、無意識のうちに店のドアを開けて入っていた。
ドアに連動してカランカラン、と鈴の音が鳴った。ドアの内側に鈴が吊ってあり、それが鳴ったのだ。
店内は挽きたてのコーヒーの香りが充満していた。また、控えめの音量でクラシック音楽が流れていた。
「いらっしゃい。」
店のマスターである藤田が三谷が入ってきたのを見て雑誌を読むのをやめ、顔を上げて迎えた。
「お好きな席にどうぞ。」
と静かに穏やかに案内してくれた。
店内は他に客もいない状態だった。
「じゃあ・・。」
と、三谷はカウンター席に座った。持っていたカバンをカウンターに置き、メニューを見た。
オリジナルブレンドコーヒー、HOT&COLD、300円(税込)。ただそれだけだった。選択に迷うことのない、シンプルなメニューだ。
カウンターに両手を置き、背中を丸めがらそのメニューをしばらくぼうっと見ていた。
「どちらになさいますか?」
藤田は調理台の手元に置いていた伝票を持ち、穏やかな口調で聞いた。
三谷は
「じゃあ・・オリジナルブレンドコーヒーをひとつ、ホットで。」
とオーダーした。
「かしこまりました。」
藤田はそういうと用意していた二枚つづりの伝票に『正』の字の『一』を書き込み、一枚めくり取り、複写された伝票をとそれを留めていると伝票大サイズのバインダーを三谷の目の届く場所に置いた。めくった伝票を作業場の手元に置いて作業を始めた。
コーヒーメーカーで既にドリップされたコーヒーがで保温機にあり、それをあらかじめお湯で温めておいたカップに注ぎ、他にスプーンと共に準備していたカップソーサーに置いて三谷の目の前に置いた。
「ごゆっくりどうぞ。」
砂糖やコーヒーフレッシュもカウンター席の目の届く場所に置いてあった。
「あ、どーも。」
三谷はつぶやくように答え、ただぼうっとコーヒーカップを眺めた。
少しだけシンプルな模様が入っているが、どこにでもあるような白いコーヒーカップだ。
そして、カップに入っているコーヒーの黒っぽい液体。程よい香りが鼻腔を刺激してくる。
三谷はひとくち、何も入れずに飲んでみた。
口の中に含み、味を確かめた。毎朝飲むすっきりとした味わいで飲みやすい缶コーヒーとは明らかに違う、味わい深いコーヒーだ。ゴクゴクと飲むコーヒーではなく、じっくりとその香りや味を楽しんで飲む、そんなコーヒーだと思った。そして、口の中に含んでいたコーヒーをごくりと飲み込んだ。
飲み込んだコーヒーは三谷の食道を通ってほんの5秒ほどで胃袋に届く。暖かいコーヒーが胃袋に入ると、その胃袋に近い臓器である心臓にもそのコーヒーの暖かさが伝わっていった。
それは三谷の心にも染みこんで、頑なだった心の緊張を解きほぐしていく。少しずつだが穏やかで優しい気持ちにさせてくれる、そんなコーヒーだった。
こんなコーヒーは初めてだ。
喫茶ジータのコーヒーが『そんなに肩ひじ張って一人でやろうとしないで、もっとみんなと仲良くしてチームで頑張ろうよ』と心に語り掛けてくるようだった。
二口目を飲んだ。
一口目に感じたものがより強く感じられた。錯覚ではない。
「美味しい・・・。」
体が求めていたのか、心が求めていたのかわからないが思わず口にしていた。
「お褒めいただき有難うございます。」
藤田が丁寧に軽くお辞儀をしながら、そして笑顔を見せながら三谷を見ていた。
落ち着くと、三谷は時計を見た。
時刻は22時15分を指していた。
こんな夜遅くにやっている、オリジナルブレンドコーヒーだけの喫茶店。
普通の町の喫茶店ならこんな時間までやっていることはない。遅いところでも21時で終わる店が殆どだ。
訊くと、
「つい先日に開店させていただいたばかりです。お客様のように、お仕事でお疲れの方が帰宅される前にふらっと立ち寄れる、そんな店にしたいと思いました。」
とのことだった。
「金曜日はお休みをいただきますが、月曜から木曜は夕方5時から夜11時まで、土曜と日曜は朝10時から夜8時まで営業させていただきますので、よろしければこれからもご利用ください。」
と丁寧に説明してもらった。
「はい、ぜひお願いします。」
三谷もマスターに思わず笑顔とともに返事していた。
「コーヒーが冷めてしまわないうちにどうぞ。」
「はい。」
いつの間にか会社での疲労がどこかに吹っ飛んでいた。
自分は何を悩んでいたのだろう。そして、どうして疲労が消えたのか。
しかも、コーヒーを一杯、飲んだだけで。
不思議に思いながら、三谷はあらためてコーヒーフレッシュをひとつ入れてかき混ぜ、喫茶ジータのコーヒーを飲んだ。
数日後、昼休み中に自分のデスクで寝ていると同期の井上がやってきて、
「よう、三谷君、調子はどう?。ちゃんとコミュニケーションとってる?。もしかして貝になったりしてる?あ、貝じゃなくって、何?。あ、そうか、地球の言葉が分からない宇宙人か・・・。って、人が話しかけてんのに無視かよ?、お前。」
と訊いてきた。
入社研修会の時からそうだった。この井上誠也という男、悪気はないのは分かっているのだが厚かましい性格で遠慮という言葉を全く知らないのか、三谷が一人になりたいと思っていようがなんだろうがどんどん土足で人の心に入って来る。
「うるせーなあ、せっかくの昼休みなんだから静かに寝させてくれよ。」
と面倒くさそうに三谷は身体を起こした。
「何言ってんだよ、いい話持ってきたやったんだぜ。感謝してもらいたいくらいだ。今度の週末に合コンやることになったんだけどお前も参加するよな?。他の同期のみんなはOKって返事くれてるんだ。」
「はあ?合コン?。そんなの面倒くせえ・・・チャラチャラしたお付き合いなんて・・・。」
「バカだなあお前。」
「バカって誰に向かって言ってるんだよ。」
三谷がややムキになって言い返そうとしたが井上はそれには相手にせず身振り手振りしながら
「いいか、三谷。合コンをバカにしてはいけないんだぞ。人生を変えるビッグイベントになる可能性を秘めた、男女の出会いを援助するパーティーなんだぞ。特にお前みたいに人嫌いな奴ほど、大事なイベントなんだ。あとでまた会場とか時間とか詳しいのを連絡するから、絶対来いよ。」
と逆に説得し、
「誰が人嫌いだよ!。」
と文句を言おうとした三谷を相手にせず、言うだけ言って去って行った。
なんて奴だと思いながら、呆気に取られて井上が去って行くのを見ながら、まあいいか、とたまには付き合うことにしようと思いながら三谷は再び机にうつぶせになって残りの昼休みを寝ることにした。
そして、週末の金曜日の夜7時。
連絡を貰っていた合コンの場に、三谷は居た。他の同期の3人は皆合コン相手の女子たちといろいろな話題で盛り上がっているのだが、三谷は最初の乾杯と自己紹介の時に喋ったくらいで、殆ど相手にせずにいた。
やはり賑やかな酒の席は苦手だ。酒は嫌いではないが、大勢での飲み会がどうも好きになれない。トイレに行くふりをしてこのまま帰ろうか、などと考えていた。
その時だった。三谷の目の前に座っている女子が立ち上がり、
「ちょっと、そこのアンタ!」
と大声を張り上げて三谷に向かって指をさしながら叫んだ。
「なーにひとりでこの場を盛り下げるようなことやってんだよぉ。私はねぇ、アンタみたいな自分勝手なやつが大っ嫌いなんだよぉ。」
三谷は彼女のその勢いにドキっとした。一瞬にして会場の空気が固まり、そして三谷も何も言えなかった。
「だいーたいねぇ、なんだってんだよぉ。まいにちまいにちコロコロ態度変えやがってよぉ、付き合わされるこっちの身にもなれってんだよぉ・・・部長にはへこへこするくせに、部下の私たちにはえっらそうに威張りやがって、二枚舌の大馬鹿野郎・・・こんな会社辞めてやる~。うぇ~ん・・・。」
と、彼女は自分のたまっていたストレスを発散するように言うだけ言って泣き出した。
その彼女の荒れっぷりに女性軍たちは
「ちょっと、美紀ったらどうしたのよ?。」「ごめんなさい、こんなみっともないのお見せしちゃって。」「美紀、アンタ飲みすぎなのよ。」
と慌ててフォローし、彼女をお手洗いに連れて行った。
いっきにその場がシラケてしまった。
三谷、井上含めた男性陣はその場に残された。
「ん~、参ったなあ・・・合コンの場に職場の悩みを持ち込むなんて、やめて欲しいよなあ。」
と井上がため息をつきながら言った。他のメンバーも
「だよなあ、仕事での愚痴の話なんて聞きたくないよなあ。」「そうそう、せっかくの出会いを楽しむつもりだったのにさ、興覚めもいいとこだよな・・・。」
と考えは井上と同じだった。が、三谷は
「でも、それだけ彼女は必死なんだろ。仕事に対して真面目なんだよ。真剣なんだよ、きっと。」
と彼女のほうをフォローするコメントを残した。
「えっ・・・。」「三谷お前、あの彼女に気があんのか?。」
と井上はじめ他の同期の者が三谷に質問した。
「そんなの、あるわけないだろ。」
三谷は至って冷静にはっきりと言った。
「そんなことより、お前らだってちゃんと真剣に仕事してんのか?。確かに俺も彼女のあの勢いにはびっくりしたけど・・・彼女はそれだけ仕事に対して真剣だからこそ二枚舌の上司が許せなかったんだろ?。きっと、適当なやつが嫌いなんだよ。調子よくすぐに誰かに頼って、自分は楽をして手を抜いて、ただ給料もらうために会社にいる、そんなことやってないか?。せっかく会社という組織として働いてるんだ。全部署、全社員が同じ方向を向いて力を合わせて仕事すれば、余計なおしゃべりも減って、残業も減って、その分早く帰れるじゃないか。無駄な会議や残業もなくなれば会社はより儲かるのに、昔からの定例だからとか情報共有だとか変な理屈言って会議するけど、その会議の時間を無駄に使ったりしてないか?。挙句の果てには時間がないとか言ったり、残業代がゼロになるのは嫌だと言って変に理由付けて残ったりしてないか?。
何のために仕事してんだ、俺たちは?。金のためか?それとも地位名誉のためか?違うだろう?。俺たちが力を合わせて作った商品やサービス、それがユーザーの手に届いて、その人たちに喜んでもらうためだろう?。そのために真剣に仕事に取り組んでいるか?。俺の言ってること、間違っているか?」
三谷にとって、彼女が言った言葉は以前の自分がやっていたことによく似ていたのだ。そして心の中に抱えていたものがいっきに吹き出し、このような言葉が出た。が、三谷のその言葉に全員無言だった。その場を悪い空気にしてしまった。
「・・・なんだか俺もお邪魔虫みたいだな。やっぱり俺にはこういう酒の席は合わないよ。ごめん、帰るわ。」
三谷はそう言って参加費を井上に払って帰った。
帰り道、少し言い過ぎたかな、と振り返った。酒のせいかもしれない。ただ、普段から思っていることがストレートに言えた。言ったことは間違っていないはずだし、後悔もしていない。まあ、翌日出社したら井上にはあらためて勝手したことを謝ることにしよう。
ただ、無性に喫茶ジータのコーヒーが飲みたくなった。が、金曜日は定休日だ。しかたがない、帰ることにした。
その夜はなかなか寝付けなかった。
そして翌週月曜日。
9時半過ぎ、事務所で伝票処理の業務をしているときに、直属の課長に呼ばれた。手を止めていくと、
「三谷君、来週水曜日にB商事に提出するこのプレゼン資料だけど、アイデアはなかなかいいと思うんだけどなあ・・・でも、この書き方じゃダメだよ。」
と言われた。
客先で見せるプレゼンテーションの資料は金曜日の昼間に作ったものだ。井上に合コンに誘われていたのを気にしながら作ったのを思い出した。
「え?」
「この書き方だと、これを見るお客さんは・・・。」
三谷本人を主役にしたような書き方を指摘されたのだ。三谷は
「でも、このプレゼンは私が作ったものですから、私からの提案として・・・」
と一時反論を試みたが、それがきっかけに長々と説教のごとく言われることになった。
他に伝票処理の仕事もあるのに、またやり直しかよ・・・忙しい金曜日になんとかつくって、自分でこれでいい、完璧、文句なし、と作った自信満々のプレゼン資料なのに、と嘆いた。こんなことなら合コンなんて参加しなければよかった、と悔いた。
多数の箇所に変更の仕方などを付箋で貼られた資料一式を持って自分のデスクに肩を落として戻った・・・。
その様子を見ていた先輩や同僚達からは
「三谷、何落ち込んでいるんだよ、書き直せば終わるんだろ?、さっさとやって早く帰ろうぜ。」
と言われた。
三谷は人の気も知らないで、他人事だと思って・・・特に同期の井上なんて、大学は俺より格下の大学で平凡な学歴だったくせにずるい奴だ、男のくせにすぐに他の人に頼って調子よく甘えて上手に手を抜きやがる。俺なんか誰の力も借りずにやってるというのに・・・と、心の中で愚痴っては更に落ち込んだ。
しばらくしてなんとか気を取り直し、伝票処理の続きを先に終わらせるべくパソコンの作業を続けた。
定時を過ぎると、周囲の者は切りのいいところで仕事を終えて帰っていく。プレゼン資料の修正が未だ終わらない三谷はその人たちを恨めし気に見ていた。
「あいつら、気楽なもんだな。」
帰っていく他の社員を見ながら机にうつぶせになりながら誰にも聞こえないよう、独り言を言った。
知らぬ間に一瞬だが寝ていた。いや、一瞬ではないかもしれない。とにかく、集中力が途切れていた。
気分転換にトイレに行って用を足した。用を足しながら、
「何やってんだろう、俺・・・。」
と一人呟いた。
学生の頃もそうだったから孤立すること自体はあまり気にはしていない。
だが、孤立するだけでなく同僚をはじめ上司や他部署の人間からもいよいよ嫌われているんじゃないか、とふと思った。
嫌われているんじゃないかと思うのと同時に、「もう辞めようかな、この会社・・・。」と言う考えすら頭に出てくるようになった。
先日の合コンでの女の子がヒステリックに「やめてやる!」と叫んだ、あの瞬間が思い出された。そう、今の会社を辞めて、もっと自分に合う、自分を認めてくれる環境のあるところへ転職すれば・・・と。
しかし一方で、自分で決めて入った会社じゃないか、もう弱音を吐くのか、長い人生のなかのまだほんの一時期のことじゃないか、しかも正式配属から1カ月しか経っていないのにもう根を上げるのか、『石の上にも三年』という言葉があるんだからせめて3年頑張れよ、一緒に暮らしてる母親に心配かけられないんだろ!?というふたつの思いが自分の中でぐるぐると無限ループしていた。
トイレから戻ると、なんとか気合を取り直して資料の訂正をして、上司の確認をしてもらった。そして、帰路に就いた。
帰宅前に喫茶ジータに寄った。
コーヒーを飲みながら、心を落ち着ける。
すると、いろいろな思いが沸いてきた。いったい自分はなにを迷っているんだろう、と。
マスターの藤田が他の客の相手を終えてキッチンスペースに戻ってくると、三谷は気になっていたことを相談してみた。
「マスター、突然変な質問になりますけど・・・人はなんのために働くんでしょうか・・・自分が生きるに必要な金を稼ぐためでしょうか、会社の業績・儲けのためでしょうか、それとも本人の出世というか名声のためでしょうか、あるいは自分の趣味など遊びに費やすお金のため・・・?。」
藤田は想定もしていなかった問いに少し戸惑った。
「なかなか難しい質問ですねぇ、仕事で何かありましたか?。」
と考える時間をとるため、逆に三谷に質問した。三谷は
「この間会社の同期のやつと酒を飲む機会があって、その時ちょっと言い争いみたいになって、それからずっと引っ掛かってて・・・。一番相談したい父は俺が小さいころに交通事故で死んじゃって母と二人暮らし・・・。母には変な心配かけたくないし、そもそも女性である母には男社会のことは相談できなくて・・・。マスター、お願いします。」
と返事すると藤田はしばらく考えた。三谷が父親代わりに自分に答えを求めているのに、いい加減な答えは出来ない。自分の体験を話すことにした。
「そうですね・・・私が若いころ、会社勤めの一人の営業マンとしてそれはもう昼夜土日の休みも関係なく全力で働いていましたね。なんのために働くのかなんて考える余裕もなかったなあ・・・。」
「考える余裕もなかった?。」
「ええ、だから逆に私はあなたが羨ましいですよ、そういうふうに考える時間があることに。私は一人の営業マンとして会社の商品を売り込みに行って、見込みがありそうなお客さんの都合に合わせて、とにかく走り回っていました。売り込みに成功してもそれで終わりじゃない。トラブルがあったら代替え品をもって謝りに走ったなあ・・・。いつもペコペコ頭を下げてたなあ・・・。」
三谷は、藤田の話を聞きながら谷先輩の言葉を思い出した。「自分が悪くなくても相手が少しでも機嫌悪そうにしていたら先に『ごめんなさい』って言って自分が悪役になるのもコミュニケーションをうまくする一つの方法」という言葉を。
藤田は続けて、
「なんのためにと思うこともほぼなかったですね・・・。それが営業の仕事、と理解してとにかく走り回ったのを覚えています。今はこうしてコーヒー屋さんになって、皆さんの憩いの一杯になれば、と意識して煎れていますけどね。だから、・・・なんのため、というご質問に答えるなら・・・しいて言えば・・・必ずどこかで喜んでくれる誰かのため、でしょうか・・・それが誰なのかは、職種や人によって違ってくると思います・・・。そう思えばつらい仕事も頑張っていけるものですからね・・・。
お金は確かに生活に必要ですが、必要以上のお金や自分の「欲」を目的にしちゃうと、ちょっとしたことで争いになって、大事なものを失ってしまうと思います・・・。
いかがでしょうか・・・ちゃんとした答えにならずすみません・・・。」
と三谷に説明した。
その返事を聞いて、三谷はなるほどと思う一方、今藤田が言った言葉だけでなく谷先輩の言った言葉を思い出していた。『先にごめんなさいって、自分が悪役になる』、『考える余裕もなかった』、『いつもペコペコ頭を下げてた』、『必ずどこかで喜んでくれる誰かのため』という言葉を・・・。
そして
「喜んでくれる誰かのため、か・・・できるのかな、俺に・・・。」
と独り言をつぶやいた。
あらためてコーヒーを飲みながら、三谷は考えた。すると、ひとつの答えのようなものが頭ではなく、心の中に出てきた。それは、『調和』という言葉だった。
生まれつき周囲を競争相手として見てきた。物心ついたころにはすでに父親は居なくて、母と二人っきりの毎日だった。学校の成績でクラスメイトよりもいい点を取れば母も喜んでくれた。母に喜んでもらおう、と誰よりも勉学に励んでいるといつのまにかクラスメイト全員に対し敵対するようになっていた。相手に敵対心がなくても近寄って来る者は皆、敵だった。そして、誰かに気を使うのも面倒だし一人でいいと思っていた。誰の力も借りずに一人でやってきた。誰にも負けないよう、一人で闘ってきた。
だが、会社というの組織の中で一人でできるものなんてあるだろうか?。実際会社員になってこの一年、多くの部署との連携・調和がなければ何もできないことを知った。このままではまずい、ということも気づいていた。
そのとき、不意に気づいた。悪いのは周りの人ではなく、自分なのだ、と。
何かあるたびに自分は正しい、悪いのは周囲だ、環境だ、と自分を守ろうと屁理屈ばかり言っていた自分に気づいた。そのたびに周囲に迷惑をかけたし、自分も苦しんだ。谷先輩が言っていた、「あえて自分が悪役になる」という言葉の意味がようやく分かった。
その答えに気づいた時、目の前のコーヒーから「やっと気づいたんだね」と言われたように感じた。錯覚だろうか。
あらためてコーヒーフレッシュをひとつ入れてかき混ぜ、喫茶ジータのコーヒーを飲んだ。
コーヒーが胃袋に入り、胃袋のすぐ近くにある心臓へコーヒーのぬくもりが届く。
ふと気づくと、三谷はいつのまにか涙をこぼしていた。
「あれ・・・なんで涙が・・・何でだろう・・・ううっ・・・。」
三谷はカウンターに顔を沈め、静かに泣いた。
藤田はそんな三谷を静かに優しく見守りながら、他の客が返却口に置いたコーヒーカップを順番に回収し、洗い始めた。
30分後、喫茶ジータを後にする三谷の表情にはこれまでにあった孤独感や冷たさが消え、柔らかな表情になっていた。
4月下旬、夜風はまだ冷たくもあったが、三谷の心には温かい穏やかな風が吹いていた。
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