理由

 深く息を吸い込むと、私はがばりと勢いよく頭を下げた。きつく目を瞑って、勢いよく声を上げる。



「っごめんなさい。……私、新村先輩とは、お付き合いできません」



「──……」


 私なんかが新村先輩の告白を断るなんて、誰が聞いてもなんて勿体無いと呆れてしまうに違いないけれど。ついでにかなり胸が痛むけれど、それでも頷くことのできない事情が私にはあった。


 とても顔を上げられなくて、手汗の滲んだてのひらでスカートを握りしめる。彼は自分を知ってもらえていて嬉しいなんて謙虚なことを言っていたけれど、自分の功績や名声に本当に無自覚な人なんていないはずだ。

 きっと断られるなんて想像もしていなかっただろう彼がどんな反応をするのか分からなくて、正直怖い。何せ彼はその気になれば、私なんて簡単に社会的に抹消してしまえるのだから。

 流石に、振られた腹いせにそんなことはしないと信じたい、けれど。


 冷や汗が背中をゆっくりと伝っていく。永遠にも思える重い沈黙がその場に落ちた後、ぽつりと彼が呟いた。


「……理由を、」


 その声があまりに平坦で、彼から発せられたものと思えなくて、私は思わず顔を上げた。


「理由を、教えてもらえないかな」


 見上げた彼は変わらず人好きのする笑みを浮かべていて、……でも、何と言うか。

 私は頬を引き攣らせて、思わず一歩後ずさった。

 そう、瞳が。笑みの形をとっているはずなのに、まるで深海を映し込んだみたいにほの昏い光を宿したそれは、ちっとも笑ってなんかいなかった。

 気分は蛇に睨まれた蛙だ。けれど回れ右して逃げ出すわけにもいかず、私にできたのは震える声で彼の言葉をおうむ返しすることだけだった。


「り、理由」


「うん。さっきも言った通り、俺は八雲さんが大好きだから、そう簡単には諦められないんだ。もしも理由が俺の努力でどうにかなるものだったら、そうさせてほしいから」


 甘い声で大好き、と囁かれて、本来なら胸の高鳴りを覚えるはずなのに、何故だかぞわぞわと肌が粟立った。……理由、そうか、普通はそういうことも聞かれるのか。

 告白なんてされるのは初めてだったし、ましてやあの新村先輩が振られて食い下がるなんて思ってもみなかったから、何も考えていなかった。しかしあなたの努力では絶対どうにもなりませんなんて、本当のことをぶっちゃけてしまうわけにもいかない。

 彼のじっとりとした視線に急かされて、私はどうにか頭を回転させて言葉を絞り出した。


「えっと、えっと……その、やっぱり新村先輩は住む世界が違う人って感じがして……価値観が合わないと、うまくいかないかなって……」


 私の拙い言い訳に、彼は酷薄に目を細めると小首を傾げた。


「俺は八雲さんと同じ世界で生きてるし、価値観がそれぞれ違うなんて、当たり前のことじゃないかな。誰しも擦り合わせて、折り合いをつけてうまく付き合ってる。俺は八雲さんのためにそうすることを全く面倒だと思わないし、むしろそうさせてほしい。心配しなくても、俺が全部八雲さんに合わせるよ。君は何も変わらなくていいから」


 声は朗らかなのに、その笑顔から妙な迫力を感じて、私は震え上がった。そして、でっちあげた言い訳が当たり前のように完封されてしまった。


「そ、その……あとはやっぱり新村先輩は人気者だし! 私じゃ釣り合わないっていうか、周囲の目が怖いというか……」


 新村先輩自身じゃなく彼を取り巻く環境を理由にするのは卑怯な気がしたけれど、彼自身が完璧超人すぎて他にいちゃもんがつけられない。苦渋の思いで声を絞り出せば、彼はそれを鼻で笑った。

……あ、あれ、話すのは今日が初めてとはいえ、こんなひとだったっけ?


「はっ。釣り合わないって……俺がこんなに八雲さんがいいって必死になってるのに、誰がそんなこと決めるの? それに周りのことなら大丈夫だよ、誰が何を言っても、何をしても、君を守れるよう準備はしてあるから。……雑音の一つも、君の耳には入れさせない」


 彼が一歩足を踏み出して、濃い影が私を飲み込むように覆い被さった。同じだけ後退りたいのに、逆光の中で昏い光を宿した瞳に射抜かれて動けない。

 おかしい、こんなはずじゃなかったのに。話したこともない、遠目に見かけてちょっといいなと思っていたくらいの相手に対して、こんなに食い下がるものだろうか。

 重苦しい空気から逃れるようにぱっと目を逸らして、私は慌てて口を動かした。


「っその、それに、私新村先輩のこと、全然知らないですし……、い、いきなりそんな風に見ろって言われても」


「八雲さんが聞いてくれるなら、俺のことは何でも教えるよ。これから少しずつ知っていってもらえたらいい。勿論最初は恋愛感情がなくったって構わない、君が望むなら、当分名前だけの関係だっていいよ。……ただ、君の恋人の座を、俺の名前で埋めておきたい。誰かに奪われたくないんだ」


 いや、誰もそんなもんは狙ってません、趣味の悪いあなたくらいです、と焦りのあまり口から飛び出そうになって、どうにかそれを飲み込んだ。

 そろりと視線を上げた先、果てしない海の底の底を写し込んだみたいな彼の瞳から、その本気を悟ってしまったから。メガネの度がぴったり合っていることを、今日ほど恨んだことはないかもしれない。


 どうしよう、途中から何となく察していたけれど、この人、多分断らせる気がない。どんな理由を持ち出しても言いくるめられてしまいそうで、いよいよ私は焦りを募らせた。

 元々口が上手い方じゃないのに、この人相手にとても敵う気がしない。かといって告白を受けるわけにもいかない。


 にっちもさっちも行かなくなって青ざめ冷や汗を流す私を見下ろして、彼はゆっくりと目を細めると、とうとう貼り付けていた笑みを消した。

 控えめに申し上げて死ぬほど怖かった。


「……八雲さん。今君が挙げたもの、全部、本当の理由じゃないよね」


「え……」


「全くの嘘、ってわけでもないんだろうけど……ねえ、どうして教えてくれないの? 俺は本当に、何であろうと君の不安全部、取り除いてみせるのに」


 彼がまた一歩足を踏み出して、漸く足の動かし方を思い出した私が、それに圧されたみたいに一歩後退して。けれど何度もそれを繰り返す猶予は与えられないまま、やがて私の背が壁についてしまった。

 まるで弱った獲物を仕留める獣みたいなゆっくりとした動作で、彼が私の頭の横に手を着けば、私の身体なんて簡単に覆われてしまう。

 わあなんかいいにおいするなあ、イケメンって毛穴から香料でも出てるのかなあ、なんて現実逃避が許されたのは、彼が口を開くまでのほんの数瞬だった。地の底を這うような声に、ぶわ、と冷や汗が幾筋も背を伝っていく。


「──まさかとは、思うけど」


 逆光の中、彼の青みがかった瞳が、どろりと濁る。そこに渦巻く得体の知れない感情が、全て、腕の中の獲物に向かっていた。


「他に、好きな奴がいるなんて、言わないよね」



「え……」


 予想だにしない言葉に、冷や汗をかいたまま私はゆっくりと目を見開いた。勿論そんな事実はないけれど、なるほどそう断れば話が早かったのか、……とは全く思わない。

 何せこちらを逆光の中見下ろす彼の瞳孔は、完全に開いていた。これに頷いたら、今日を境に何かが終わると本能がびしばしと警鐘を鳴らす。

 かといってこれで首を横に振ったとして、じゃあどうしてと言われても結局答えられないわけで。


「え、えっと、……」


 言葉すらもまともに出ず、半ばパニックになって硬直していたら、それを肯定と取ったのか、彼の瞳の焦点がぶれた。

 彼の唇がゆっくりと耳元に寄せられて、吐息が耳朶をくすぐって肩を跳ねさせる。恐怖か緊張か分からないけれど、心臓が思い出したみたいに跳ね回って、世界の音が遠のいたみたいだった。


「……は、そうか、そいつのせいで八雲さんは頷いてくれないんだ。ねえ、誰、教えてよ。同じ委員だからって一昨日馴れ馴れしく話しかけてた美術部の一年? それとも先週落とし物を拾ったなんて言い訳で君の肩に触れた三年の野球部? もしくは俺の知らない誰か? そいつのことが好きなの? どこがいいの? 教えてくれたら、俺は全部同じようにできるよ。そいつよりも、よっぽど八雲さんの望むように振る舞える。……だから、教えて。今すぐに。そうでないと、俺は、……」


 新村先輩が多分、何か言ってる。けれど極度の恐怖にさらされたうえ、異性とこんなに近づいたことのない私は完全にキャパオーバーになっていて、幸か不幸か欠片も耳に入っていなかった。

 なんだっけ、なんでこんなことになってるんだっけ。ああそうだ、告白を断った理由を聞かれていた。あれ、でもそれは言っちゃだめで、……なんでだめなんだっけ、ああもう無理。


「八雲さん……」


 新村先輩が、掠れた甘い声と共に私の首筋に触れて、私はとうとう限界を迎えた。彼の胸を押して限界まで腕を突っ張ると同時に、勢いに任せて声を張り上げる。



「ッッッ私!! 特殊性癖持ちなんです!!! だから先輩とはお付き合いできませんーーー!!!」




「……えっ」




……あ、私の高校生活、終わった。

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