予想外
新村先輩は私に押しやられた体勢のまま、ぽかんと口を開けていた。イケメンは間の抜けた顔をしていてもイケメンなんだなあと場違いな感想が浮かぶけれど、現実逃避にも限界がある。
あれだけの大声で宣言して今更撤回することなんてできるはずもなく、さっきから変な汗がだくだく流れて止まらない。
やって、やってしまった。もう最悪だ、おしまいだ。
せめてもの救いは、大声で叫んでも第三者の耳に届かないであろう程度には、この第一体育館裏周辺は人気がないということくらいだろうか。
……密着しているといっても過言ではない距離にいた彼の耳に、ばっちり入ってしまっている時点でそれもほとんど意味はないかもしれないけど。
頭が真っ白になって青ざめ固まるしかできない私の前で、フリーズしていた彼が漸く動きを見せた。幾度か目を瞬いてから、ゆっくりと考え込むような表情へと移り変わっていく。やがて思わずと言った風に漏らされた呟きは、驚嘆に満ちていた。
「……なるほど、予想外だな」
そんなもん予想されてたら困ります、とツッコむ余裕は私にはなかった。穴があったら入りたいなんてものじゃない、もうとにかく今すぐこの場から逃げ出したい。
新村先輩が目を伏せているのをいいことにそろりそろりと壁伝いに横歩きし、それからがばっと背を向けると、私は上擦った声を張り上げた。
「そ、そういうことですので諦めてくださいすいませんそれでは!!」
「うん、逃すわけないよね」
声だけ置き去りにするくらいの気持ちだったのに、いつの間にか私の腕は後ろから彼にがっちりと捕まえられていて、ぴくりとさえ動かせなくなっていた。
まるで万力みたいなその力に、彼が全く逃すつもりはないのだと悟って絶望的な気持ちになる。そろりと振り向けば、それはそれはきらきらしい笑顔が待ち受けていた。
「逃げないで、八雲さん。ちゃんと君と話がしたいな」
言葉尻こそ柔らかいけれど、私には分かる。──これは脅しだ。うっかり秘密の一端を知られてしまった今、彼が一言周囲に漏らしさえすれば、いとも簡単に私の明日からのあだ名は特殊性癖になるだろう。そんな高校生活、いくらなんでも嫌すぎる。
私が羞恥と恐怖とこれからの学生生活を秤にかけ、最終的に半泣きになりながら逃亡を諦めたのを確認すると、与えられた情報を整理するように彼が視線を宙に巡らせた。勿論腕は掴まれたままだ。
「要は八雲さんは、その性癖……特定の条件を満たす人としか付き合いたくなくて、俺はそれに当て嵌まらないから断られた、って解釈でいいのかな」
「……ええと、まあ、はい……。あの、だから、新村先輩の何が悪いとか、そういうわけじゃなくて……」
なんだか彼の言い様だと、とんでもなく理想の高い身の程知らずな女みたいだな、と複雑な気持ちになるけれど、とりあえずそれは置いておく。
ひとまずこれで新村先輩に瑕疵があるわけでも、努力云々でどうにかなる話でもないと分かってもらえたはずだし。諦めて解放してもらえないかな、と淡い期待を抱いてみるけれど、ことがそんなに上手く運ぶはずもなく。
彼はにっこりと人好きのする笑みを浮かべると、当然のように尋ねてきた。
「八雲さんの性癖ってどんなものなの? 殆どのことに、俺は応えられると思うけど。誰にも言わないって誓うし、絶対引いたりしないから教えて欲しいな」
まあ、そりゃ聞かれますよね! それにしたって応えられるなんて簡単に言ってくれる。
しかし、私に口を割るつもりは毛頭なかった。これは本当に根深くて、直そうとしても苦しんでもどうにもならなくて、生涯一人抱えて生きるつもりだったものだ。誰であれ、おいそれと触れさせることなんてできない。
「……す、少なくとも、新村先輩は絶対当てはまらないので、聞いても仕方ないと思います!」
自棄っぱちにそう言い捨てれば、ぴくりと片眉を跳ねさせた新村先輩がすっと目を細めた。私の腕を掴む力が痛いほどに強くなって、思わず息を詰める。
「ふぅん……じゃあ、今まで君の条件を満たした奴はいたの? 君がこの人ならいいなって思って、心を傾けた誰かが、この世のどこかにいる?」
彼の青みがかった瞳がどんどん昏い光を帯びて、腕を掴む力が強まっていく。そんなものを間近に見せられたらたまったものじゃない、私は震え上がりながら全力で首を横に振った。
「い、い、いませんっ、いませんから」
必死の否定が功を奏したのか、彼が醸し出す重苦しい空気が少しだけ軽くなる。痛いほどに掴まれていた腕が漸く解放されて、私は安堵の息を吐いた。
「そっか、じゃあきっとよっぽど難しいものなんだね」
そう呟いた彼は先ほどとは打って変わってどことなく上機嫌だ。実際には今まで単純にモテなかっただけで、世間的に見れば条件に合致する人はそこそこいると思うけれど、藪蛇になりそうなのでそっと口をつぐむ。
今日初めて話したから当たり前といえばそうかもしれないけれど、新村先輩のことが本当に分からない。確かなのは、噂で聞いていたのとは随分性格が違うということだ。もしかしてこの人、とんでもない猫を被って生活しているんじゃないだろうか。
半分現実逃避でぼんやりとそんなことを考えていたら、ふと彼に「ねぇ、八雲さん」と呼びかけられ、慌てて現実に立ち返った。
「は、はい」
ぱっと見上げた先で、彼の瞳が思いの外真摯な光を宿していて、思わず目を瞬いてしまう。
「ひとまず、その場の勢いだったかもしれないけど……そんな大事なことを打ち明けてくれて、嬉しいな。八雲さんの秘密は、絶対に誰にも言ったりしないから安心して」
そう言って彼が口元に指を当てる仕草があんまり様になっていたものだから、私は思わず見惚れてしまった。最初の方に振った腹いせで社会的に抹殺されたらどうしよう、なんて思っていたのが心底申し訳なくなる。
しかし私が感謝を伝えるよりも、彼が言葉を続ける方が早かった。
「本当はその特殊性癖の内容も聞き出したいところだけど、まあ、話したのは今日が初めてだしね。それはおいおい、もっと俺のこと知ってもらってからにしようかな」
……ん? あれ、何だか話が不穏な方向に向かっているような気がする。おかしい、私は条件に当てはまる人としか付き合えないと伝えたはずで、新村先輩はそれに絶対当てはまらないって話もして、それで終わりじゃないのか。
私の疑念に気がついたのか、新村先輩は人を食ったような笑みを浮かべた。……あの、さっきまで被ってらした猫はどちらへ。
「やだな、その条件さえ知らされないまま、諦められるわけないでしょ? それにもしかしたら八雲さんがまだ気がついていないだけで、条件を満たしてなくても心が動くことだってあるかもしれないし」
「……え、」
「もう気がついてると思うけど、俺、かなり執念深いんだよね。まあ難しく考えないでよ、諦めきれないからアプローチを続けるってだけの話だし。……そういうわけで、」
これからよろしくね、という甘ったるい声が、私の身体に絡みつくような感覚がした。するりと取られた指先から得体の知れない熱が伝わってきて、ぞわりと肌が総毛立つ。
振り払うこともできずただ頬を引き攣らせた私は、何度目かも分からない現実逃避でゆっくりと遠のいていく意識の中、ぽつりと呟いた。
……ああ、うん、やっぱり。
──私の高校生活、終わった。
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