誰も彼女を奪えない

水辺ほとり

彼女を誰も奪えない

 梅雨の夜、仕事から帰るとパンを焼く匂いがした。


 玄関で「ただいま」と叫ぶと

「おかえり!」と穏やかな笑顔で夫が出迎えてくれた。廊下から香ばしいにおいが流れてくる。夫が柔らかく腕を広げるので、思わず口元が緩んだ。強く抱きしめると、頬を擦り寄せてきた。子犬のような懐こい笑顔を見て湧き上がる熱に蓋をする。


「む、ほっぺ冷たいな」

「雨の夜は冷えるのよ」

「あれ?今日、雨なんだ。気づかなかった」

「キッチンじゃわからないよね。……いい匂い。今日は洋食?」

「そう。焼いたパンと鯛のカルパッチョ、今日収穫した野菜のパスタ。どう?」

「素敵だね」と笑ってリビングに行くと、既に夕飯の準備が整っていた。抹茶色のクロスの上に器やカトラリーが整然と並んでいる。


 政治家の秘書を務める夫は、家にいるときはこうして全てのことをやってくれる。お姫様待遇は私はあまり好きじゃない。むしろ私は世話を焼きたい性分だ。夫が家にいないから、何かしら世話したいと家庭菜園を作ってしまうくらい。それでも、滅多に家にいない分の埋め合わせぐらいさせてくれと彼は言う。こんなことしなくても、夜に埋め合わせてくれればいいのに。


「シェフ、美味しいディナーでした」

「それはよかった!」


 夫は喜びのみなぎった顔を上げた。見えない尻尾がばたついている。

「片付けが終わったら、弾かない?」

「しよっか」ふふふ、と目を合わせる。これが、夜の誘いならどれだけいいかという気持ちを殺して、優しい目線を交わす。

 リビングにはグランドピアノがある。飾りではなく、二人で気まぐれに弾くためにある。街で今流行っている曲をうろ覚えで弾いたり、見終わった映画のエンディングテーマを思い出して連弾をしたりしていた。


 二人とも幼い頃からピアノは習っていた。「ご趣味は?」と聞かれれば、夫は即座にスポーツを列挙し、私は絵画や舞台を語った。全然趣味は違う。そんな私たちを、ピアノは真ん中で繋いでいてくれたのだ。

 音が重なるのは、とても気持ちがいい。激しい演奏を終えると、いつも興奮で熱くなっていた。音楽で昂ぶった身体に、冷やしたアルコールはどの季節でもご褒美だった。

 夫は今夜は何を弾くのだろうか。夫がセラーから見繕ってくれた今夜のワインを楽しみにして、ピアノへと向き合った。



夏が窓から侵入してきて、喉の渇きで目が覚めた。7月、夏の盛りらしい、乾いた天気だった。

隣のベッドは昨日からずっと綺麗なままだ。仮眠も一時帰宅もできず、仕事を続けているのだろう。帰ったら美味しいものを食べさせたい。


つばの広い帽子をかぶり、楽だからと言い訳をして夏らしいワンピースを下ろす。今年、はじめての活躍だ。大きな手提げに、フルーツウォーターをいれた水筒とラムネと財布を放り込む。大きさに対してスカスカだ。今日はここに何を入れよう。


買い出しの日は、なんだか鼻歌が出てしまう。お気に入りの市場まで足を伸ばして、家では育ててない有機野菜やハーブ、肉を買い込むのだ。結構な重さになるが、食べる楽しみのためにはやむを得ない。そうだ、夫お気に入りの、大きな飲むヨーグルト瓶も買わないと。

 太陽に焼かれる道を行く。みんな涼しくなった夕方に出かけたいんだろう、人影がなかった。

市場は、芝生の広場にたくさんのテントを張って開催されている。広場に水飲み場とベンチの他には何もないが、犬の散歩をする人、ベンチで本を読む人がいつもちらほらいる。しかし、流石に今日はいない。テントの方はずいぶん賑やかなのに。外で元気がなのは、日差しと木々の緑だけだ。


 ……いや、ひとり人がいた。レジャーシートを敷いて、テント出口近くの木陰で横になっている。昼寝かもしれないし、浮浪者かもしれなかった。それならいいや、帰る頃にはいなくなっているだろう。まずは買い出し、とマーケットのテントへ入っていった。


 色とりどりのテントの下では、卸し業者や農家の方が闊達に商っている。ミストシャワーがもう使われており、中はだいぶ涼しい。みずみずしい夏野菜、洒落た瓶入りピクルス、ジャム、パッキングされた大きな肉などが所狭しと並び、料理人や主婦たちがそれを吟味していた。試食をいただくと、ついつい買いたくなってしまう。必要なもの、買う予定はなかったけれど欲しくなってしまったものをどっさりと買い込む。夏野菜の旬のはじまりなのだ、仕方ない。


満杯に膨らんだ手提げを背負い、危なげな足取りでマーケットを出た。


出口から見える木陰には相変わらず人が寝ていた。黒づくめ。髪が長い。縦に細長く、若いような気がする。


 顔が見えそうで見えない距離は、この暑さ、この荷物で歩きたい距離ではなかった。帰ろう、と思ったけれど、ふと脱水症状の文字が頭をよぎる。不審者として通報されたら、相手が浮浪者だったらなどが頭を巡ったが、善きサマリア人でありたかった。その方が正しいのだから。


 一歩一歩近づいていくと、黒いポロシャツ、黒々とした長い髪。脱ぎ捨てられているパーカーも黒。横たわりはだけた肌だけは白くきめ細やかで、かなり若いことだけはわかった。


 若者の側には、一列に絵画が並んでいる。横になるために、レジャーシートの上からどけたのだろうか。


 不意に、一枚の絵と目が合った。ボールペンで細密に描かれた鯨だった。その目に、預言者のような暗い知性に、惹き込まれた。ダイバーとして暗い海でひとり、鯨に対峙する恐怖がせり上がってくる。


「あ、その絵は、です、ね……」

 聞こえてきた声に引き戻されて、弾かれたように顔を上げる。よ、いっ、しょ、と絞り出すように黒づくめが起き上がろうとしたが、ごん、と倒れ直した。


「あ、あなた、大丈夫?」どう見ても大丈夫ではないのに、咄嗟に出てしまう。

「頭、が……痛くて……」声がかすれていた。

「今ぶつけた?いや、脱水症状じゃない?ほら、少し起きられる?お水飲んで欲しいの」

 まくし立てて満杯の手提げから小さな水筒とラムネを掘り出した。ふと冷静に、あぁ、お節介おばさんと名乗れる年齢になったな、と思いながら若者を助け起こした。

 若者は両手で包むように水筒を受け取ると、ごくごくと水を飲み干した。人心地がついたようだ。


「ありがとうございます」と正座に綺麗な45度でお礼をされた。女のような澄んだ声だった。絵を売りたかったんですが、何を着ればいいかわからなくって……なにぶん外出は久しぶりでしたから。とりあえず全部黒にしてみたら暑くて暑くて、と早口に話していた。視線もきょときょと、と泳いで、目が合いそうになる都度にふっと逃げていく。


 話もひと段落し、若者は勢いよく立ち上がり、

「ありがとうございました」と言って歩き出したが、萎れるようにしゃがんでしまった。

「大丈夫!?やっぱり救急車を……」

 こういう時に大丈夫は良くないと知っているのに、とっさにこれしか出てこない。

「……あっ、大丈夫ですよ。アトリエはすぐそこなので。お金ないですから、救急車呼ぶよりいいです」

 点滴を打ったほうがいい、と言い聞かせたが、頑としてきかなかった。

「じゃあ、間を取りましょう。私がタクシー呼ぶから、そのアトリエまで帰りましょう」

 若者はギョッとして遠慮していたが、ここまで関わっておいて、放り置いて帰るのは気が引けた。幸い、クレジットは持ってきているし、金銭には困っていない。

 結局、押し通して若者を家まで送り届けた。


「わー……もしかしてあまり帰らないのかな」

 アトリエは、家というよりも、ガラクタ部屋とか倉庫といった場所だった。

「描くことに集中しちゃって……」と目を泳がせる。どうやら掃除は苦手らしかった。


「彼女とかいないの?片付けてくれるような一緒に住む人」からかうように聞いてみたが

「うーん、誰かと一緒に住むと、描く時間が減るので」

 若者はわずかな足の踏み場を通って、ベッドに倒れ込んだ。私はふう、と息をついて辺りを見渡す。びっしりと部屋に絵が貼られていることがわかった。あれ?


「もしかして、絵で生活してる?」

「ええと、はい……お金がないのは、振り込みを待たされているだけです」

 あっ、横になったまますみません、お礼と言ってはなんですが、と先ほどの鯨の絵を指差した。

「お持ちください。しばらくしたら、多分それなりの金額で売れます」

 申し訳なさそうに、絵を描くことしか、できないのでと呟いた。




 画家をアトリエまで送った後、待たせていたタクシーにそのまま乗り込んで家まで乗り付けた。

 手提げから食材を出し、今日使う分と明日以降の分に分けていく。色とりどりの夏野菜が早く食べて、とつやつや主張している。最後に牛乳瓶を取り出すと、瓶にくっついて丸まったクリアファイルがぺろりと剥がれ落ちた。結局、押し問答の末にクリアファイルに挟んで鯨の絵を持たされた。多少丸まってしまっても、伸ばして額縁に入れればいいと言っていた。落ちた絵を拾って眺める。そこまで大きくないのに、水中の揺らぎがここまで伝わってくる、細密な絵だった。

 こんな細かい絵を描くのに、どれだけエネルギーがいるのだろう。ピアノですら、譜面にのめり込み、イメージを拾い、指先から音を編み出すのはとても疲れる。何もないところから、自分のイメージをここまで細密に書き込むことに使う力は、どれほどだろうか。

 体、細かったな、と抱き起こした感触を思い出した。声もたおやかで女のようだった。それでも、私の手を握る力は強かった。ぶわ、と頬に熱が集まった。


 夫が帰ってきたときのための食事を作る間も、絵が、画家のことが、頭を離れなかった。元々絵は好きだったけれど、今までのどの絵よりも惹かれた。あの弱々しい体のどこから、こんなにも強い作品が沸き立ってくるのだろうか。


 額縁に入れた絵をじっと眺めて、ソワソワとする気持ちが抑えられなかった。料理はどうせ数日分まとめて作るのだから、少しくらい画家に分けても変わらない。今度、夫が帰ってこなかった朝、絵のお礼がてら様子を見にいこうと決めた。



 後日、作ったご飯を画家に届けに行った。画家は、私の料理をガツガツと食べた。

「そんなに勢いよく食べるとやけどするし、喉に詰まるよ?はい、水」

「ありがとうございます」

 ぐびぐびと水も美味しそうに飲んでいる。あまり人に懐かない猫の餌付けに成功したようだ。長い前髪の奥の、一重の目を喜ばせて、うんうんと頷きながら食べている。

「どう?」

「美味しいです!人の作ってくれたご飯久しぶりで、うれしいです。特にこのハンバーグ、いくつでも食べられます」

「ケチャップ系の味が好きなの?」

「はい、子供舌で。恥ずかしいんですけどね」と細目をさらに細くして照れ笑いした。

「食べおわったら、片付けを手伝ってもらっていい?」とごちゃごちゃの周りを見渡す。珍しい晴れなのだ、今のうちに片付けてしまいたい。

「あっ、す、すみません、がんばります……」

笑顔がこわいです、という小声は聞こえなかったふりをする。ここに着いた時、思わず驚きの声をあげてしまった。こんなに散らかるものだろうか。他人の家でも我慢ならない。

 壁沿いに大量に積んである物は部屋を一回り小さくさせていたようだ。一つずついる・いらないを作家に確認し、片付けていった結果、部屋はスッキリした。昔描いたという絵にもう使えないカビた画材、使った形跡のないソーイングセット、コーヒーミルの空き箱まであった。

 ふぅ、と額の汗をぬぐうと、作家がふふっと笑った。

「誰かと、作業をしたのは、久しぶりです。というか、初めてかも」

「……私も久しぶりだわ」口元がほころんだ。そういえば、久しぶりに自分の意志で夫以外のために体を動かした。

 夫のために社交に出ることは時折あったけれど、疲れる作法と上面のお喋りの連続だった。気を使わない会話と目的のための作業は、なんだか高校の委員会のようで楽しかった。

「次来たときも同じくらい綺麗にしておいてね?」

「あはは。保証はできないです……。汚れは嫌ですけど、散らかってるのは慣れちゃって」なるほど、言葉通り、カビや絵の具での汚れはなく、整理整頓が苦手なのがわかった。

 掃除が終わり、画家の家で作り置きのご飯を作り終えた頃にはすっかり日が暮れてしまった。

「急いで帰らないと」と言うと、猫背をより丸めて、わかりました、とボソボソいっていたが、

「またね!」には「はい」とはにかんでくれた。




 今日も朝から強い雨だった。

 「最近楽しそうだね」と夫は和やかな顔だった。

「楽しいよ。絵を描く方と知り合って、時々遊びに行ってるの。少し変わり者だけど……とても優しくていい人」初めて画家の家に行った時から1ヶ月経つ。私は週に一回、画家の家に通い、料理と掃除をしていた。

 こんなことやあんなことがあってね、と話すと

「へえ、それはいいなぁ。いずれ僕も会ってみたい」伺うような上目遣いに笑ってしまった。

「夜ご飯に呼んでもいい?」きっとあなたも仲良くなると思うんだ、と言うと夫はしばらくしたあと笑顔になった。

「もちろん!…………ねえ、そろそろ、冷めちゃわないかな?」夫は夕飯を前にお預けを食らった犬だった。

「ごめんごめん、食べましょ」

 手を合わせて、いただきますと言い、もくもくとおかずを食べ始める。夫は美味しそうにたっぷりと肉を頬張ってから、首を傾げた。

「おいしい。けど、いつもより甘いね?」

「みりんがどっと入っちゃったのかな」

 首を傾げて、ふと気づく。画家のために作った食事の味にだんだん近づいていた。

「うん、みりんのせいかも」自分でも肉を食べてみてから、もう一度付け加えた。

 急に夫の電話がなった。

「ちょっとごめんね。……もしもし」

 バタン、と扉を閉めて廊下の奥へ離れていった。雨の音が響いて、夫の電話の声が聞き取りづらい。

 戻ってきたので尋ねると、緊急のトラブルで、これから仕事、それも泊りがけになりそうだと言う。

「落ち着いたと思ったのに、短い帰宅になっちゃったね……。がんばって」

 ということは、今日の午後には画家の家に行けそうだ。

 そう考えて、心の底がざわりとした。頭の中に余白があると、画家のことばかり考えてる……。何もやましいことはしていないのに、どうしてこんなに心の底がざわざわとするんだろう。


 怖くて無視したいのに、確かめたい。余らせたおかずがもったいないから届けないと、と言い訳して、夫を見送った後、画家の家へ向かった。


 強い雨の中、今日のおかずを準備して、傘を差して画家の家へ向かった。雷鳴の中、打ち付ける雨は跳ね返りも凄まじく、傘はほとんど意味をなさない。びっしょりと濡れてワンピースが体に張り付いた。

 呼び鈴を鳴らしても返事がない。ドアに手をかけると開きっぱなしで驚いてしまった。アトリエへ入っていくと、真剣な面差しで、キャンバスへと向かい合う画家の姿があった。


 キャンバスに描かれていたのは、紛れもなく自分だった。


「誰」

 画家は、振り向くと目を丸くした。ゆらりと立ち上がると、床の色々な物を踏み付けながら、椅子をずるずると引きずって、キャンバスの真ん前に置いた。

「ここへ」

 ここに座ってモデルになれ、ということらしい。

 あまりの真剣さに飲まれて、寒いとか、タオルを貸して欲しいなどとは言えずに、頷いてしまった。

 目を閉じて、かりかりと鉛筆が紙の上を走る音に耳を傾ける。外の雨は激しさを増す。時々雷が鳴り響き、窓を切り裂くように光が縦に走っていた。湿気った空気の中、ぷん、と画材の香りがして、今いるのはアトリエなんだと改めて感じ入る。

 張り付いた服への視線を感じる。目を閉じていても、視線が激しくからだをまさぐり、心を射抜き、かたちは鉛筆の先から紡ぎ出されていく。

 鉛筆の心地よい音と寒さの中でウトウトとしていると、ふう、と大きく息をついた音がした。

 目をあけると、そこにはおどおどしたいつもの画家がいた。

「す、すみません、集中しちゃって……!冷えましたよね。お風呂浴びていってください。服は貸しますから」

 そう言って慌ててバスタオルを抱えて走ってきた。そらした目元がほんのり赤く、今更照れるの、と苦笑いした。

 遠慮なくシャワーを浴びる。暖かいお湯が体の芯に沁みて、冷えていたんだなと思った。散らかすけど汚れは嫌い、と言っていたとおり、アトリエのお風呂は結構綺麗だった。

 バスタオルを巻いてお風呂を上がると、画家は先ほどの絵の修正をしていた。濡れた薄手のワンピースが張り付いた胸、透けるヘソ、髪から滴る雫まで、リアルに書き込んであった。


「あのー!ごめん。何か着るものってないかな」

 濁っているけれど鋭い目の画家がタオルを巻いた私を捉えると、目が見開かれて、ボンと音がしそうなほど赤くなった。あまり女の裸には馴染みがないようだ。

「へっ!?あっ!すみません、すみません。すぐに渡します」

 ばね仕掛けのようにすっとんでいき、薄手の長袖を手渡された。着るとちょうど短めのワンピースのようだった。余った袖をブラブラさせると画家は笑ってくれたが、目をそらされた。

「どうして目をそらすの」と茶化してみたけれど、目線を辿ると……Tシャツが胸元だけは窮屈で、乳房と乳首の形がくっきりと浮き出していた。

 画家は黙ってオロオロしている。

「なぁに、これが気になるの」と面白半分に押し付けると

「やっ、めてください……」と顔を真っ赤にさせつつ、前屈みになった。

「ごめん、変なことしちゃった」えへへ、冗談だよと笑顔を作る。

「ですよね」と少し寂しそうに笑い返された。

 どうして寂しそうなの。どうしてそんなに視線が熱いの。どうして私、あなたのことばかり。聞きたいことは山ほどあったけれど、でも。それよりも先に。

「……する?」

ギュッと真正面から抱き寄せる。逃がさないよ、と下から瞳を見据える。こわばった体が、少しずつ火がつくように熱くなっていく。

「……します」

 そう言って、腕を背中に回してくれた。力強くて不器用な抱擁だった。


 絵を描いている時と同じ、真剣な面差しで組み敷かれた。私は、絵のように、捏ねられ、混ぜられて、塗りたくられた。それは、望まれた形ができるまで、力強く繰り返された。柔らかくたおやかな印象だった青年も、覆い被さられてみれば、力強い大人の男だった。

「おいで」と言うと、精を放って力尽きた青年が抱きついて

「好きです、とても」と吐息に紛れさせてつぶやいた。

 やっぱりこうなった。わかっていた。恐ろしい気持ちと、溶けそうな心地良さの中で、小さく呟いた。

 ベッドから窓を見上げると、裂くように雷が走っていった。




 探偵事務所で飲んだコーヒーのせいか、告げられた調査結果のせいか、胸焼けと冷や汗が止まらない。

「奥様は、浮気をなさっている、というのが我々の結論です」という言葉が頭の中をリフレインした。陽炎と相まって、地面がゆらいでいる気がした。

 最近の妻は、珍しく私が家にいるときも、構わず出かけていた。溌剌とした笑顔と弾んだ声で行ってきますと言い残して。寂しくはあったが、何も言えなかった。普段尽くしてくれている妻の息抜きならば、友達とのお茶であろうとなんであろうと楽しんできて欲しいと思っていた。

 妻は、私の昇進を応援してくれていた。大学の部活動からマネージャーのように私を支えてくれた。ピアノは私より上手く、仕事の昇進も早かったが、私のためにキャリアを諦めてくれた。国会議員の秘書として昇進し、これから忙しくなること、家庭に入って欲しいことを告げると、戸惑った後、笑顔でおめでとうと言ってくれた。

 仕事でどんなに辛いことがあっても、辞めずに済んでいるのは、妻が耐え忍んで尽くしてくれているからだった。その分、家にいる時はできるかぎり尽くしたいと思っていた。

 まさか浮気されていたとは思わなかった。

 最近は、一緒に食卓に付いても、画家の絵の話、絵の着想の話ばかりだった。

「私、あの人の絵に、惚れ込んでいるんだよ」と言われたことを思い出し、頭の中で、何かが切れる音がした。眼球の奥が焼けるように熱かった。

 妻は、家庭の外で遊ぶことを覚えてしまった。もう、元通りにはならないだろう。私の妻を虜にした絵とやらが、描けなくなればいい、と思った。

足がふらふらと画家の家に向く。調べてもらった住所はそう遠くない。噛み締めた奥歯は血の味がした。





 果物を持って画家の病室を訪ねた。

カーテン越しのぼんやりした光が風に合わせて揺れる。遠くで百合が咲いているようだ。

画家はベッドで半身を起こして、それを眺めていた。病室に入ると弱々しく笑いかけてくる。

「本当に、ごめんなさい」

長い沈黙だった。画家の瞳は遠くを見ていた。

 もう動かない利き手に触れる。

「あなたの大切な手が……。リハビリでもなんでも、手伝えることがあれば言ってください」

「じゃあ、一緒に暮らしませんか」

「よろしければ」

 そう言いつつ、私はかつて、画家が誰かと一緒に住むことはできない、絵を描く時間が減ってしまうから、と言っていたことを思い出した。

 画家はまた遠くを見る目をしたあと、意志を持った声で呟いた。

「もう、創り出すことにのめり込んで、人を傷つけるのはいやなんです」

「どういう、意味ですか」息が詰まって苦しい。

「左手で描けるとしても、描きたくないんです。もう描けないです。心から汲んだものを描くのが絵です。ぼくは絵しか見てなかったから、人を傷つけてしまいました。初めて大事に思ったあなたもです。初めて、今まで傷つけてしまった人たちのことを思いました。誰かにとって大事な誰かを傷つけるかもしれないなら。もう、創り出すのはたくさんです」

 そんな、が頭を埋め尽くし、やがて全部が大きな熱に飲み込まれた。

画家は私の変化に気付かずに、もう動かない利き手を差し伸べた。

「一緒に、暮らしませんか。静かなところで」

 確かに、私の周りは週刊誌やテレビの報道陣で騒がしかった。でもそんなことはどうでもよかった。私は、創り出したくても、作れないからこそ、あなたを見ているのが好きだったのに。私を飲み込んだ熱は、暴れ回り、噴火した。

「絵を捨てて、私のようなつまらない女と暮らすのですか。あなたの絵に、惚れていたのに」強く唇を噛んだ。

 はっと息を飲んで「ごめんなさい、私が悪いんです」目をそらして、病室を足早に出た。


 8年の歳月が経った。長かった。

いずれは地盤を継いで議員に、とまで言われた立場は、画家の手を潰し、逮捕されたことで一変した。地位も、妻も、居場所も、何もかもを失った8年だった。

 刑務所を出所をすると、世間は夏だった。浴衣を纏い、人々は花火をしていた。近くの公園では祭りがあるという。えも言えず心を弾ませた。

 久しぶりに本屋に立ち寄ると、美術書だろうか、大胆な表紙の大判本と、月刊紙が店頭に平積みされていた。月刊紙の写真は、派手な美女が男女問わず若者を侍らせた集合写真だった。

見たことがある気がする。こんな派手な女、知り合いにはいないのに?デジャヴを感じ、それを買って祭りが始まる時間まで公園のベンチで読んだ。 

 ページをめくる。

 そこには、旧姓の元妻の名前が大きく記されていた。動悸が、止まらない。

 でかでかとタイトルが踊る。『悪女から芸術の女神へ‼︎才能の開拓者の過去と今』。

 新生気鋭の若手芸術家だという人々の名前とともに、彼らの発掘の立役者として、元妻の実績と噂が事細かに書いてあった。

 噂によれば、芸術家は片手がもう使えないため、枯れたように暮らしているという。『訪ねたライターは、窓から漏れ聞こえた声を聞き逃さなかった。彼の女神の名前と、ぼくはあなたが好きだったのに、とずっとか細く呟いていた』と下品に堂々と書いてある。

 申し訳ないとも、良い気味だとも思えず、あわれだった。彼と自分は何が違うのだ。どちらも同じ女に滅ぼされた身だ。

 読み進めると、週刊誌はこう締めくくっていた。『あらゆるものを糧にして、未だに成長と革新を続ける彼女をこれからも見逃せない』。ふと、谷崎の『刺青』の台詞が頭をよぎる。私の肥やしになったんだねえ。

 私は、雑誌を閉じた。呆然とただ、表紙に写る変わってしまった妻を見つめていた。

いつまでそうしていただろうか。目の前を羽虫が通り、少しびっくりして顔を上げた。

 あたりはほの暗くなっていた。目の前には祭りの準備だろう篝火が焚かれていた。夕方が終わったばかりの淡い青色に、オレンジ色がパッと映えた。

 先ほどの羽虫は、篝火の周りを旋回したあと、中に飛び込んでいき、出てこなかった。

 淡い闇は暗さを増していき、祭りの装いの人々の影が篝火に合わせて揺れる。燃え尽きた私はどこへ行くのだろう。あてもないまま、祭りの雑踏へ彷徨い出した。










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