第二章 インサイティング・インシデント④

 カケルくんとは、この神立高校に代々伝わる七不思議のひとつである。

 曰く、インターハイ出場前に事故死した短距離ランナーが、死後に骨格模型に乗り移ったものである。

 曰く、夜な夜な旧校舎を走り回っては、目撃者にレースを仕掛けてくる。

 曰く、ゴール地点である旧生物室にたどり着く前に捕まってしまうと、カケルくんに身体を乗っ取られてしまう。

 なぜ、レースに敗北した後の顛末が知れ渡っているのか。

 死後に乗り移るにしてももっとマシな依代はなかったのか。

 肉の継ぎ目がない骨格のみでどうやって走るというのだ。

 などと、ツッコミどころは湧いて尽きることはないのだが、噂なんてものは往々にしてそんなものだ。ここで錯誤を気にしても仕方がない。

 それは、現実には存在しない、物語のひとつに過ぎないのだから。




 放課後の旧校舎が、足音と悲鳴で揺れていた。


「手塚くん。もっとピッチを上げて。追いつかれるわよ」

「帰宅部のダンゴムシになんて無茶をおっしゃる!」


 公人は掠れた叫び声を上げながら、右足でダンと床を踏みつけてブレーキをかけ、第一コーナーである廊下の角を曲がった。

 後ろから迫ってくるガチャガチャという骨の擦れる音がプレッシャーとなり、あまりスピードを落とすことができなかった。おかげで転びそうになってしまう。

 背後の足音が一段階、近づいた。思わず振り向く。

 風を切り裂くかのように指先までまっすぐ伸ばし、一切のブレなく上腕骨を前後に振るう。接地はつま先から入って踵を着けることなく、蹴るようにではなく弾むように、前へ。

 実に美しい走法フォームを披露するガイコツのカケルくんが、後方わずか数メートルのところまで迫っていた。


「うわわわわわ! 来てる来てる来てるッ!」

「すごいわ。一切の無駄が削ぎ落とされたフォームよ。きっと軟骨がすり減るほどの努力を重ねたのでしょうね」

「絶対に! 今! そんな感想言ってる場合じゃない!」


 公人がヒューヒュー言いながら必死で全力疾走しているのに対し、高嶺は余裕綽々といった様子で軽やかに並走していた。生まれながらのスペックの差というものが如実に反映されている。


「ところで手塚くん。どうしていきなりカケルくんが動き出したのか、その理由を知りたいでしょう?」

「別にィ!」

「そこまで知りたいなら教えてあげるわ。レースには開始合図が必要だと思ったの。だからカケルくんの耳元で〝On your mark.〟と囁いたら、これがなんと大当たり」

「外れてくれそんなもん!」


 ただでさえ帰宅部特有の運動不足であるというのに、叫び声に近いツッコミを交えながらの短距離走なものだから、公人の身体は既に限界ギリギリである。肺が酸素を求めてデモコールの声を上げ、両足が過重労働を訴えてストライキを実行していた。

 直角のコーナーを曲がること三回、旧校舎を一周するルートも終わりが近いというところまでたどり着いたものの、骨の軋む音はもはや耳元から聞こえてくる。

 公人は目や鼻や口から種々様々な液体を撒き散らしながら、祈るように後ろを振り返る。

 がらんどうの眼窩が肩の向こうのすぐそこにあった。


「あああああああああッ!」

「手塚くん。そこの旧家庭科室の角を曲がればゴールはすぐよ。頑張って」


 そんなことを言われても、公人の足は既に全力を使い果たしており、前に進むのがやっとというところだった。

 もはやこれまで。ああさらば十六年間共にしてきた我が身体よ。これからカケルくんに乗っ取られてしまうらしいが、せいぜいその貧弱なボディでカケルくんの足を引っ張って、彼のスプリンター人生を台無しにしてやってくれ。

 などと、公人が後ろ暗い覚悟を固めた時である。


「あ」


 公人は信じられないものを見た。

 汗ひとつ流さずに少し先を走っていた高嶺が、足元に落ちていた雑巾を踏んづけ、空中に綺麗な弧を描いたのである。

 ずるり。どがしゃん。

 結果、彼女は受け身も取れずに床へとダイブ。その美しい顔を汚い廊下に打ち付けることとなった。

「高嶺さぁぁあああああん!?」


 よりにもよってラストスパートでとんでもないポカをやらかした高嶺に、公人の足も思わず止まった。


「……すごく、痛いわ」


 ぷるぷると震えながら高嶺は顔を上げる。涙目で、整った鼻筋から血が滴っている。ダメージは深刻である。

 無論、この千載一遇の好機をカケルくんが逃すはずもなかった。

 彼は倒れ伏している高嶺の背後で足を止め、奈落の底のような眼窩で見下ろした。両腕骨をカマキリのように構え、今にも襲いかからんとしている。

 絶体絶命のピンチであるというのに、高嶺は倒れ伏したままの状態でにっこり微笑んだ。


「手塚くん。どうやら私はここまでのようだわ。せめてこの醜態を面白おかしく記述して、私の末期をエンタメとして昇華させてちょうだい」

「諦めるのが早すぎる!」


 公人は叫びながらも左右に視線を巡らせた。

 左側にはこの身体入れ替わりレースの終着点、旧生物室が見える。そして右側には我が子を逃がすため、わざと猟師の罠にかかった母兎みたいな格好の高嶺が見える。

 どちらの方向へ進むべきか。

 これが、公人にとって最初の選択だった。すなわち、彼が《主人公》として、一体どんな《物語》を紡ぐのかという分岐点だ。

 答えは、わりかしすぐに出た。


「あー、もうッ!」


 公人は踵を返した。ゴール目前にしての逆走。向かう先は高嶺もといカケルくんだ。

 それを選んだ。

 公人は全力疾走時よりも前のめりになって、足に力を込める。半身になって、肩を丸めて、その後なんて知ったことかの、全力のタックルをカケルくんにお見舞いした。

 カケルくんの全身を構成しているおよそ二百ほどの骨が、タックルの衝撃を受けて四方八方にばらばらと吹き飛んだ。


「高嶺さん! 逃げて!」


 完成したジグソーパズルのど真ん中にダイブしたみたいに、大小様々な骨に囲まれながら、公人は高嶺に向かって叫ぶ。

 彼女は鼻血を垂らしながらきょとんとしていた。


「そんな、駄目よ。手塚くんはどうするの」


 公人は少し考えて、


「自慢じゃないけど、ドッジボールでは最後まで残るタイプだった。だからまぁ、大丈夫でしょ」


 乾いた笑いが出た。

 強がりであり、鼓舞でもあった。本音を言えば今すぐ逃げ出してしまいたかったが、彼に残ったなけなしの男気がそれをなんとか抑えているという状況だ。

 本音を言えば生き延びて明日の朝日を拝みたいが、高嶺を犠牲にして生き残ったところでその後の社会的地位は死んだも同然。ならば肉壁くらいの役割は果たすべきだろうと考えたのだ。


「……わかった。でも、いなくなっちゃ嫌だからね」


 高嶺が鼻血を拭って素直にゴールへ向かってくれたことに公人は安堵する。

 が、状況は依然として切迫していた。

 ばらばらに飛び散ったカケルくんのパーツたちはカタカタと音を鳴らしながら浮かび上がり、磁力で繋がれているかのようにもとの形を取りつつあった。

 それどころではない。カケルくんはどうやら極上の獲物を逃してしまったことに大変お怒りの様子で、己の左腕を剣のように握り込み、ブンブンと振り回して公人の脳天を撃ち抜く準備をしていた。威嚇のつもりなのか、歯をカチカチと鳴らしてもいる。

 全身全霊のタックルで余力を使い果たしてしまった公人は壁に寄りかかりながら、さてどうしたもんかと苦笑い。

 生まれたての子鹿もかくやというほどにぷるぷる震える足では、もはや逃走による生還は望めそうにもない。怒り心頭で繰り出されるボーンスラッシュをなんとかかいくぐりながらゴールを目指すというのが唯一の勝ち筋だった。

 公人はカケルくんの右手を見やる。予備動作からタイミングを見計らって避けようとしている。

 回避が早くても遅れても死に至る壮絶なリズムゲームだ。緊張が走る。

 まだか。まだか。まだか――


『右へ横っ飛び!』


 最終的に公人の身体を動かしたものは、己の直感ではなく、鼓膜をぶち抜くほどの大声だった。

 震える足を奮い立たせて不格好に横ジャンプ。公人は着地に失敗し、床板に膝を打ち付ける。じんわりと痛い。しかし、よく知っている痛みだ。

 起き上がって、ぞっとした。

 先程まで公人が寄りかかっていた場所に、カケルくんの左腕が深々と突き刺さっていたのだ。床板はあっけなく砕かれており、引っこ抜くのも大変そうだ。回避が遅れていたら、公人の頭がああなっていた。


『もしもーし! 公人お兄ちゃんですかー? まだ生きてますかー?』


 公人のポケットの中から、先程命を救ってくれた声がする。デジタルネイティブ世代の瞬発力を発揮して、ガンマンのようにスマホを取り出した。

 画面に、見慣れないアプリのミカンアイコンと、『網籠ミカコ』という見知った名前が表示されていた。


「ミカコ!? なんで?」

『あ、まだ生きてるですね! 間に合ってよかったです。さすがのミカコも生きたまま脊髄を引っこ抜かれる映像データなんて欲しくないですからね』


 どういうワケか、電話越しのミカコは、公人が今まさにカケルくんの餌食になろうとしていることを知っていた。


『疑問ヤマヤマだと思うですけど、今は目の前の危機にリソースを費やすです。カケルくんにスマホを向けてもらえるですか?』


 疑問符が湯水のように湧き出ている公人だったが、生存本能がミカコの指示に従うべきだと告げていた。

 床板を崩壊させながら左腕を引き抜くカケルくんへ向けて、リモコンのようにスマホを向ける。


『ふむふむ。どうやら憑依タイプのようですね。おっけです。物理判定があるなら予測はたやすいです』

「何の話? 僕はどうすればいい?」

『気になるなら後で教えるですよ。今は動かないで、スマホをそのまま』

「動くなっつったって! まだ目の前にいるんだぞ!」


 カケルくんは既に振りかぶりのモーションに入っていた。

 公人は腰を抜かしていて、じりじり後ずさるのが精一杯だ。先程のような回避は望めそうにもない。

 実にわかりやすい、絶体絶命の場面というやつだ。


『いえ、もう大丈夫です。専門家が到着してるです』


 しかし、残りのページ数からもお察しの通り、公人がここで骨抜きにされてしまうことはない。

 主人公というものは頻繁に恐怖のどん底に突き落とされるが、必ずそこには救いの糸が垂らされているものだ。

 今回も、ご多分に漏れずその形である。

 ひゅん。

 風切り音と共に、棒状の何かがカケルくんの肩甲骨を撃ち抜いた。逆三角の平骨が衝撃によって本体から分離し、根本をやられたことで必然的に上腕骨も明後日の方向へと吹っ飛んでいった。

 カッカッカと跳ねながら、それは公人の目の前に落ちた。モップである。柄の部分に、なにやら記号的な刺繍が縫い込まれたなめし革が乱雑に巻かれていた。

 その革と糸には見覚えがある。

 公人は、その出来損ないの武器が飛んできた方向に目を向けた。


「お待たせしましたわ」


 薔薇園まりあが、不敵な笑みを浮かべながら廊下の奥からやってきた。

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