第一章 『セットアップ』④


「高嶺千尋―っ!」


 しかし、その雰囲気は、部室に飛び込んできた怒声によってかき消された。

 公人は夢から覚めたみたいにはっとして、反射的に部屋の入口を見た。

 怒りのオーラを立ち昇らせた女子生徒が立っている。

 公人は一瞬、人食いの赤鬼でも現れたのかと思ったが、それはどうやら怒りの形相のせいらしい。

 確かに彼女の髪は日本人ばなれした癖のある赤毛だが、肌の色は透き通るように白かった。


『今の、百二十デシベルの大音声です。飛行機のエンジン音に匹敵するですよ』

「薔薇園先輩。どうしたんですか、そんなに血相を変えて」


 人間と認識してもなお内心ビビっている公人に対し、怒りの矛先を向けられている高嶺はどこ吹く風である。

 薔薇園と呼ばれたその女子生徒は、小脇に抱えていたクマのぬいぐるみを掲げて叫んだ。


「どうしたもこうしたもねぇですわ! あなたでしょう! 日陰干ししていたダイゴローを炎天下に放りだしたのは!」

「ああ、確かに私です。ダイゴローちゃん、日の当たらないところでぽつねんと座っていたので。日向ぼっこをさせてあげようと思って移動させました」

「あれはわざとやってんですの! ぬいぐるみに直射日光は厳禁ですわ! 生地が傷んで変色したらどうするんですの!」

「そうだったんですね……。すみません、存じ上げませんでした」

「日焼け対策が必要なのは人間もぬいぐるみも同じですのよっ! まったく! 次からは気をつけてくださいまし!」


 一通りお説教を終えると、薔薇園は可愛らしいクマのぬいぐるみをむにむにと弄びながら着席しようとした。


「あら?」

 そこでようやく、公人の存在に気がついたのである。

「……どもです」

 目が合ってしまったので、公人は軽い挨拶と会釈を送ったが、

「誰ですの。あなた」


 薔薇園は、警戒心を隠そうともせずそう言い放つ。そしてじろりと睨めつける。

 互いが互いを分析する、嫌な時間が始まった。

 薔薇園の目は吊り上がり気味で意志の強さを感じさせた。軽いカールのついた赤毛を真ん中分けした髪型をしている。

 服装は髪色に負けず劣らず奇抜である。素体となっているのは学校指定のブレザーだが、そこにはいくつもの刺繍が施されていた。特にスカートには折り目に沿って白い花柄の刺繍があしらってあり、もはやドレスみたいになっている。

 お洒落には一家言あるようだが、持って生まれた資質を大事な個性と捉えているようでメイクは薄い。

 先程のやり取りを見る限り、言いたいことをズバズバと言い放つ性格らしい。なぜかお嬢様言葉を使っているが、荒っぽい口調も交じっており、おまけに声がデカいため、上品どころかむしろパワフルな印象である。

 これまた濃い人が現れたなぁと公人は思った。


 公人がヘビに睨まれたカエルの気分をリアルタイムで味わっていると、

「薔薇園先輩。彼が、主人公の手塚公人くんです」

 高嶺が助け舟を差し出した。薔薇園が「ああ」と声を漏らす。


「なるほど。あなたがわたくしたちの物語を記述する方ですのね。これは失礼。わたくし、二年の薔薇園まりあと申します」


 薔薇園はそこでぺこりと一礼した。


「あの世界的ブランド『Rosen&Kreuze』の次期CEOにして、筆頭デザイナーを務めております。ですが、どうかお気になさらず。一人の上級生として接してもらえば結構ですわ」


 世俗に疎い公人はそのブランド名を聞いてもまったくピンと来なかったが、わざわざ「知らない」と言っても益がないのでそのままスルーした。


『まりあお姉ちゃんはサブヒロイン役なんですよ。千尋お姉ちゃんの恋のライバルポジションです』

「とはいっても、安易に恋心の主導権を手放すつもりはありません。わたくしと恋愛模様を繰り広げたいなら、まず相応の魅力というものを見せていただきたいですわね」


 薔薇園は公人の姿を頭からつま先まで眺め回した。


「ちなみに、今のところわたくしがあなたに靡く可能性はゼロですわ」

「……電光石火のご返答、どうも。変に期待しないで済みそうです」


 容赦のない先出しの断り文句に対し、公人も軽口で応戦する。しかし薔薇園は気分を害した様子もなさそうだった。

 忌憚なき意見がぶつけられる代わりに寛大なのは公人にとってありがたかった。遠慮しないで済むからだ。


「それで、高嶺さん。登場人物ってのは、君と、この二人で揃ったの?」

「いいえ。あと一人いるわ。そろそろ来る頃だと思うのだけれど……」


 その時である。廊下の方からドタドタと床板を踏み鳴らす音が聞こえてきた。


「あら、噂をすればなんとやらね」

「手塚さん。心構えをしたほうがよくってよ」

『シドお兄ちゃんはかなーり癖が強いですよ』


 登場人物たちは口々にそう述べた。「あなたたちもよっぽどですよ」とは思うものの、流石に口には出さない。

 ガチャリとドアが開けられた。


「こんにちは。秋円寺くん」


 現れたのは、神秘的な雰囲気を身にまとった長身のイケメンである。

 未だ容赦なく汗ばむ季節だというのに、彼は分厚い外套型の学ランを着用していた。

 色素の抜けた髪は短く切り揃えられ、肌は浅黒く、その瞳は猛る炎のように赤かった。袖口から覗く右手には、複雑骨折してもそうはならないだろとツッコミたくなるほど厳重に包帯が巻かれている。

 全体的に厨二病もしくはコスプレイヤーの雰囲気が漂っているが、痛々しいどころかサマになっているのは、彼の日本人離れした容姿のせいだろう。イケメン無罪というやつである。

 秋円寺と呼ばれたその人物は、後ろ手でドアを閉めると、ゆっくりと高嶺のほうを向いた。


「ああ、我が主! 今日も今日とてお麗しい!」


 彼は吠えた。そして跳んだ。ノーモーションだったにもかかわらず、机を軽々と飛び越えるほどの跳躍である。

 着地予想地点は高嶺の正面、その目と鼻の先である。彼は室内に美しい弧を描きながら空を駆けた。


「セクハラすんじゃねぇですの!」


 そして、落下地点で待ち伏せていた薔薇園のラリアートによって迎撃された。

「ヒンッ!」と横腹蹴られたロバみたいな声を出して、フライング不審者は背中をしたたかに打ち付けた。受け身も取れていない。モロである。

 薔薇園はピクピクと痙攣するそいつを容赦なく足蹴にした。


「ったく……よくもまぁ毎日毎日飽きないものですわね。この変態は」

『シドお兄ちゃんの跳躍距離、日に日に伸びてってます。もうすぐ立ち幅跳びのインターハイ記録更新ですよ』

「高嶺さん。くれぐれもこの変態と二人きりにならないことですわ。貞操の危機ですわよ」

「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です。先輩がスルーしてたら、私は容赦なく人中を撃ち抜くつもりでした」


 女性陣の物騒な会話を耳に入れながら、公人は椅子から身を乗り出して、今しがた奇行に走ったイケメンを見下ろした。


「高嶺さん、コイツってまさか……」


 公人も女性陣と同じように軽蔑の眼差しで男を見た。そのあまりにも特徴的な見た目及び奇行には見覚えがあった。


「彼は秋円寺シドくん。知っていると思うけど、私のファンクラブのリーダーよ」

「よりにもよって、過激派組織の頭領を引き入れてくるかい」


 秘密組織サークルシーとは、高嶺千尋を崇拝する者たちによって結成されたファンクラブである。

 彼らは高嶺を滅法の世に現れた救世主として崇め奉り、彼女に近寄る馬の骨どもを完全なる自己基準によって制裁する。

 校則指定のブレザーではなく学ランとセーラー服を身にまとい、ミサという名のファンミーティングや高嶺の身辺パトロール(本人無許可)を主な活動としている。

 校則どころか法律さえ犯しかねないこの危険な連中を教師が誰も咎めないのは、会員番号〇〇二番が他ならぬ校長だからという噂もあった。

 そして何を隠そう、この組織を立ち上げた悪しきカリスマこそが、今しがた床に背中を打ち付け、泡を吹いている秋円寺シドなのである。


「思ってたよりもヤベェやつだな……。高嶺さん。本当にコイツも物語のメンバーなの?」

「そうよ。役割は三枚目。いわゆるコメディリリーフね」

「ボコす前提のヴィランならともかく、味方サイドかぁ……」


 なるほど確かに、登場するなり奇行と因果応報を披露してくれた彼にはふさわしい役割である。

 古今東西、高嶺に恋心を抱く者はごまんといたが、ここまでエキセントリックなアプローチを仕掛ける輩は類を見ない。その情熱はもはや恐怖を感じるほどである。


「なんでコイツを引き入れようと思ったの?」

「だって、面白いじゃない」

「性犯罪者予備軍にそんな評価与えないほうがいいよ。つけあがるよ」

「そうね。あと何回か同じことをされたら累積退場してもらうかもしれないわ」


 高嶺のその言葉に反応するかのように、白目で天井を見つめていた秋円寺からくぐもった声がした。


「我が主……貴方は誤解しておられる。私は貴方に劣情を催しているのではない。襲うなんてもってのほかだ。貴方は私にとって神のような存在……私は貴方にこの身を捧げたくなっただけなのです……」

「気持ちはギリギリ嬉しいけれど、人身御供はノーセンキューよ」

「ああ……では私はどのように奉仕すればよいのでしょう……」

「ボランティアでもしてろよ」


 その時、秋円寺の目がぐりっと動いて光を取り戻した。腰を浮かせて、ネックスプリングからのきりもみ半回転。公人を正面に見据える形で着地する。どうやら聞き慣れない男の声がするということにようやく気がついたようだ。


「誰だ貴様」


 本日三度目のクエスチョン。

 安全地帯からの辛辣なツッコミを耳ざとく拾われてしまったことに公人はいささか狼狽したものの、ここで引いてはダサすぎると思って彼も秋円寺を睨めつける。メンチを切り合う雄と雄。一触即発の空気に割って入ったのは高嶺である。


「彼は手塚公人くん。今日から私たちの活動に参加してくれることになったわ。待望の主人公よ」

「主人公ですと?」


 秋円寺は信じられないといった様子で公人を見た。


「この冴えない男子生徒が、ですか?」

「この冴えない男子生徒が、よ」


 どうやら公人が冴えないというのは共通認識らしかった。自覚がなければ泣いてしまうところだった。


「我が主……貴方は自分の役割をメインヒロインだと仰った。そうですとも! あなたはこのどん詰まりの世界に光をもたらす救世主だ! まさにメインヒロインと呼ぶにふさわしい人物だ!」

「ありがとう。嬉しいわ」

「主人公とはそんな貴方に引けを取らない人物であるべきです! こんな、平均的高校生をやや下回るような男など、断じて主人公と認めるわけには参りません!」

「手塚くんは魅力的な人よ。とても面白い文章を書くの」

「それだけでは貴方の魅力に全く釣り合って――、」

「秋円寺くん」


 高嶺の声音の温度が若干低くなったのを、その場にいた全員が察知した。秋円寺のヒートアップしていた舌にブレーキがかかる。


「あなたが何と言おうと、手塚くんは唯一無二の主人公よ。私が決めたの」


 怒りや侮蔑などといったマイナスな感情を微塵も感じさせない、実に穏やかな口調であった。しかし、その語気に有無を言わせぬ凄味が含まれていたのもまた事実。

 赤目の厄介オタクはしばらく押し黙った後、絞り出すような声で言った。


「……出すぎた真似を致しました。我が主。私は貴方の判断に従います」


 秋円寺は、そこでようやく、悔しそうに顔を歪めて引き下がった。

 そして、きっと公人のほうを向いて叫んだ。


「手塚公人! こうなったら、貴様には我が主の隣に立つにふさわしい主人公になってもらうからな! 覚悟しろ!」


 その瞳には溢れんばかりの涙が溜まっていた。

 公人は思った。

 なんだか、色々と面倒なことになりそうだ。

 その時、部屋に昼休み終了のチャイムの音が鳴り響いた。

 まるで、時制というものが自分の立ち位置をようやく思い出したかのようだった。





 かくして《登場人物》は出揃い、簡単なプロフィールが開示された。

 読者が《物語》に没頭するための土台構築、すなわちセットアップが完了したということだ。

 冒頭の段階では接着が甘かった《主人公》という肩書も、展開に身を任せてあれよあれよと流されていくうちに、すっかり公人と結合した。

 キャスティングはもう変更できない。

 公人がそれを望んでも、ここまで読み進めた読者がそれを許さない。

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