第一章 『セットアップ』①

 残念ながら、この作品の舞台は文明の根幹から異なるファンタジー世界でも、サイバーインプラントが当たり前になった近未来でもない。

 とある地方都市に存在する、神立高校という名前の高等学校だ。

 かといって、弱肉強食の実力主義カリキュラムが組まれた超進学校でもなく、ごくごく普通の私立高校である。


 偏差値は五十のちょっと上。毎年甲子園に出場しているワケでもなければ、奇抜な校則が注目を集めたりなんかもしていない。

 つまりは、君が通っている、あるいは通っていた高校をイメージしてもらえば、それでいい。


 時刻は昼休み。季節的には長い夏休みが終わった九月の中頃だ。

 未だ衰えぬ残暑ゆえ、多くの生徒はクーラーの効いた教室に籠城し、自分の汗の匂いを気にしながら昼食をつついている。

 しかし視点はここで教室を飛び出し、人通りの少ない廊下を抜け、階段を三段飛ばしで駆け上がり、封鎖された屋上のドアの前へと移る。


「あっちぃ……」


 そこには、うだるような熱気に耐えながら、ひとり、階段に腰掛けて焼きそばパンと孤独を噛み締めている少年がいた。


 彼こそが、この作品における《主人公》、手塚公人である。

 内向的で、非活動的で、著作権の切れた純文学小説を読むことだけが趣味の、前髪長めな高校一年生だ。

 中学までの数少ない友人は別進路を歩んだせいで高校入学と同時に消滅し、人間関係をイチから構築しなければならないという局面に持ち前の消極的姿勢で挑んだがため、二学期の現在においても未だ友人はゼロ。

 要するに、清々しいまでのぼっちであった。

 実に、読者から感情移入されやすそうなプロフィールをしているだろう?


「……?」


 神経を逆撫でするような視線を背中に感じて、公人は後ろを振り返る。彼はぎゅっと眉間にシワを寄せて、周囲を観察した。

 しかし、背後には埃を被った机がドアを塞ぐようにして積み重なっているだけで、人の姿はおろか、隠れるスペースさえ見当たらない。


(……気のせいか)


 公人は正面に向き直り、再び焼きそばパンをもそもそと食べ始めた。

 その時である。


「やっと見つけたわ。あなたが、手塚公人くんね」


 目線の下から、涼やかな風のように清涼感溢れる声がした。

 公人に新たな展開を授けてくれる、《メインヒロイン》の登場である。



 眼下で燦然と輝くような容姿を目の当たりにして、彼女についての情報が、まるで走馬灯のごとく公人の脳裏によぎった。

 高嶺千尋は公人と同学年の少女である。

 シルクのような光沢を放つさらさらの黒髪、この世の穢れの一切を視界に入れたことがないとでも言わんばかりの澄んだ瞳、黄金比を内蔵しているおかげで万民から「美しい」と評価される目鼻立ち。

 当然のようにスタイルもよく、男子からは恋い焦がれられ、女子からは憧れられる、まさに絵に描いたような清楚系美少女という容姿をしていた。

 まるで、物語の綺麗な挿絵から、そのまま切り取って貼ったかのように。


 ただの美人というだけならば話はここで終わりなのであるが、彼女に関してはその類まれなる容姿以外にも語るべき点が多かった。

 東に窮地に陥る運動部あらば行って助っ人になってやり、西に赤点寸前の生徒あらば行って対策ノートを渡し、南に陰湿なイジメあらば行って「つまらないことはやめなさい」と一喝し、北に告白待ちの行列ができていたら一人ずつ丁重に断りを入れていく。


 同学年ではあるものの、彼女は、公人が齢八歳にして諦めた輝かしい人生というものを最前線で突っ走る存在だった。

 まさに完全無欠のスーパースター。人類の能力偏差値を一人で底上げする存在。

 トロッコ問題で引き合いに出されたとしても、凡百の命程度が相手ならば単騎で生還を勝ち取ることだろう。

 得意科目は数学。百メートル走のタイムは十二秒フラット。好きな食べ物はポルチーニ茸が入ったパスタ、スリーサイズは……。


 そこまで思い出したところで、ふと、「なぜ、自分はこんなに高嶺のことを知っているのだろう」という疑問が公人の脳裏に浮かぶが、そんな些細な引っかかりは、胸の高鳴りに紛れて消えてしまった。



「もう一度確認するわ。あなたは、手塚公人くん……よね?」


 その声で、公人ははっと我に返った。

 階段の踊り場では高嶺が足を止め、上目遣いでこちらを見つめていた。その顔は心なしか不安そうだ。首にも若干の角度がついている。

 返事を促されている。

 ようやくそのことに気がついた公人は、咀嚼もそこそこに焼きそばパンを飲み下す。一度喉の奥を鳴らしてから、掠れた声を吐き出した。


「……そうだけど、何?」


 高嶺の口角が二ミリほど上がった。


「ああ、よかった。あまりにもノーリアクション一辺倒だから、てっきり人違いをしてしまったのかと思ったわ」

「すいませんね。なにぶん、人と会話するのが久しぶりなもんで」

「手塚くん、お友達いなそうだものね。さっき手塚くんの居場所を尋ねに教室へ行ったけれど、軒並み微妙な苦笑いを浮かべられてしまったわ」

「……そすか」


 ウケ狙いの自虐風軽口に見事なカウンターが決まってしまい、公人は心に余計な傷を負った。


「それはそうと、」


 一瞬だった。

 気まずさから公人が視線を逸らしたその一瞬で、高嶺は長い脚をすっすと動かして階段を上がり、彼の眼の前まで距離を詰める。

 そして、さっとスカートの裾を折って、公人の隣に腰掛けた。


「うお」


 あまりに颯爽とパーソナルスペースに踏み込まれたものだから、公人は反射でびくりと身体をのけぞらせ、尻を半分左に動かしてしまう。


「手塚くん。自己紹介がまだだったわね」


 高嶺は膝に手を置いて背筋をまっすぐ、首をずいと伸ばして公人に顔を近づけた。

 長い睫毛がよく見えた。


「近い近い」

「私の名前は高嶺千尋。あなたの隣のクラスの一年一組に在籍しているわ」

「知ってるって。それより近いよ」

「あら、嬉しい。手塚くんも私のことを気にかけてくれていたのね」

「距離感! 距離感!」


 公人が尻の摩擦を利用した移動で距離を取ろうとするたび、高嶺はさらににじり寄ってくる。

 眼の前にはあまりにも整った高嶺の顔、背中には壁。逃げ場はもうない。

 追い詰められた。公人はなぜだかそう思った。


「それで、本題なのだけれど、」


 高嶺は言った。


「手塚くん。私のために、主人公になってくれないかしら?」

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