第二章/役者は踊る――人であれ精霊であれ③
大きな白翼が、天を突きさすように跳ね上がる。それは捻じくれた背骨を
互いの間合いは、初撃から互いを
リオは木剣を右肩に担ぎ、左足を前へと突き出す。アエローは反対に半歩後ろへ下がりながら、両翼を更に突き上げた。
互いの呼吸を合わせるような、間。殺意とも敵意とも取れる視線が、絡み合う。
瞬間、木製の武具が線となって宙を舞った。先手を打ったのはリオだ。ハルピュイアとの戦い方を、彼は十分に心得ている。
即ち、跳躍される前に地へ落とす。少なくとも脚か、翼に傷をつける事。
彼女らの戦闘領域は、言うまでもなく空だ。万全の状態で空へと飛び立たれてしまえば、結末は語るまでもない。ただ地を
ゆえに、ハルピュイアを前にして後手に回る闘士はいない。彼女らが隙を見せるのは、空へと飛び立つ瞬間のみなのだから。
その点、リオの行動は模範的だ。アエローが両脚に力を込めた瞬間を見計らい、木剣を振り下ろす。人間の
――けれどその模範と言える様を見て、アエローはくしゃりと頬を
喉を鳴らし、笑みを浮かべながらアエローは両脚に力を込めたまま――飛び立つのではなく、大きく右脚を撥ね上げる。
木と木が噛み合う鈍い音が鳴った。両者の『訓練』を遠巻きに見つめていた闘技者から、おお、と声が上がる。
アエローの右かぎ爪が、リオの木剣を正面から受け止めている。本来ならば上段から振り下ろした側が有利なはずだが、ハルピュイアの脚力が不利を覆した。
「ハッハァ! 人間がイキがるからこうなるんだろうがァッ!」
そのまま、アエローは右脚を真っすぐ上へと振り抜く。リオは木剣を吹き飛ばされる事は無かったが、完全に体勢を崩し、二歩後ろへと下がった。
その隙を、アエローは見逃さない。再び大地へと付けた両脚へと力を
ここが、大空こそが、我が領地なのだと主張せんばかり。
「さぁて、
けらけらと
この時、アエローはまだその程度しか考えていなかった。リオが、顔を絶望の色に染め上げているとしか思っていなかった。
しかしリオは、絢爛闘士らしい不敵な様子で言う。
「空を飛べて、よほど
アエローの
生物は、物事が自分の望んだとおりに行かぬ事に最も
爪を鳴らすは
リオが発した言葉よりも、その態度に対してアエローは腹に据えかねていた。
今まで私に抗った事など一度も無かった癖に。リオの癖に。
――生意気だ。
ディアとの付き合いはリオの方が長くとも、闘技者としての実力は私の方がずっと上だ。闘技者として、多くの事を教えてやった恩を忘れやがって。
闘技者をやめろ。誰の為を想って、言ってやっていると思ってるんだ。
がしゃりがしゃりとかぎ爪が鳴る。獲物を一息に食い破らんと、空の狩猟者が狙い澄ます。霊素が彼女の全身を覆い、世界が彼女を
ハルピュイアの受け取りし
相対する絢爛闘士は弱さを隠すように微笑を
受けて立つ、とそう言うのだ。逃げ惑うのでも
その様子が、ますますアエローの癇癪を強く揺さぶる。
もう良い。もう良かった。そこまで不敵に、絢爛闘士を演じるのなら。こちらも突撃闘士としての真髄を見せてやろう。
呼気を、唇から吐き出す。
「コォ――ォ――ッ!」
突撃闘士の防具は、余りに
だが、だからこそ。彼女らは一度放たれれば他の闘技者の追随を許さない。空を滑空する一矢の如く、闘技場を疾駆する。
アエローが、風を纏い、風と一つになり――果てには風となって
まさしく精霊的。まさしく超常的。
相対するリオには、そのような力は無い。どこまでも人間的で、どこまでも平常的。
平常が超常を上回る事はなく。人間は精霊に敗北する。それが、この世界におけるルール。
で、あるならば。彼が勝機を掴む手段は一つ。平常ではなく――『偏る』しかないのだ。
アエローを空に舞い上がらせてしまった瞬間、リオは
馬鹿みたいに身体と皮膚が冷えていく。だというのに、頭だけが熱い。故郷のカーマイン山にいた時から、この癖は変わらない。
このままでは死ぬ。絶命する。死に絶える。リオの体内がけたたましく警鐘を鳴らしている。では、どうすれば良い。
「……『
子供の頃、誰かに教え込まれた口癖を、呪文のように唱える。精霊たちが霊素を発揮する時に唱えるのとは違う。
考えろ、思考しろ――『勝利』するためには、自分はどうすれば良いのだ。ただそれを意識するためだけの詠唱。
仮想し、仮説を組み立て、自らに必要なものを手繰り寄せる。逃亡と防衛を投げ捨て、『勝利』だけを前提にした、不条理なる思想。そのために知識を詰め込み、そのために無駄とも思える訓練を積み重ねる。
人間が精霊に勝利するには、一片に、徹底し、在り方を偏らせるしかない。曲りなりにもリオが、闘技者として勝利する為に身に付けたもの。技術よりも力よりも、この『偏り』こそが彼を今日この日まで生き延びさせている。
――事実、リオにはその『仮想』が生み出す幻像が見えていた。
棒立ちのまま受け止めてみるか? ――アエローのかぎ爪が、両腕をもぎ取っていく。
左右に
バックステップで相手を崩せるか? ――突撃闘士には意味がない。彼女らはその点の対策は徹底的にやっている。
「――」
『仮想』の中、幾度も敗北が目に見える。それでも尚、それでいて尚、偏りの果てに勝利を得られる選択肢を視界の先に――文字通りトレースする。
リオは、木剣を上段へと構えたままアエローを待つ。
剣闘技第七節、『墜落』。切っ先を前へと突き出し、敵の動きを制しながら自らの一撃を叩き
リオが『仮想』の果てに得たものが、ただ一つだけある。恩寵とは呼べない。人間のか弱い抵抗力の一端。しかし彼にとっては、十分すぎる武器。
吐息を、知られぬように漏らす。表情を作り上げ、震えを抑え込む。
対戦相手を
だが、物語を駆逐すべく、空を疾駆し翼を真っすぐに伸ばしてアエローが迫る。
「ぶッ飛びなぁッ! ――『風舞』霊素発令! 『
霊素が全身を駆け巡り、彼女の肌を覆い尽くす。リオの紛い物とは違う、霊素発令による恩寵の顕現。精霊はただ恩寵を有するだけではない。彼女らは自らの身体に備わる恩寵を霊素と合流させ、更なる秘奥へと昇華させる。
それこそが、霊素発令。その在り方は多種多様だが、闘技者が有するそれは、間違いなく暴威そのものだ。
人間大の肉塊が、指向性と勢いを兼ね揃えて突進する姿はもはや砲撃に近しかった。
これを撥ねのけられる人間は存在しない。止められるとするならばミノスの『剛力』か。はたまた他の恩寵か。
しかし尚、リオは動かなかった。上段にはっきりと構えたままぴくりともしない。剣先は真っすぐにアエローを捉えたまま。
落下の最中、アエローの
死ぬ気か、馬鹿め。
癇癪を起こした彼女の意識は、理性を失っている。リオが死んだ後、何が起こるのか。自分が何を思うのかすら考えていない。
即ち、リオが何を考えているのかにも、思い至っていなかった。
砲弾が落下する、墜落する、突撃する。
瞬間、初めて剣先が動いた。自らが思い描き――視界に『仮想』した『三秒先の未来』に現実を沿わせるべく、一本の線が描かれる。
「一つ」
これぞ、リオに与えられた全て。他を観察し、種を知り、数え切れぬ空想の敗北の果て、三秒先の未来を『仮想』する。ただそれだけで、リオは
目指す姿は一つ。剣先を、砲弾そのものへと合流させ――即座に手首を返して、自らは右半歩前へ。パリングと呼ばれる相手の攻撃を受け流す技術の一種。
だが、砲撃を簡単に受け流せる闘技者など存在しない。
砲弾と木剣が重なったと同時、響くのは耳を
事実、砲弾と近接していたリオの左腕は
けれど、それでも、なお。身体は『仮想』の通りに動いていた。激痛が半身を疾走しようと、動きはとうの昔に決まっているのだ。
「二つッ!」
地面に、ハルピュイアが着弾する。破壊の
アエローの瞳が瞬きした。かぎ爪の先に、血の色がついている。しかし、肉がない。皮だけだ。自分の標的が失われている事に
――獲物を一度取り逃したならば。奴らは必ず
影が、アエローを覆う。地面へと墜落し、衝撃で座り込んだアエローを見下ろす視線があった。周囲の闘技者達が、思わず息を
絢爛闘士が、剣を掲げている。
否、すでに木剣は半分にへし折れていた。だが彼は残った刃の部分を両手に取り、柄を振り上げアエローの
殺撃。相手を切り裂くのではなく、撲殺するための技。反面、アエローは応戦の用意すら出来ていない。
「三つ。――
「……はんッ」
アエローは、思わず鼻を鳴らしてリオを見つめた。一本取られた形。稽古打ちというのなら、これを何度も繰り返すのが通常だ。
けれど、彼女は大きく息をついて、手を突き出す。頬が僅かに赤らんでいる。
「てめぇな、弱ぇ癖に無茶してんじゃねぇよ。馬鹿が。私が止まらねぇの知ってただろ」
「そ、そりゃあ知ってましたけど。アエローさん、すぐ
じゃあ、何時も通りにしていれば良かったろうに。アエローは口にはしなかった。リオは人間であるが、闘技者としての意地と
「……リオ。てめぇ、なんで、闘技者に拘る。別に他のやり口だってあんだろうが」
アエローが立ち上がって、ぱんぱんと身体から土を払う。傷だらけのリオと隣り合っていると、どちらが勝者なのか分からなくなってくる。
「僕には、これしかないからです。アエローさん」
「ああ、そうかよ。大馬鹿のてめぇらしい理由だぜ。ええ?」
大きくため息をついたアエローが、リオの体を抱き留める。もはやその体が、力を失っている事にアエローは気づいていた。
「私に勝ったんだ、医療士に連れて行くくらいの面倒は見てやる。但し、勝ったって言っても、稽古打ちで、だからな!」
これがアエローの矜持なのだろう。リオは何も言わずに、頬を緩めた。
「ありがとう、ございます。アエローさん」
「言うんじゃねぇ! 私の誇りが傷つく!」
ふんっと鼻を鳴らしながら、アエローがリオの体を両手で抱える。
「……本当に闘技者でやっていきたいってのなら、誰かの『加護』くらい受けてこい。それこそ、ディア様にでもな」
『加護』。精霊が神霊から受け取った『
精霊は自分の有する恩寵を、道具に刻印する事が出来る。そうする事で、他者であっても恩寵の一部を用いることができた。無論、恩寵を分け与えるわけであるから、刻印する数に限度はあるが。
悠久に近い歴史において、精霊同士の戦争の中で育まれてきた技術だった。強大な恩寵を有する大精霊が、自らの恩寵を下賜する事で英雄を生み出す。そんな物語は
戦争が終わって久しい現代では、自分の力を保管するために加護を刻印する者もいれば、刻印技術を専属の商売にする者もいた。
そうして、精霊に直接加護を刻む事は出来ないが――人間には、刻印する事が出来る。
これは、人間が奴隷種族と
「……」
「あんだよ」
「今日は随分優しいので、怖いなぁと……」
「てめぇなぁ!?」
言うだけ言って、リオは眼を閉じてしまった。先ほどまで何とか
「アエロー、気にしない方がいいわよあんなの」
リオが意識を手放したのを見てか、同輩の闘技者が声をかけてきた。アエローは反射的にぴくりと
「あぁん?」
「さっきのなんて、運が良いだけの偶然でしょ。きっと、脚が
闘技者の言葉に合わせて、周囲から同調するような声や、リオを小馬鹿にした笑い声が聞こえて来る。
どれもこれも、アエローより格下の闘技者たちだった。
つまりはこういう事だ。人間が精霊に勝利するなど、偶然以外にあり得ない。上手く勝利したように見えても、そんなもの奴が情けないから上手くいったように見えるだけだ。
徹底して、彼女らは『人間』という存在を認めない。自分達より格下のはずの人間が、精霊を上回ることなどあってはならない。
だから、
「はぁ――ぁ」
殊更、大きなため息をつく。リオを抱えたまま、アエローのかぎ爪が――
「あ、が!?」
「アッホか。そんなんだから、未だに私から一本も取れねぇんだよてめぇらは。何なら、今から稽古打ちでもやるかァ?」
アレが偶然だと宣うのならば、実力で無いと語るのならば。自分達でそれ以上の勇姿を示して見せろ。
だが、アエローの言葉に乗る者はいない。彼女の力量をよく知る闘技者たちは、顎を砕かれた同輩を放ったままそそくさと自分達の訓練へと戻っていく。
再び、アエローは大きくため息をついた。自分の愛する訓練場は、こんな有様か、と。
「これぐらいの傷、医療士ならすぐに治せる。終わったら、
アエローはリオを抱えたまま医務室へ向かいつつ、風呂場に目線を向ける。闘技者なら誰でも使えるが、そういえばリオと一緒になった事は今まで一度もない。
たまにはこういうのも良いだろう、とアエローは微笑を浮かべた。
――女同士。裸の付き合いというのも。
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