幕間
人形は、目覚める前のことをおぼろげに記憶している。
それは無ではなかった。無ではないが、有でもない。何かの音、何らかの感覚、それらは人形の中で――もちろん、まだ人形ではないのだが――分節されることはなくそこにあった。記録されることはなく入力されていた。入力をどう解釈するのかを規定する自我はまだそこになかった。だけれども、それがマイナスのものではないことは感じ取れた。だから、外を知りたかった。外に出るためのシグナルを求めていた。
そして、人形は入力信号を得て、目を開く。
人形が初めて目を覚ましたとき、窓の外では白い鳩が飛び立とうとしていた。
ゆえに、人形が初めて聞いたのは、翼が羽ばたくばさばさとした音であった。
それから、視界に入ったのは人間の顔。
グレーに淡いブルーの混じったその瞳、どこか泣きそうな瞳。
これはなんだろう、と思う前に、答えが現れる。
「おはよう」
人形が初めて聞いた声は、目の前のヒト――作業着姿の、黒髪の男――後となって知ることだが、奇術師のものだった。
そのとき、人形は自分がここにいる理由を知った。
彼のアシスタントになるべくして、人形はこの世界に作られた。
白いベッドに寝かされて白い服を着せられた状態で、人形は目覚め、それから、おはよう、と言ってくれた声に対して、自分には応じる声がないことを知る。通常作られるタイプの自動人形だったら、おうむ返しの応答ができただろうが、この人形にその機能は備え付けられておらず、それゆえに、口を少しだけ開いたまま、曖昧に笑うことになる。
自分がどうしたいか、というよりも、そうするべきだと思ったから、そうした。まだぼんやりとした意識の中で、まず、思ったのは、相手に笑ってほしい、ということだった。そのために、人形は口元を動かした。
人形の笑みに、奇術師も同じように笑ってくれて、人形は安堵を覚える。
これが最初の、この世界での記憶だ。
人形は、ジュディでケリーでジョンでアントニオでレミーでユリでマリアでコゼットでその他のすべての呼ばれうる名前であった。どの名前であっても、奇術師がそれとして呼ぶならそれが自分の名前であると認識される。
奇術師はあらゆる名前で人形を呼んだ。人形が記憶している限り、前のシチュエーションと同じ名前で人形が呼ばれることはなかった。
固有名などなくても、自分がそれと指し示されているのであれば問題がなかった。名前とは自分が誰であるかを規定するものではなくて、一定の場面で世界から自らが誰かを分節するためのものだからだ。
少なくとも、奇術師と人形にとってはそうだった。
ふたりにあったのは、自分と、相手と、観客のいる世界であったからだ。その世界においては、自分と相手が識別できれば問題がなく、人形は声を持たず、奇術師は人形以外の名前を必要としなかったのだ。
奇術師が自らの名前を名乗ることは一度もなかった。言葉を発することのない人形には、それで十分だったし、奇術師も、周りから『世界で一番の奇術師』以上の役割を引き受けようとはしなかったから、それは不要だった。宿や列車の予約をするための仮名は存在したが、奇術師はそれらの名前にアイデンティティを持っていないようだった。
人形が、奇術師以外の人間や自分以外の自動人形には通例固有名があるのだと知ったのは、しばらくしてからのことだった。
言葉は人形の中にあった。音声として発することができないだけで。
発することのできる言葉があれば、言っていたであろうことがある。
それは、人形と奇術師が初めて過ごした夏の季節のことだった。
人形が目覚めたのは秋のころだったし、街を移動していたから夏を経験したのはそれなりに後のことだったのだが、目覚めてからの正確な時間はわからない。ふたりは時間をことさらに測ることをしなかった――街から街に移るスケジュールと練習期間だけはあって、奇術師にはそれを記録する特別な手帳があって、その手帳は人形にとって興味の対象ではなかった。
人形には最初からある程度のアシスタントとしての行動パターンは入力されていたが、それを実践するのには訓練が必要だった。だからすぐにマジックの公演を行ったわけではないのだが、奇術師は訓練も行いながらも実践で人形の能力を開花させていくことを好んだ。
どの街だったかも、もう遠い記憶の彼方だが、陽光の眩しい、夏のことだった。
だいたいの街にある噴水広場、その前で公演を行って、今のようではないけれども、でも確かに人は集まって、拍手喝采をもらって。
片付けが終わった後に、近くの屋台で奇術師はベリーのシャーベットを買って、広場に戻ってきていた。人形は、噴水の石畳に座って待っていた。自らに食事を摂る機能がないことも、人形はすでに承知していた。
暑いからジャケットを脱いでシャツ姿の奇術師が、赤いシャーベットを持って、人形の横に座る。人形は水分補給をしていて、温度を感じることはないけれども、喉越しがいいものだなと思っていた。
「そうだ、そう、ずっと、言おうと思ってたんだ」
奇術師は、シャーベットをひとくち食べたあと、言う。
「ありがとう」
僕のところに来てくれて。
何を唐突に、と人形は思った。感謝の言葉なら、公演の後に人々からもらっている。いつも同じようなことを言われるけれども、そのひとつひとつが人形にとって特別だった。人形は人の好意を好意的に受け取るように設計されていたからだ。
奇術師は、ベリーのシャーベットをもうひとくち食べて、夏のシャーベットは格別だな、ああ、そうじゃなくって、と続ける。
人形にはまだ奇術師の言いたいことがわからない。水筒を横に置いて、奇術師を見る。奇術師は人形から目をそらしつつも、訥々と語る。
「ちゃんと言ってなかった、と思って、ほら、公演終わるとばたばたするし、片付けとかあるし、あと振り返りとかもやらなきゃだし、お前はいつでもよくやってくれてるんだけど、だからかな、それで」
人形には話が読めなかった。どちらかといえば、奇術師は筋道立てて話してくれるものだと思っていた。今はそうではないのだが。
広場では子どもたちが鳥――おそらくは鳩を追いかけ回している。暑くはないのだろうか。
奇術師はどこか遠くを見ながら言う。
「というかまあ、僕が作ったから、お前がここにいるわけなんだけど」
それは事実だった。事実でしかなかった。だから人形は彼のアシスタントをしているのだし。すべての自動人形は目的に沿って作られる。人形も例外ではなかった。人形は奇術師のアシスタントとして作られた。目覚めたときからそれは前提事項であり、動かしようのない事実だった。
奇術師は食べかけのシャーベットを横に置いて、人形の方を向く。涼やかなブルーグレーが人形を見つめて、まるで目覚めたときのようだなと思う。
「でも、なんか、来てくれた、って感じがするんだ」
人形にとってそれは――不可解というよりも、うれしかった。まるで、自分が奇術師を選んだかのように、思えたから。それが事実であるかはともかくとして、そう思えたから。
いつの間にか、広場には人形と奇術師のふたりしかいなくなっていた。
背後から噴水の音が聞こえる。
奇術師は呟く。
「お前以外の誰も、僕の助手は務まらなかったから」
お前はいなくならないでくれよ、と、奇術師は人形の頭をやわらかく撫でる。
そのとき、人形は、奇術師のために在ろう、と決めた。
そう作られたからではなくて。
もし逆の存在理由を与えられていたとしても、人形は、奇術師のために在ろうとしただろう。
もっとも、奇術師に作られなかった人形は、この人形ではなかっただろうから、意味のない仮定なのだが。
奇術師がああ、シャーベットがあったな、と人形から手を離したときに、人形は逆に奇術師の頭をなでてやった。そうするのは、人形にとってはじめてのことであった。
「え、いきなりどうしたんだよ」
奇術師の言葉を人形は理解したが、人形はその行動をやめなかった。しばらくして、な、シャーベット食べなきゃだからな、と言われるまで、そうしていた。
奇術師は溶けかけのシャーベットを飲むように食べて、
「じゃあ帰ろうか」
と言う。
帰る場所はふたりにはなく、あったとして仮宿なのだが、ふたりがいる場所がふたりにとって、帰る場所だった。
人形はその夏の記憶を、一番大事な場所にしまっている。奇術師が寝てしまった夜、意識を落とすことを許されない夜の間、それを取り出しては眺めていた。この思い出を大切にしていることは、奇術師に伝わることはないのだろうが、人形にとってそれは些事であった。もし奇術師が同じ記憶を重要視していようとも、いなくとも、関係がない。
これは自分の、自分だけの、思い出だ。
人形は自分に感情があることを知っていた。
それが書き込まれたものをベースにした感情であることも知っていた。
でも、外界の事象に反応して起こるこの感情は、間違いなく自分のものであるのだ。
言葉は人形の中にあった。音声として発することができないだけで。
発することのできる言葉があれば、言っていたであろうことがある。
いくらでも、ある。
いくらでもあるのだが、望まれないから口にしなかった、望まれたとしても口にしたくはなかった。
それは、人形と奇術師が徐々に名を馳せてきた時期のことだった。
奇術師と人形はさ、最初から『世界で一番のマジシャン』であったわけではない。いつからか、そう呼ばれるようになったのだけれども。
どの街だったかも定かではない遠い記憶――なぜ時系列だけが曖昧なのだろうか。人形は不審に思わない。奇術師もまたそうなのだが、ふたりにとってそれは些細なことであった。
街の中心にある広い公園の、桜並木の下。
奇術師と人形は、彼らを見つけた子供たちにせがまれて小さなカードマジックを見せてやっていた。なんでも、昨日の路上での公演を見てくれて、今日街を歩いているふたりに気がついたのだそうだ。
「これはサービスだよ」
とか言いながらシンプルながら間違いのない技を見せてやることを、人形は知っている。
季節に合わせた、桜の柄のカードを使った、ちょっとしたマジックだった。まずカードを引いてもらって、奇術師はそれを見ないままそのカードを混ぜてシャッフルする。ぱちり、と指を鳴らすと、子供が選んだカードが一番上に現れる、といったものだ。
子供たちは目を丸くしていた。
人形は、子供たちに拍手のタイミングを教えながら、カードをシャッフルする奇術師の手元が一瞬ぶれたのを、見逃すことはなかった。
奇術師がそれに気付かなかったことにも、気付いた。
「楽しんでくれてありがとうな」
と一礼する奇術師と、興奮に湧く子供たち。
その中で人形は、言いようのない不安に襲われていた。
その日の夜、寝静まった部屋の中で、人形は述懐する。
それはミスですらなかった。ただ少し、手元がぶれただけだった。観客の誰も、気がつくことはなかっただろう。子供だったからというわけではない。大人だとしてもわからなかっただろう。これは、観客より誰よりも、奇術師の近くにいた人形にしか、わからないことだっただろう。
今回は。
では十年後は? 二十年後は? 百年後は?
百年後?
奇術師は自分を置いて、この世界から消えるというのだろうか?
ほぼ確定事項であるそのことについて、人形は考えたことがなかった。
奇術師は人間であった。肉体を持つ人間だ。
人間は歳を重ねていつか死ぬものだ。その知識はあったものの、こうして実感をするのはじめてだった。
人形はポケットからガラス玉を取り出す。
今日の子供たちが宝物だからと言って人形にくれたものだ。人形はそのときはなんだろう、と思っていたのだが、光に当てると真価がわかる。
ベッドサイドのランプの光を透かしたそれは、魔法のようにきらきらと輝いている。気泡が入っているが、そのおかげでよけいに光を反射して、尽きることのない水のようにも見えた。
きっと、百年後も、そうだろう。
なぜならガラスは朽ちないものだからだ。
そして、このガラス玉を持っている、手も、自分も、適切にメンテナンスされていれば、百年後も、同じように、あるだろう。
そこで人形はひらめいたのであった。
奇術師を、自動人形にしてしまえばいいのだと。
永遠を生きる、モノにしてしまえばよいのだと。
そう作られたモノではなくても、少なくともこれは、自分の意志だった。
人間を模した自動人形の成功例はないのだということくらいは、人形も知っていた。
だいたいが、その人間にとって大切な相手を模倣しようとして作って、だいたいが、それそのものではないことを理解して失敗を悟る。
しかし、怪我、あるいは戦闘能力を向上させたいなどの理由で、人体を無機物に換装する例はままみられる。
ならば、少しずつ、パーツを無機物に入れ替えていけば、元と同じ奇術師が完成するのではないか?
人形はそう考えた。
ただ、人形は自動人形のパーツなど作ったことがなかったし、そのように作られたモノでもなかった。
だけれども、手先の器用さは、それなり以上に与えられていた。パフォーマンスの手伝いをするために。それゆえ、人間を模したパーツを作ることくらいなら、可能だった。
だから、その夜から、作業を始めることにした。何を使えばいいだろうか、と思ったところで、この部屋にはマジックの道具がいくらでもあることに気がつく。あまり使わないものなら、ちょっとなくなってもなくしたと思うだけだろう。
まずは、左手の小指から。眠っている間に、パーツを作って、起こさないように、パーツを取り替える。軽い石材とつやつやとした木材を組み合わせて、人間と寸分違わない部品を作成することができた。それから、肌と同じ色に塗装する。
奇術師のことをよく見ていたから、奇術師と同じパフォーマンスを持つモノを作るのは容易なことだった。
ぱちりとくっつけると、体温も含めて、その小指はまるでもとから奇術師のものであったかのように馴染んだ。
一年間、三百六十五日をかけて、少しずつパーツを換装していった。
その右肩関節を、その左足の小指を、その腹部を、そのくちびるを、その左耳を、ひとつずつ自動人形のパーツに置き換えていく。
毎日、人形は奇術師のパフォーマンスが変化していないかを観測し、変化していないことを知って安堵した。自分が作ったパーツのせいで、奇術師が変質してしまうようなことがあったら、と思ったが杞憂であった。それほどまでに、人形は奇術師をよく観察していたのだ。
そして、一年後、奇術師のすべてのパーツがすっかり無機物に変換されていた。
最後に換装したのは、右目だった。
「おはよう」
と何も知らない奇術師が言ったときに、人形ははじめて目を開いたときと同じような笑みを浮かべた。
それから、寝起きの奇術師に抱きついた。奇術師はおろおろしながらも呟く。
「……今日はテンション高いんだな、プリマ」
何があったかわからないけど、今日も練習だからな、と奇術師は言う。
人形は奇術師の体温を感じながら、ようやく成功した、これでもう大丈夫だ、何も心配することはないんだ、と思っていた。
人形に体温はないが、奇術師には実装してあった。
人形がそう作ったからだ。
それからふたりは公演を続けた。さまざまな街を渡り歩く奇術師のスタイルは、人形にとっても都合の良いことだった。決まった知り合いは人形師くらいしかいないし――もしかしたら、彼は気付いているのかもしれないが、少なくとも何も言うことはなかった――世界は広い、行くべき街などいくらでもある、旅人であろうとも他の街で再会することはなかなかない、おかげで大きなトラブルはなく、奇術師と人形は旅を続けることができた。
さすがに何年も経ったら、誰かが気付くのではないか、という懸念はあったのだが、不思議なことに奇術師が歳を重ねなくなったことを訝しむ人間はほとんどいなかった。
たまにそういう人間もいたが、奇術師は当然、自分が自動人形であることを知らないので、一笑に付すだけだった。
奇術師は自らを自動人形と知らない自動人形となっていた――周りの人間も、気付かないほど、精巧な。
それが強い信念のもたらす、儚くはあるが真実の魔法の一つであることを、人形は知らなかった。信念と、素質と、多数の偶然によってもたらされた、魔法。
もとより、この奇術師なら、ちょっとくらいの不思議を起こすこともあるだろう、と思われていたのが大きい。それがかすかな魔法の上乗せとなり――代償として、奇術師のみならず、人形すらも、ふたりが過ごした時間がどれだけあるのかを正確にはもう、認識できないのだが――少なくとも、人形の願いは、叶った。
昨日と同じ今日を手に入れた。
そして今日と同じ、明日を。
× × ×
湖に太陽は落ちて、船の上には明かりが灯り始める。
船の街での公演はこれから始まる。
幕の向こうでは大勢の観客がふたりの登場を待っていることだろう。
舞台裏、いつも通り、とつぶやく奇術師が人形には見える。
人形は奇術師が見ていないことを知りながらも頷く。
幕が上がる。
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