船と差異
街というのは大地の上にのみ存在するわけではない。
海に、川に、森の上に、はたまた大空に。
人が住む場所があれば、どこだって街になる。
奇術師と人形が訪れた街の中には、このようなものがある。
小さな海ほどの大きさの湖に浮かぶ、巨大な船。
もしくは単に、船の街。
船の街は、動く陸地とも呼ばれていた。
その街に住む人の多くは、船から降りずに一生を終えることになると言われている。たまに、旅行に出る人もいるのだが、船が恋しくなって戻ってきてしまうのだ。
その街は、一周するのに大人の足でも一日はかかる。小さな島ほどの大きさだ。あまりにも大きな船であるため、大きく揺れることなどほとんどないし、甲板に出れば太陽の光を浴びることができる。
その船の上には畑や牧場、初等教育機関もあり、基本的に自給自足が成立しているのだが、一年に一度、一週間だけ湖の港に停泊する。
その際は盛大な祭となり――その祭に、この際奇術師と人形も招聘されたということだ。
ある夏のこと、例年より幾分か涼しい夏のこと――ふたりは季節を問わず移動しているから、その事実を知ることはないのだが――奇術師と人形は列車に乗って港の街へと向かった。列車の車窓から大きな湖が見えた瞬間は、さまざまな街を訪れている奇術師でさえ少し驚いた。山々の緑が広がる中に、その切れ目に青がちらちらと見えていたところ、急に視界がひらけ、平らな水面が窓いっぱいに広がる。同じだけの街に行っているはずの人形は窓から体を乗り出そうとすらしていた。さすがに窓は開かなかった。
「これが海じゃないっていうからな」
奇術師と人形は、海沿いの街に行ったことも当然あった。列車から海を見たこともいくらでもあった。だからこそ、これが湖だということが信じられなかったのだ。車内の人々も、みな窓の外を眺めてその広さに感嘆している。この湖は、かつては海の一部だったのだが、はるか昔の地殻変動で海から切り離され、陸地に取り残されたのだと伝えられている。湖を囲う山々には、幻獣が暮らしていたとも言われているが、現在には影も形もない。
また山の景色に戻ってしまって、人形はしゅんとしていた。
港の街までは、あと一時間ほどだろう。
奇術師と人形が到着すると、湖の街もまた、祭の準備で賑わっていた。街道にはさまざまな催し物のビラが貼ってあり、建物も色鮮やかな布地で装飾されている。なんせ、年に一度だけ船の街が接岸するのだ。船ではあるが、その大きさからすると、寄港というよりも接岸という表現のほうがふさわしいだろう。湖の街では、陸地でしか採れない作物や、広大な敷地が必要な家畜の肉などを用意して、毎年船の街を歓迎していた。その代わりに、船の街は魚介類や特産の刺繍を施した細工物を提供する。
ふたりは一旦宿に荷物を置いたあと、街の高台に向かった。ガイドブックによると、そこから湖が一望できるのだという。せっかくなので、船の街だけではなく湖の街も楽しんでおきたかった。
もう日も暮れるころだった。半刻ほど坂を登って、高台の展望台に向かうと、街の人がちらほらといた。船の街も遠くに見える。
展望台で湖を眺めていたら、奇術師に話しかけてきた人がいた。彼女は鳥の羽をあしらった派手な服を着ていて――どうやら湖の街のトレンドのようだ――手には飲み物を持っていた。
「あら、見かけない服装だけど、祭り目当てで?」
「はい、いや、正確には、マジックの公演をしに来ました」
奇術師がそう答えると、その女性は口元に笑みを浮かべて、
「じゃあこれが噂の奇術師さんね。私も船の方に行くから、楽しみにしてるわ」
彼女は連れがいるようで、そちらの方に歩いていった。
「僕たち、まあまあ評判になってるみたいだな……」
奇術師が人形にそう言うと、人形はそれも当然だ、と言うかのように頷いた。
話しているうちに、日はどんどん落ちていった。太陽が水面に接し、そのきらめきは光の道のようにすら見える。
「お前はこういうの、好きじゃないのか、ジェームス」
ガラスが好きなのだから、こういったきらめくものには興味を示すのではないかと思ったのであった。
ジェームスと呼ばれた人形は、ポケットから赤いガラス玉を取り出して、太陽にかざした。奇術師がそれを覗き込むと、炎のようにゆらゆらと光がまたたいていた。人形が得意げに笑っているのを見て、奇術師はうれしかった。
こいつはこうやって笑ってればいいんだ。
もう一度湖の方を見やると、けっこう近くに船の街が見えるーー船というよりも、島にしか見えないのだが。
太陽が沈み切ったとき、ひときわ輝いて、すぐに徐々に暗がりが訪れる。そして、街の中心にある塔の鐘が盛大に鳴らされる。
鐘の音と同時に、ずしん、と地面がかすかに揺れる。
船の街が接岸したのである。
どこから取り出したのか、街の人々はクラッカーを鳴らしたり酒で乾杯していたりして、奇術師は面食らってしまったのだが、人形がその騒ぎの中に積極的に入っていこうとするので、追いかけた。
次の日の朝、奇術師と人形は船の街への乗船準備をしていた。湖の街の外れにある、年に一度しか使われない特別な船着場は、船から降りる人と船に乗る人でごった返していた。奇術師は人形を見失わないように、手を繋いで歩いていった。片手にはトランクケース、片手には人形の手を。なんだか気恥ずかしいような気もしたが、こういう騒々しい場所だと人形はよく何かに興味をとられていなくなってしまう。
入船手続きを終えた後、宿に別送していた荷物を回収し、荷物を整理したところで、部屋にノックがある。奇術師が扉を開けると、そこには赤い刺繍の入った服を着た若い男性が立っていた。
「失礼します。わたしはエンリケ。今回いらしてくださった奇術師様のために、この街のガイドを努めさせていただきます」
「そんなことまでしてくれるんですか。ありがたいですね」
でも僕のことは様とかつけなくていいですよ、こそばゆいんで、と奇術師が言ったらガイドはそうですね、では適度にフランクに、と答えた。
その日の昼前、ふたりはガイドに連れられて色とりどりの旗で飾られた家々が並ぶ甲板を歩いていた。人形はある家の前にはためいている、地が赤で緑色の模様が入った旗に興味を示し、いくらかそれを眺めていたが、奇術師とガイドに遅れないようにすぐに走った。
ガイドはああ、と人形に言う。
「この旗は、家ごとにとっておきの染料で染めているんですよ。色は家ごとに決まっていて、柄は刺繍で入れています。それぞれの柄にひとつひとつ意味があるんです。さっき見ていたのは、水難除けの柄ですね。この街では、祭のときには必ず出します」
うんうんと頷いている人形を、奇術師は微笑ましく見ていた。
船の全体を見渡すことができる展望エリアに着いたところで、ガイドは、この街の成り立ちについてご説明します、と言う。ここから見下ろすと、街はカラフルな布で彩られており、街の人も観光客も区別がつかないが、たくさんの人で賑わっている。
ガイドは続ける。
「見ての通り、この船の街は非常に広く、大きく、高さもあるものですが、この船は、修繕を繰り返して長いこと――もう数百年以上は湖の上に浮かび続けています」
この湖は、もしも海を見たことがなければ、海と見紛うほどに広い。風によって水面がちらちらと輝いているのが印象的だ。
船も、島と見紛うほどに大きい。この中にいてさえ、これが船なのだとはにわかには信じがたいほどに。
そんな船が、数百年も存在し続けているなんて、と奇術師は感心した。
ガイドは言う。
「実を言うと、この街がどれほど長く存在するかは、他の街と同様に明らかにはなっていないのですが。そして、船の修繕をする仕事は、この街では名誉なものとされています」
この街を維持することは、大切なことですし、誰もがある程度可能でなければなりませんからね。だからみな持ち回りで行うのですが――もちろん報酬も出ます、私も去年その担当だったんですけどねとガイドは続ける。
「物持ちがいいですね」
ポールの上にある黄色い旗の方に走っていこうとする人形を制しながら、奇術師は言う。
ガイドは、そうそう、とどこか誇らしげに語り始める。
「ここで、少しだけ不思議な話があるのですが、この船を構成するパーツは、すっかり入れ替わってしまっていると言われています」
大きなマストも、みなが住む家も、進む方向を決める舵も。
何百年も修繕を繰り返されてきた船は、初期に存在したパーツをすべて失ってなお、すべてが同じ機能を持つパーツで置換されているため、このように今まで存在し続けているのだ。
「それでも、ずっと水に浮いているんだからすごいですよね」
奇術師がそう言うと、ガイドは、
「まあでも、人間だって代謝があって、新しく食べたもので再構成され続けているわけですし、同じようなものかもしれませんね」
「そういうものですかね……」
奇術師にはあまり納得がいかなかったが、この街ではそういうことになっているのだろう。
人形はこの話にはあまり興味を示していないようで、相変わらず、新しい旗を見つけてはそちらに走っていこうとする。
何かあったらいつでも呼んでくださいね、と彼は言って、ガイドとは別れた。
ここまで丁重にもてなしてくれる街もなかなかないものだな、と奇術師は思った。
一回目の公演は明日の夜に行われるため、それまでは少し時間がある。
劇場で一通りのリハーサルを終えたあと、奇術師と人形は船の街を見て回ることにした。
大通りの建物にもさまざまな旗が飾られており、湖から来る風をぱたぱたと受けていた。
緑地に金の花柄の刺繍が施されたもの、目が覚めるようなピンク色にオレンジと黄色の幾何学模様が鮮やかなもの、白と黒でシンプルにまとめられているかと思ったらよく見ると透明な糸でみっしりと格子模様が存在するもの。
それらはすべて異なっており、この街の歴史と文化を感じさせた。
奇術師はただ感心して眺めている程度だったが、人形はそれらを一枚一枚見て回る勢いだ。布ならば、かさばらないし、一枚くらい買えないだろうか。どうにかして手に入らないものかと、奇術師は近くにいる女性に声をかけた。
「えっと、この旗って、買えたりするんですか?」
「ああ、もしかして、観光の人? 旗は家のものだからね。それそのものは売っていないというか、売ることができないんだけど……祭の期間は、観光用の旗を売っているよ」
こっちこっち、とその女性は観光用の旗を売っている露天商のところまで連れて行ってくれた。
その店には、色とりどりの布地が数多く所狭しと並べられていた。
鮮やかな赤、くすんだ青、みずみずしいオレンジ。それぞれに細かな柄が施されたそれは、スカーフか何かにしてもいいような雰囲気であった。
「いいじゃないか、お前はどれがいい?」
人形はしげしげとそれらの布を一枚ずつ手に取って眺めていたが、そのうちすべてを元の場所に戻してしまった。
奇術師は赤の布地を手に取って、人形に言う。
「これじゃだめか?」
人形は頷く。それから、先程までいた通りを指差す。
「違うのか……」
奇術師には、家々にはためく旗と区別がつかなかったのだが、人形にとっては違うのだろう。
あるいは。
人形がほしかったのは、あの旗を構成する布地ではなくて、旗が存在する光景の方なのかもしれなかった。
奇術師は自分用に、赤い布地にオレンジと青の刺繍が入ったものを買った。
どこかでマジックの小道具として、使えるかもしれない。なんなら、今回どこかかで使ってもいいくらいだ。
せっかく露天の市場に来たのだから、何か買っていこう、なんなら人形が気に入ったのなら何か買ってやろう、と思っていたのだが、どれも人形の目には叶わなかったようだった。
「あ、ガラスはどうだ?」
ある店で奇術師が手に取ったのは、中に水面が揺れているような、きらめくガラス玉だった。色は透明から深い緑色まである。人形はガラス玉が好きなはずだ。各地で集めている。ならこれも、と思ったのだが、それにも人形は難色を示した。
「これもだめか……」
何が違うのだろうか。
かつて買った、赤いガラス玉と。
奇術師にはわからない。
奇術師はガラス玉を店頭に戻し、そのガラスの店を後にした。人形はさまざまな店に一通り顔を突っ込んでは、そのどれもを気にいることはなかった。
この街の製品と、人形は相性がよくないのだろうか? あんなに旗には興味を示していたのに、と、奇術師は思う。調子が悪いとか?
ただ、隣にいる人形を見ても、具合が悪いわけではなさそうだ。いつものようにうっすら笑みを浮かべながら歩いている。
とりあえず、ここまで来たのだからコーヒーでも飲んでいくか、と、屋台でブラックコーヒーを買ったのだが、苦くて飲めたものではなかった。後でガイドに聞いたところによると、なんでも船の街のコーヒーはすこぶる苦いことで有名なのだそうだ。もっと船が小さかったころ、船酔いを覚ますためにそうなったと言われている。道理でブラックでいいですか? と聞かれたわけだ。人形は顔色ひとつ変えずに飲んでいたけれども、人形のほうがよほど味覚のセンスはあるはずだと、奇術師は思っている。
それにしても。
砂糖とミルクを入れてもらえばよかった。
× × ×
奇術師と人形に用意された部屋は、招待客であることもあり豪勢だった。
ふかふかのソファと、ちょっとしたテーブルと、大きなベッドがふたつ。
奇術師は自分の身長が平均よりは高いことを自覚している。だから、大きなベッドがあるのは好ましいことだった――たくさん寝転がれることだし。旅を続けている奇術師と人形は、さまざまな種類の宿を知っているが、ここは知っている中でも、待遇がよいほうだった。
奇術師と人形は明日の公演で使う小さな機械のメンテナンスをしていた。大きな機械は明日最終チェックをすることになる。
「そっちは大丈夫か?」
奇術師が、黒い立方体の形をした機器の確認をしている人形に話しかけると、人形は手で大きく丸を作ってみせてくれた。
そのあと大宴会場での夕食に向かったが、湖で獲れた魚をメインとしたコースには、奇術師も大層満足した。料理のあとのコーヒーにはミルクと砂糖を入れてもらった。人形はミルクと砂糖の入ったコーヒーもおいしそうに飲んでいた。
こいつもしかしたらコーヒーならなんでも好きなのか? と奇術師は思ったりもした。
部屋に戻った奇術師はシャワーを浴びたり次の日の衣装の支度をしたあと、眠りについた。一日中よく動いたこともあり、すぐに眠りにつくことができた。
人形もベッドに入ったが、その意味合いは奇術師とは異なっている。
人形にとって、夜は長くもあり短くもある。
モノのように眠らないには長すぎるし、人間のように眠るには短すぎる。
どちらにせよ、スリープモードに入るか、完全な機能停止のコマンドを所有者――人形にとっては奇術師を指す――に入力されない限りは、横になっていたところで、人間で言うところの半覚醒状態でまどろんでいることとなる。
要するに、だいたい、最近あったことを頭の中でぼんやりと眺めていることとなる。
夢のように。
その日の『夢』は、いつものように輝いていた。
舞台の上でスポットライトを浴びている奇術師。
世界の誰よりも美しく、優雅で、壮麗で、驚嘆すべき、魔法のようなマジックが展開されるステージ。
段取り通りにサポートする自分。
客席の反応をきちんと見ながら、機器を操作したり、トリックから目を逸らさせるための動きをしたり、時には深刻な顔をして見せる自分。
拍手を誘うために、誰よりも早く拍手をする自分。
客席からの万雷の拍手。
奇術師はいつだって完璧だったが、ちょっとしたアクシデントがあることもある。
なんせ年中ステージを行なっているのだから。いくら練習しても、まったくミスをしないことなどできないのだから。
それらもすぐに回収できる程度には、ふたりはステージに慣れていた――いつから?
あるいは、奇術師との練習の思い出。
奇術師はステージにおいて完全主義者だ。何がどのように観客に見えるのかを完全に制御したがる。街を巡る奇術師と人形は、異なるステージに対応できなければならない。それはかんかん照りの路上のこともあれば、よく冷房の効いた大規模な劇場であることもある。
それらのすべてに対応するために、ふたりは練習を積み重ねてきた――人形は奇術師の要望に応えるために生み出されたのだが、だからといってなにも訓練を行わずに今の連携が取れているわけではない。
最初のころはもっと客席を意識しろとよく怒られたことだな、今はそういったことはあまりないけれども、まったく新しいギミックを試す時なんかはあのころみたいにぴりぴりしているな、と人形は思う。
最初のころ、って、いつ?
千変万化する思い出、記憶、今日見たあの旗たちのように鮮やかな過去、くるくると巡る視界の中、ひとつの音がする。
ごとん、と、音がする。
船の街が接岸した時よりは軽いけれども、確かに部屋に響く音。
床に何かが――何か、質量のあるものが落ちた音だ。
人形はベッドから出て、その音の正体を探る。停止しているとはいえ、ここは船の上だ。風が何かによる揺れで、何らかの調度品が落ちてしまったのかもしれない。
とはいえ、人形には見当がついていた。
人形は奇術師のベッドの横に立ち、床を眺め、かすかな明かりの下でそれを見る。人形は一般的なヒトよりも暗がりでものを見る性能が高かったーーマジックに便利だからだ。そのおかげで、人形はすぐに音の原因を見つけることができた。
それは、いつだって見事なマジックを見せてくれた、奇術師の右手だった。手首から先が床に落ちていたので、人形は拾い上げる。完璧なプロポーションをしたそれに、見惚れるものもいるのだろうが、人形は平常心でそれを持つ。
寝返りを打ったときにでも外れてしまって、床に落としてしまったのだろう。血が流れることはない。温度はまだある。断面はつるつるとしていて、黒曜石のようだった。
人形は手慣れた手つきで、奇術師を起こさないようにしながら、毛布をめくって、欠けたパーツをそっと、右の手首――その断面も、つやめく黒である――に戻す。
かちゃんとかすかな音がして、それはまるで生体部品であるかのようにくっつく。
継ぎ目などわからないくらいにきちんと接合されたその手は、その持ち主は、明日もまた見事なマジックを見せてくれることだろう。
奇術師はそれに気付かない。
気付くことなど永遠にない。
人形がそう、作ったからだ。
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