雪とチョコレート

 それは奇術師と人形が過ごした、ある冬のこと。

「いいよなあ、お前は寒くないんだから」

 普段だったらうれしいはずの、ふかふかのベッドの上で、毛布にくるまりながら、その上に羽布団を重ねて、奇術師は言った。人形はいつもどおりの服装――上下ともつやつやの白いシルクだ――を着て、もう片方のベッドサイドに座っており、奇術師の発言に眉をひそめてみせた。

「今のは冗談だって、寒くないほうがいいに決まってるだろ」

 人形は首を縦に大きく振る。

「でも……寒いな……」

 今ふたりが来ている街――一年の多くを雪に覆われている、北方の街だ――は、ふたりのことをたいそう歓迎してくれて、その街で唯一のホテルに宿を取ったらスイートルームに同じ値段で格上げしてくれた。ふたりで泊まるだけなんだから、そんなにしてくれなくてもいいんですよ、と一度は断ったものの、このような大きな部屋に泊まる機会もなかなかないことだし、と思って、そうしてもらうことにした。宿側としても、部屋が余っているんで、と苦笑していたし。

 そういうわけで奇術師と人形はその街でいちばん高い宿のスイートルームにいる。

 ただし、暖房が切れた状態で。

「大変申し訳ございません。現在復旧作業を進めております」

 そう言うホテルマンも、厚手のコートを室内で着ながらも震えながら喋っている。

 係員の話によると、あまりの寒さに暖房設備が凍ってしまったのだという。

「ち、ちなみに、こちらの暖炉は使えないんですか?」

 奇術師はスイートルームにふたつもある暖炉を指す。

 レンガで作られた豪勢な暖炉の横には薪も置いてある。これを燃やせば火の周りは暖かくなるのではないだろうか。

 ホテルマンは白い息を吐きながら言う。

「申し訳ございません、こちら、飾りなので……」

「飾りか……」

 奇術師は天を仰ぐ。

 人形は去っていくホテルマンに手を振った。

「どうしたものか……」

 ホテルマンの去ったスイートルームで、取り残された奇術師と人形は、せめてもということで渡されたろうそくのぬくもりをよすがに、中央の応接間にいた。テーブルの上に置かれたろうそくの炎に手をかざすとわずかにあたたかいが、コートを焦がしてしまいそうになり、一歩引く。

 そうこうしていたら、人形が奇術師に毛布を持ってきてくれた。ベッドルームにあったもののようだ。

「お、ありがとう」

 コートの上に羽織ってみると、先程までの凍てつくような寒さは鳴りを潜めてくれたのだが、さすがに足の方まではカバーしてくれない。

「いやでも寒いな」

 窓の外を見ると雪がしんしんと降り積もっているようだった。止む気配はなさそうだ。

「こんなことになるなら、スイートルームじゃないほうがよかったんじゃないか……?」

 この部屋はやたら広い。応接間とソファのある部屋とベッドルームという、三つの部屋がつながった構造をしており、おそらくは大人数での利用が想定されている。だが、ベッドルームにはベッドがふたつしかなく、これはどうやって使うんだ? 何らかの会議などに使用するのか? と奇術師は思った。

 人形は寒さをものともせずに部屋を歩き回っていた。壁に飾ってある抽象的なりんごの絵を見ながら、くちびるに手を当てて何事かを考えているかのようだった。

「それ、ほしいのか? さすがにホテルの絵は買えないと思うけど……」

 奇術師が人形にそう言うと、人形はじゃあこれ、とばかりに入口においてあった壺を指さした。

「買えたとして、持っていくところないからな!?」

 人形は肩を落としたが、また別の興味の対象を見つけたのか、次はガラス製の優美な植物の彫刻が施されたランプを眺めていた。さすがにこれは買えないとわかっていると信じたい。それから、テーブルに向かって壺のイラストを描いていた。人形はたまに絵を描く。奇術師にものを伝えるためであったり、自分が好きなものであったり。

 奇術師はひととおり部屋の内部を確認したが、震えるほど寒いのでこれは外にいても変わらないのではないか? と思った。ちなみに一瞬だけ窓を開けたらそれどころではない冷たさに後悔した。

 もしこれがもうすこしこぢんまりとした部屋であったのならば、人の体温で多少は温まったのだろうが、ここまで広いとそうはいかない――なんてことはないのだろうけれども、それを夢想してしまうほど、気温が低かった。

 ベッドに倒れ込み、羽布団も持ってきたけれども、これじゃ眠れそうにもないな、と奇術師が思っていたところ、人形が、トランクケースから何やら荷物を取り出そうとしていた。もしかして、なにかあたたまれるようなグッズでも、入れていただろうか。

 しばらくしてから、これだこれだと、人形が奇術師に見せてきたのは、丸くて銀色の缶だった。

 その缶のラベルには『ホットチョコレート』と書かれていた。

「あ、そうだった」

 そうだ、どこかの街で興行したときに、街の名産品として買っていったのだ。賞味期限も長いし、作るのが面倒だしということで、トランクケースの中に入れて放置してしまっていたのだ。

 たしかに今が、これの出番かもしれない。

 布団から頭だけ出した奇術師がその缶に手を伸ばすと、人形はそれを自分の方のほうに引き寄せた。

「いいよ、僕がやるから」

 そう言ってもなお、人形は缶を手放そうとはしない。出した手が冷たくなり、すぐに引っ込める。

「え、お前がやりたいの?」

 人形は大きく頷く。

「ならいいけど……お前は飲めないのに?」

 その言葉に、人形はむっとした顔をして、キッチンの方にすたすたと向かってしまった。人形は水分は摂ることができるけれども、味を感じる機構は備わっていないから、ホットチョコレートを飲んだところでお湯と同じ感触になるはずだ。

「おい!……って、聞こえないかあ、遠いし」

 ここからキッチンまで、歩いて二十歩くらいはあるし、壁もある。これだけあると、布団の中からじゃ聞こえないかもしれない。

 毛布の中の奇術師は、ベッドの上をごろごろと転がりながら人形を待った。動いていれば多少は暖かくなるかと思ったのだ。実際、それくらいしかすることはないし。

 キッチンの方からからからと音がする。人形は器用だ。器用に作った。自分ほどじゃないにしても。だから心配することはない。

 どことなくチョコレートの甘い香りがしてくる。楽しみだ。砂糖はきちんと入れてくれただろうか。そのあたりは抜かりないだろう。

 しばらくすると、白いマグカップいっぱいに入ったホットチョコレートを、人形が持ってきてくれた。奇術師の分と、人形の分を。

 奇術師は、ベッドサイドに座って、毛布から頭と手だけを出して、それを受け取った。

「いただきます」

 マグカップの縁に口をつけると、

「熱!!」

 熱い。熱い。それどころか沸騰してるんじゃないか。ホットチョコレートって、もっと、人肌くらいのあたたかさ、じゃなかったか。

 人形はその熱さをものともせずにホットチョコレートを飲み干して、マグカップをサイドテーブルに置いていた。

 奇術師は何回もホットチョコレートの液面に息を吹きかける。それからもう一口飲んでみる。でも熱い。ちょっと置いておいたほうがいいだろう。

「そっか、お前、温度を判定する機能、ないもんな」

 人形は寒さも暑さも感じない。つまり温度を皮膚で感知することはない。自動人形の中にはそのような機能を持つものもいるが、マジシャンのアシスタントをする人形には、どちらかといえば不要な機能であると奇術師は判断したのだった。マジックの中には、火や水を扱うものがある。それらを恐れてもらっては困るのだ。

 だから、この部屋のキッチンに温度計があるとは思えないし、このホットチョコレートが熱すぎても仕方がないということだ。

 しょぼくれた様子の人形に、奇術師は明るく声を掛ける。

「いや違う、お前が悪いんじゃないよ」

 そう言って、もう一口飲む。さっきよりは冷めてきて、チョコレートの味を感じることができる。口にはどこまでも甘く、胃に染み入るあたたかさだ。スパイスも多少、入っているのだろうか。スターアニスとシナモンの軽やかな香りが、チョコレートの甘さにマッチしていた。おかげで、なんだかぽかぽかしてきたような気がする。

「あ、言うの忘れてた」

 奇術師は、ホットチョコレートに夢中になって、言うべきことを言っていなかったことに気がつく。

「ありがとう、僕のために」

 そう言うと、人形は奇術師に抱きついてきた。毛布の上から。奇術師はホットチョコレートをこぼしそうになってしまったが、カップを持ち替えてなんとか耐えた。毛布の上からでも、人形の身体には熱はなく、だから自分の身体からは温かさが奪われていくだけではあったけれども、奇術師は少しの間、人形をそのままにしておいてやった。

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