第2話 愛とは有り様であるか?

西暦 2300年にも書物マンガで豊かだ。

時代を経て現在では聖典やお経、祝詞のりと等を除き、この世のほとんどの文学は廃った。何故かと言うと脳波をAIが読み、それを絵に変える技師が革新され、今日では漫画の方が小説よりも普及するに至ってしまった。


この時代だからこそ、私はまだ人の手で漫画を描いていた時代の書物マンガが大好きだ。


それでも、その日はなんとなく眠れずに徹夜で読んでいた書物マンガの中で分からない事があった。


それは物語に登場した、とある男の話である。


その男は自分の子供や孤児の子供達を愛しているのにも関わらず実験を行い、挙句の果てには我が子すら、道具に変えてしまう。


けれど、最後までその男の娘はそのような父を愛し、男も娘を愛しながらも道具として、娘達を”使う”といった話であった。


何故、子供達を愛しているなら、

娘だけでも贔屓ひいきして実験を避けなかったのか。娘も何故、同年代の子供達が父の理想や夢のために犠牲になっても良いと思えるのか。


私にはとても理解が出来なかったので、

私は付き合っている彼氏に書物マンガを読ませ、意見を求める事にした。


彼曰く、

男は実験に使った孤児の名前を覚えていた事。

また、孤児の子供達にとっては男が救世主ヒーローでありながらも親でもあるから子供達もまた男を愛しているからこそ、

子供達は男の為に実験されたり道具にされる事を許し、男もまた子供達がそれを理解してその苦受け入れてくれている事を理解していると言う形の愛である。


…と言う考え方であった。

確かになるほど。

男は言い換えれば自分の娘にも

贔屓をしないような博愛主義だ。


つまりは

苦労や苦痛、痛みに対していかに

”愛しているから痛みを肩代わりするつもりで苦痛受ける。”または、”男を愛しているから痛みに耐えている”と捉えている。


物語の彼らは犠牲そのものまた、

愛であると考えているのだ。


この物語が過激なので一般例で例えるならば、

母親や父親が子供の為に労働で苦痛を受けても

我が子の為だから苦ではないと言う捉え方なのだ。


その事を理解して、

彼と話飽きたから寝ようと思う。


愛は様々なようがあるのだろう。


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人類は眠りにつきました ほし めぐま @wataamedokusen

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