海よりみより

雛形 絢尊

第1話

海について私は何も知らないまま、

私は海に飛び込んだ。

泡が空に溶け出し、宙を舞う。

どんどん深く沈んでいくにつれ、

海の色がより濃くなった。

それでも体は沈んでいく。

そうしているうちにこの世の音がなくなった。



私は慌てて起きた。

ベッドの鉄の軋む音が聞こえる。

部屋は広く、10畳ほどだろうが、

そこに白いシングルベッドが6つ並んである。

一つ一つのベッドの横にテーブルがあり、

まだ湯気が立つ紅茶が置かれていた。

その一つ一つのベッドを覗いた。

よくよく見ると私は白い服を着ている。

病院か?ここは病院なのか?

外は明るい。

人間はいるのかと。果たして、

ここは一体どこなのかと。

部屋の中腹にある茶色に塗られた扉が開いた。

白髪の男だ。それも若い白髪の男だ。

「あ、おはよう」と直角に曲がった私に声をかける。

まだ分からない、あれは誰で、今どこにいるのか。

「近づかないで」と私は声を荒げた。

あら、と彼は声を漏らす。

「こんな分からない場所に連れてこられて」

彼は無言で立ち止まる。

「そりゃそうか。でも生きててよかったよ」

私は胸を打つ。その言葉にしがみつこうとした。

「普通なら死んでた。でも生きてる」

彼は微笑んでよかった。とだけ言った。

私は生きているのか?この白い部屋で死んでいたりしないか?と疑問がやまないので手のひらを見た。

布団を握りしめた。感触がある。

確かに手のひらが見える。生きてる。生きてる。

彼は説明してもいいかいと言った。

私は静かに頷いた。

「私は海で行方不明になった方々を一時的にここで預かる、渡津美(わたつみ)と言う者だ。無事にここで健康な状態へ戻し、それぞれの家に送るんだ」

どういうことだかはさっぱり分からなかった。

が、いい人だろうと質問を投げかける。

「どうして、私を」

「そう、君の心のどこかに少しだけ"死にたくない"が残っていたんだ。それを見て見ぬ振りはできなかった」

彼がそう言った後、女性のおっと、

おっとっとと声が聞こえた。

背が小さく私より少し小さく、

髪を後ろで結んだ女性だ。

「彼女はヒメガミ、ヒメガミちゃんとでも呼んで」

と彼は彼女を紹介した。

「彼女、起きたんですね、よかったです」

と彼女は明るく大きな声で、揚々と言った。

「平気ですか?傷まないですか」と彼女に問われた。

特に何も、痛みはなかったので平気です、と答えた。

「海の事故は本当に多いですからね、今日のうちは海が荒れてるので一晩泊まって行きなさい」

私ははあ、と反応する。

「もう、4日目ですよ」とヒメガミは言う。

「まあ、とにかく、ここから海でも眺めてなさい」

と彼は窓の外を指差した。

綺麗で絵に描いたような海が映っている。

あの、と私は声をかけた。

「あなたたちは人間なんですか?それとも、」

彼らは一笑した。

「正確に言うと人じゃないのかヒメガミ」

彼は笑った口を押さえながら言った。

「そうですよ、とっくの昔に辞めました」

人間を辞めた?と私は困惑していると、

急に彼らは慌て出した。

ヒメガミ、行くよ。と彼は言う。はい、と答える彼女。

気づけば窓の外には西陽が刺している。

扉を再び開け、彼らは去る。

ちょっと待ってくださいよ、

と私もベッドから這い出た。

彼らを必死で追いかける。

廊下を越え、玄関だ。

目の前に彼らの後ろ姿が見えるが、

海が見えた途端姿が消えた。

彼らはどこに、とあたふたしている。

まるで日本ではないような景色だ。

そうしてタイムラプスのように辺りは

真っ暗になってしまった。

海は荒れ始める。

こうして私は地面の砂浜に適当な

絵を描きながら彼らを待った。

海の荒れる音を聞きながら。

しばらくすると、何かが陸地に出た音がした。

彼らだ。

姿を見せた彼ら。彼は誰かを抱えている。

20代ほどの女性だ。私と歳が近いであろうか。

無言でこちらへ向かってくる彼ら。

すると、彼女の目は突然開いた。

急激に慌てだす彼女。

「離して、離して」と赤子のように抵抗する。

彼は優しく足元から着地をさせ、彼女を自由にする。

その髪は海の塩で痛み、その姿を変えていた。

「どうして、私を助けたの。助けなんていらないのに。死にたい、死にたいの」

と彼女は大きな声を上げた。

誰も口出しをせずにその空間が出来上がる。

「やっと死ねると思ったのに、漸く解放されると思ってたのに。潔く死なせてよ」

と彼女は涙ぐみながら言う。

しばらくしたうちに渡津美がこう言った。

「小さな子供の声が、聞こえたので」

その事実に私は静かに驚いた。

続けてヒメガミはこう言った。

「赤ちゃん、死にたくないって言ってた」

うんうんと頷く。

私はどうすることもできずに立ち尽くす。

「そうよ、妊娠してたのよ。でも何?死んじゃだめなの、どうして」

渡津美は彼女に言葉を投げかけた。

「その命が、幸せになれない。

今は逃げても、死んじゃだめだ。その心が少しでも残ってた」

私まで心を打たれてしまった。


海の事故で亡くなる人は日本だけで

年1000人を越える。

その多くが助けられているのは

日本の海を守る海上保安庁の方々。

ライフセーバーの方々。

そしてもしかしたら、彼らのような存在。

もしかしたら、もしかしたらね。


私はその夜、彼女とたくさん話をした。

こんなに海が綺麗だったんだねとか、日常の話とか。

翌日、彼らとお別れをした。

玄関の前、ヒメガミも見送りに来てくれた。


「本当、ありがとうございました」

うんうんと頷く渡津美。

「ちゃんと生きるんだよ」とヒメガミは言う。

海の潮が急激に渦のようになり、

私の周囲に巻きついた。

それは恐怖ではなく、安心感を得られるものだった。

ベッドにいた彼女も駆け寄ってくれた。

手を振りながら「今度どっかで会ったらさ、カフェでも行こうよ」と。私はうんうんと頷いた。

渡津美に目をやり、ありがとうと言った。

彼は最後に、

「幸せになるんだよ」とだけ残した。


私は気がつくと自宅にいた。

それも、海に身を投げ出したあの日の格好で。

ベッドの上に座っていた。

私はこの一連の話を人には話せなかった。

自ら命を断とうしたこと、

胸を張れるようなことではないからだ。

私は今でも海を見るたび思う。












もしかしたら、もしかしたらね。



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