⑫ ジラウと現実 (前編)
しゅなり、しゅなり。
「・・・暑いなぁ。・・・よ、っしょっと。」
焼け枯れたコケと砂をあらわにした石畳を歩く青年は装衛具と編み金服を脱ぎ、じゃしゃん、と放る。
焦げた黒い煙が混じっていても、そこは相変わらず一面が白い霧の世界だった。
「・・・。お腹も減ってないなぁ。」
ミガシに膝をつかせた後、しばらくは痺れたような違和感が右半身にあったものの、それも今ではなんともない。
フラウォルトのコロナィで力を吐き出した時の倦怠感や疲労感、空腹や眠気があってもいいのにと思ったようだ。
「ん? みんな戻ってきちゃったのかな?」
音さえも遮ろうとする霧の向こうに、さっきより増えた数の声が漂っている。
「・・・。本当に、僕は大丈夫なんだなぁ。」
しゅなり、しゅなり。
三歩も離れれば見失う濃い白の部屋の中、しかし青年は迷うことなく祭壇の階段へ向かう。
「・・・血?・・・なんだろう、このぐにゃぐにゃ。」
滴り落ちていた血に気付くと、そこに群がるゼリー状の何かに目が留まる。
すると色を様々に変えるぐにゃぐにゃは青年から逃れて階段を上がっていった。
生き物なのだろうが、何なのかは解らない。
「あれ?・・・血がない。」
そそくさと逃げていったその後に、血の痕跡は微塵もなかった。
しゅなり、しゅなり。
ここまで来ると、もうニポたちの声も聞こえない。
しゅなり、しゅなり。
無音なのに、どこか懐かしい感じを覚えるからかもしれない。
しゅなり、しゅなり。
といって意識が朦朧としているわけでもないから不思議だ。
しゅなり、しゅな――――
不思議だ。
「やあ。久しぶりだねキぺ。元気だったかい。」
不思議が、だから上手に呑み込めない。
「・・・・どうして?・・・どうして、ここにいるの?」
ヒトの気配なんてなかった。
今のキペはそれらを敏感に察知できるはずなのに。
「ふふ。元気そうでよかったよ。」
霧に霞む姿はおぼろげだったが
記憶を張り付けて見ているんじゃないかと疑ったが
そこにいたのは
「答えてよ、父さんっ!」
血塗られた神像を抱くジラウ。
「父さん・・そう呼んでくれるんだねキぺ。ふふ、よかった。元気そうで。」
ぐりゅぐりゅぐりゅ、とその足元へさっきのぐにゅぐにゅが走る。
そして、
「・・・父さんっ?・・・な、に?
・・・だ、・・・誰だぁああああっ!」
ジラウの体に溶け込んでいく。
「ん? ぼくはきみの父さんじゃないか。
さ、おいでキペ。元気なうちに。」
しゅなり、と後ずさりするキぺ。
同じように一歩近づいたはずのジラウにしかし、足音はない。
「なん・・・来るなっ!・・・あ・・母さんはっ?・・・母さんはどこだっ!」
ぶふん、と白い大気が揺れる。
波動が霧にそのまま形を刻んで同心円に広がってゆく。
とても、速く。
「ナコハ?・・・あぁ。それなら――――」
そんなキぺに驚きもしないジラウはニコニコしながら近寄り、
ぼそりと言う。
「食べちゃったよ。」
ぐる。
息のふれあう距離。
ぐるる。
目を剥くキぺへ
ぐるるる。
涼やかな顔で答えたジラウに
ぐるるるる。
冗談の欠片も見られなくて。
ぐるるるるる。
それがそのまま
ぐるるるるるる。
そのまま真実であると
ぐるるるるるるる。
わかってしまって。
ぐるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる。
「あ・・あが、うあああああああああああああああああああああああああああああああっ!」」
一気に地階を駆け抜けるそれは
「ふげげげっ! チペかいっ? なんだいこの声はっ!」
もはや衝撃波だ。
「ほぐっ・・揺れ、揺れてるっちゃ。ここ、地下だっちゃ?」
揺らしたのはすべて。
「一体どうなっているんだっ? 霧がっ・・・晴れていく?」
文字通り、すべて。
「違います、弓の戦士さん・・・・下に。」
目の前を白く濁していた胞子が丸ごと死んで床に降り積もる。
「さんしたぁぁぁーっ! ぶじかぁぁぁっ!」
殺されたのだ。ただの咆哮ひとつに高濃度に敷き詰められた胞子の霧が。
「あーもうこの常識外れの展開はついてけませんからねぇ。」
耳鳴りどころではない。痛みに近い麻痺が体をくまなく襲っていた。
「なん・・・なんの騒ぎだ?」
目はチカチカし、舌もぴりぴりとする。
「起きたかポロー。ま、起きるべな。」
傷とならなかったのは、
「今の、シペがやったってのかよ?」
この距離を保っていたからにすぎない。
「そうなるな。・・・カロ?」
中で何が起こっているかはまだよく見えない。
「覚悟の上で来てるよスナロア。・・・。」
これから起こることなどさらに見えない。
「きぺちん・・・」
そして霧は沈み
「・・・アイツは、誰だ?」
ルマの声に一同が祭壇上でキぺと並んでいる「アイツ」へ視線を注ぐ。
「ちょいとあんたぁぁぁぁっ! ウチのチペに何してくれてんのさぁっ!
ってチペっ?・・・あんた、その斑・・・」
おんどりゃああああ、と霧の晴れた《封路》を駆け出したニポの目に、服を脱いで肌を剥き出しにしたキぺが映る。
そこには黒い斑に覆われた、キペがいた。
「ふぇ? あ、ニポっ!・・・だ、来ちゃダメだぁーっ!!」
言い知れない不穏にキペが吠える。
ぞろぞろと入ってきたスナロアたちがその声に辺りを伺うも、「危険」の姿は見当たらない。
「なんだっ、さっきの人影はどこへ行ったっ!」
ヒナミたちが祭壇の間へ目を配っているうちに消えてしまったようだ。
「ちょ、だからシクロロンさんは前に出ないで、って・・・ん?
うわっ、どっから湧いてきたっ?」
ニポ、スナロア、ヒナミを前に弱い者・幼い者をしんがりに弧を描く。
その最前線にぶりゅりゅりゅ、と形を成して
「あったかいな。動きやすくて丁度いい。」
ジラウが笑う。
「待てぇーっ! 僕と話せっ! みんなは関係ないじゃないかっ!」
足元に残るひと塊のぶにゅぶにゅには目もくれず、キぺはジラウの元へ走る。
「何者だ? ヒトの言葉を話すヒトならざる者よ。
まさかジラウではあるまい、老いにくい語り部の私より年を喰っておらぬのだからな。」
老衰を食い止める語り部であっても時を止めるまでには至らない。
だが目の前で神像を抱くジラウはそのわずかな老いすらも感じさせなかった。
「ジラウですよスナロアさん。・・・ふふ。でもある、ですが。」
晴れた霧と燻る赤沙、焼け残り光を放つコケ、ダイーダの火燈りにそこは照らされている。
視界の外れで蠢くものも幾つかあったが、今はとにかくこの「ジラウ」が謎であり、おそらく脅威だった。
「ナニわけのワカんねーことホザいてんだジラウっ! オマエ、いったい何したんだっ!」
語り部になり変化した兄を知るがゆえに「何か」をしたとは推測できる。
だが、それが何なのかダジュボイにはまるで見当がつかなかった。
「・・・ふふ。なるほど、浅いながらも正当な冠名を持つ者もいるようですね。」
ダジュボイには答えず、ジラウはまっすぐヒナミを見る。
「ジラウよ・・・知ったのだな、ユニローグを。」
最もユニローグに近付いたのであろう男の落ち着き払った表情が語るのは渇望の成就くらいか。
「これから、・・・これから起こることのすべては正義です。
スナロアさん、あなたは知りすぎた。」
それにも答えず深く息を吐き、ジラウはヒナミを見つめる。
そこで
「なん・・?・・・ぅ、・・・うぅっく・・」
ただ目と目が合っていた。
それだけだったはずだ。
「どしたシナミってのっ! あんさん病人だったのかよっ!」
よしきた、と言わんばかりにシーヤはてけてけと苦しみ出すヒナミに駆け寄る。
そんな頭を抱え呼吸を乱すヒナミを見、スナロアが放つ。
「何をしたジラ――――」
「こん・・・やめろぉぉっ!」
そこへキぺの制止が響く。
他方何かに勘付いたカロは意味を探す。
「みんな、ヒナミから離れろっ!」
離れていた者は身構え、近くにいたスナロア、ハク、シクロロンが飛び退きシーヤを抱えたカロもヒナミから距離を取る。
しかし何がどう危険なのかがまるで掴めない。
そんな中、
「うぐ・・る、ぐる、・・・」
がくがくがくと激しい震顫に体を委ね狂ったように唸るヒナミは
「ぐるるるるるるぅうあああああっ!」
そのまま簡易式の装弓を構え
「むぐ・・・」
スナロアに射ち込む。
「父上っ!」
「兄貴っ? テメぇコラ何してんだヒナミっ!」
そこへルマとダジュボイが飛びつく。
暴れるヒナミの目はもう、何も捉えていなかった。
「大師っ? どうした? 何があったんだっ?」
一瞬の出来事は後ろに控えるボロウには見えない。
「迂闊だったな。・・・スナロアは起こされたヒナミに射たれたよ。」
気付くのが今すこし早かったとしてそれが防げたかは疑問だ。
「こんにゃろ、こっちはおいらに任せとけっ! そっちのアブねーのは頼むぞユクジモのアンちゃんジーちゃんっ!」
すると抱えられたシーヤはカロの腕を抜け出しスナロアの元へ滑り込む。
「私もっ、私も手伝いますっ。見習いでしたから少しは・・・あ、ダイーダさん! 何か手当てに使えるものはありませんかっ?」
崩れるスナロアを抱きとめ、アイデアとアイテムの宝庫へシクロロンは目を向ける。
「かーっ、もう後払いでお願いするにっ!」
医法用具が揃ってなくとも工夫で対処できることもある。そのためダイーダは「これは?」とシーヤに尋ねながら品物を広げてその場を請け負った。
「スナじーさんっ?・・・あんたっ! ナニしてくれてんだいっ!」
ジラウに言い寄るニポの後ろでは暴れもがくヒナミを抑えるルマとダジュボイ、意識を失ったスナロアを看るシーヤとシクロロン、使える物を探すダイーダがいる。
ヒトを自在に操る〔魔法〕が相手では無防備そのままの彼らを守りようがなかった。
「スナロア・・・悪いなノル、強引だけど連れ戻してあげてくれないか。」
意識を失うスナロアを見遣ると、砂を噛んだような顔でカロはノルの頭にそっと手を載せる。
「うん。スナちんならだいじょうぶ。」
そう言ってノルはトコトコとスナロアの隣に座り、顔に手を当て目を瞑った。
そこへ。
「勝手にっ、・・・勝手にヒトの中に入るなぁっ!
・・・父さんなんかじゃ、おまえなんか父さんじゃないっ!
父さんはもっとやさしかったっ!」
血走る目をひん剥くキぺが振り向かせようと腕を掴むも。
ぼちゃり。
「ふにぇっ! なんだちぺっ! ヒトじゃないぞそいつっ!」
足の隙間から覗くパシェの目に映ったのは、キぺに腕を引き千切られてなお平然としているジラウだった。
「・・・困った子だね。神像を落としてしまったじゃないか。
乱暴はよくないよキぺ。複雑な組織を再構築できる代わりに脆いんだから。」
にちゃ、と毟られた腕は形を変えて補修される。
落ちくぼんだそれを残念そうに一瞥すると、ジラウは諭すように微笑んだ。
「くっ、体が言うこと利けばあんなヤツっ!」
スナロア警護の失態に苛立つボロウは前へ出ようとするも。
「よしなボロウ。・・・チペ、どういうこったい?
それが・・・失踪したあんたの父ちゃんなのかい?」
形と色が変わってゆく手の中のぶにゅぶにゅを捨てるキぺに問う。
「・・・姿だけは。」
睨めつけるキぺを尻目に、ジラウはいっそう穏やかな笑みを湛える。
「だけじゃないよキぺ。経験も知識も性格も思考の傾向も記憶も、すべてがあるんだ。」
それはまるで「所有している」とでも言いたげだった。「ジラウを持っている」とでも。
「くそっ、このヒナミってのさっきまで何ともなかったじゃねーか・・・・・・ん? 冠名とか言ってなか・・・
ニポっ! シペから離れろっ!」
未だ抵抗をやめないヒナミを羽交い絞めにするダジュボイが最悪のシナリオに気付く。
キぺが「操られ」たらもう、ここにいる者すべての生存自体が奇跡になる。
「ふふ。心配ないよダジュボイさん。
冠名は後付けの飾りでなければ感応性の高い血筋を意味しているだけだから。
ただし、キぺとそちらさんのようなロクリエの「直系」は逆に効果がない。
ふふ、「従う側」ではなく「従わせる側」だからね。」
キぺと誰か他にもいるらしい。
「くっそっ!・・・直系だぁ? ユクジモ人はオレたち一族しかいねーんだぞっ!
ったく、んでオメーはオメーで鎮まれっ!」
キぺにローシェの冠名があることは知っていた。また似た隠れ冠名があることも。
それらは多く [打鉄]屋の屋号のようにひっそりと受け継がれてきたものだ。
ヒナミやミガシの冠名とは扱いが違うことにダジュボイも疑問は持ったものの、ユクジモ人の台王・ロクリエの直系といえばリドミコとロメンの村の一部しかあり得ないはずだった。
「はふん? アタシのことカネ? はっ、冗談じゃないにっ!
おたくなんぞに従うだの従わせるだのと四の五の言われるダイーダ=ローイェじゃないんだなやっ!
ふん、どーせこの暴れん坊だって第八人種とかのせいに決まってるにっ!
・・・お、親風性の葉織布だっちゃ! これは傷の手当てに使えないカネ?」
これ高いんだにー、とピラピラやるダイーダから何も言わずにふんだくるシーヤ。
そして落ち込むダイーダを見つめていたのはダジュボイだ。
ダイーダよりずっと落胆したまなざしで「コイツかよ」と呟きながら。
「おー、とりあえず縫っとくがよー、もうあとは栄養と休息っくらいしかねーぞ。
四苦八苦、ナス麿の熱はどーだ?」
精度の低い装弓がダメージを小さくしたものの下腹を斜めに打ち抜かれている。
しかし毒矢でもない傷にこの発熱というのが異様に思えたようだ。
「はい、さっきからすごい高熱です。
あの、ちょ、えっとノルちゃんっていったかしら? あの・・・あ、でもとりあえず息も乱れてませんし・・・汗・・・汗かいてませんっ!」
ちょっとノルが邪魔だったシクロロンには「気にすんな」の一言で済ませる。
フロラ系の医法にも精通していたシーヤなので発汗を控える体質と、こもって上がる高熱の意味はきちんと理解していた。ただそれでも発熱の度合いが異常だったのだろう。
「属性か。ふふ、懐かしいな。
未だにあのイビツな[七つ属性]図の上に世界があると信じているようだね。」
そう世界の図式を侮蔑するよう吐き捨てるジラウに、この世界を、いま失われようとしている命を汚されたようで、それがニポには気に入らなかった。
「うっさいんだよあんたっ! なにさエラそーにっ!
あんたがユニローグのナニを手にしたんだか知らないけどねっ、チペの力も借りずにこの《膜》を通ったってんなら[七つ属性]の世話になったんじゃないのかいっ!」
ジラウがローシェの血を継いでいないことはナコハのいた仮構帯で聞いている。
となればジニたちより先にいたこの男は《六星巡り》の生き神像を用いたに違いない、そうニポは思う。
「そうだね。確かに生き神像をちゃんと使えばここは通れるはずだよ。
でも、ジニさんが持ってきたコレでは無理だ。
ふふ。焦っていたようだね。馬でも使ったのかな。《六星巡り》は歩いて時間をかけ行う儀式なのに。
じゃないとナリタ菌は正しく活動できない。
せっかくだから教えてあげようか。鉄打ちが保管する「ナリタ菌」、これが神官たちの血に反応して生み出されるのが「カニヱギン」という酵素だ。
そしてこのカニヱギンこそ台王ロクリエが作った「御守り」なんだよ。
「獣化」しても自我を一時的に保つことができるんだ。
自我を失えばただの供物にしかならないからね。」
そうなのかもしれない。
ただ、それよりも大事な問題はどうやってジラウはこの《膜》を抜けたか、だった。
風の神官でなければ六神官の命を犠牲にする《六星巡り》は許されない。できるわけがないのだ。
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