第5話 サカナと苺果の思い出と良い香り
唐突にサカナお姉さんは立ち上がった。隅のほうに置いたバッグからスマホを取りだす。スマホは薄青のケースに天使の羽根の形をしたスマホグリップがついていた。
「テーマカラーの薄青で統一しているんですね?」
辛うじてSNSで得た知識で、サカナお姉さんの恰好が「天使系」と呼ばれるものであることはわかっている。
「キャラに準してるてか……一日の半分をそのキャラとして過ごしていると、本体がそっちに思われてくるんよ……水色天使サカナちゃんが真の姿で、現実のボクは付属物みたいな、ね」
「ネットのやりすぎですよ」
とはいえ、ネットで商売をしているので、ネットから離れることはできないのだが。ネットから離れたらサカナお姉さんはエラ呼吸できなくて呼吸困難で死ぬ。ネットの海で悠々と泳いでいるのがサカナお姉さんなのだ。
いちごみるるちゃんもたぶん、同様に。
「これ見てよ」
見せてくれたのはtiktokの鍵アカの動画だった。
まだ髪が黒くて装いが黒い苺果と、あまり今と変わらないサカナお姉さんが一緒に踊っている動画だった。苺果は振付の覚えが甘く、ところどころ間違っている。間違うたびに笑うので、笑い声が軽やかに響いてくる楽し気な動画だった。
「これは苺果と病んでる人繋がりで出会ったときに撮影したやつ。一年前くらいかな?」
「サカナお姉さんも病んでるんですか?」
「そもそもこんな痛くて苦しい世界で、正常な精神を保っている人のほうが歪だと思わない? 不幸なのが平常で、幸せは一瞬の幻想にすぎない……そんな世界でしょ、ここは」
「厨二の詩……」
「茶化さないでよ~! 愛されないで育つとそういう思考が常に付きまとうんだよ」
サカナお姉さんは少し寂し気に微笑むと、すぐにその微笑みを消した。
ほかの動画を再生する。
苺果がメジコンの箱を両手に持って笑う数十秒の動画、フライパンに乗ったオムライス、伴奏のないわざと下手に歌っている二人の合唱。
「……仲良くしてたんですね、苺果と」
「ポッと出の君に盗られるのが嫌なくらいには仲良くしていたよ」
「僕に絡むのも、苺果を盗られることの嫉妬ですか?」
「……どうかな? どう思う?」
「なかなか苦しい言い訳だと思いますけどね。僕と仲良くするのはよくないですよ」
「んふふ、まあそうかもだけど、本当の理由は教えてあーげない♡」
サカナお姉さんは唇の前に指をあてて、微笑んだ。
アニメキャラっぽい動きだが、美人がやると
「……ボクは台所を片付けてくるからさ、苺果のそばで手でも握っててあげなよ。起きたとき、一番に目に入るのがキミだったら、苺果は嬉しいと思うし。起きるまではいちごみるるちゃんの配信でも勉強しておけー!」
「……わかりました」
イヤホンでいちごみるるちゃんの配信アーカイブを聞きながら、洗濯物を畳むことにした。脱いだものなのか、洗ったあと適当に置いてあるのか、苺果に聞かねばわからないが、臭いからして後者な気がする。
洗濯ものを嗅いだことを苺果が知ったら「キモイ」と突っ込んできそう。苺果はオーバーリアクションでコミカルな顔をするから、そのときはきっと「うげえ」という擬音がつきそうな顔をするだろう。それを想像して、透夜の唇の端が上がった。透夜も自分の表情に気付き、手で頬に触れて、確かめた。
自然に笑うことなんて、いつぶりだろう。
透夜は洗濯物を畳む手を止めて、眠る苺果を見た。
やっぱり早く元気になってもらわなければならない。
◆
苺果が目を覚ましたのは、昼の十二時を過ぎたころだった。
そのころには室内はそれなりにモノが多いものの、最初よりは片付いていた。キッチンはサカナお姉さんの手によって、生ゴミは捨てられて、食器も洗われて、シンクが綺麗になっていた。
窓は開放されて、換気もされている。
「収録あるから、午後は帰らなきゃ。帰る前にコンビニ行って昼飯買ってくるよーん。なんか食べたいものとかある?」
「ありがとうございます。お任せします」
サカナお姉さんが透夜と苺果のためにコンビニに出かけた後、すぐだった。
「…………ん……? お兄ちゃん……? ここどこ……?」
透夜はそばに近寄って、苺果の目の前に、三本、指を突き出した。
「この指何本に見える?」
「あへえ、ばなな!」
「うん、いつもの苺果だな」
「なんでやねん! ボケたらいつでも苺果がツッコむと思うなよ!」
苺果は勢いよく上体を起こした。腕に包帯が巻かれているのと、おそらくはサカナお姉さんが着替えさせた服などを、違和感ありげに確かめている。
「ねーねー喉乾いたあ……、水ちょうだい。あー頭痛い。なんか思い出してきたよ。苺果、メジコンODしたんだよね?」
「そうだよ。OD配信もね」
透夜は苺果のために洗ったばかりのグラスに水を注いで持って行ってあげた。
「ありがとう」
苺果はグラスを受け取り、一気に飲み干す。精神薬は腔内の渇きを覚えるものが多いが、メジコンもそうなのだろうか、と透夜は考える。メジコンODの経験はもちろんない。
苺果が一息ついたのを見計らって、透夜は訊ねる。
「なんでそんなことしたのか理由を訊いてもいい?」
「病んだから。それ以外にある?」
苺果はそう言って透夜を見上げる。澄んだ目だった。
どこか欠けている人しか持ちえない、空恐ろしいほどの綺麗な瞳。
吸い込まれるような黒い目。
苺果が見た目通りの「地雷」だとしても、それでも苺果のことは大切にしたかった。透夜とコミュニケーションをとってくれる貴重な人だから。
初めて生まれた感情がなんなのかわからないけれど、透夜は衝動に任せて喋った。
「僕が力になれるなら、なりたい。苺果を支えたい。……困ってることがあったら話してよ」
苺果は反応に困ったように目を伏せる。
「……ごめんね。お兄ちゃん。ありがとう。苺果はお兄ちゃんがそばにいてくれるだけで嬉しいよ」
苺果はめずらしく、おとなしい笑みを浮かべた。どこか諦観が滲んだような、悲しげな笑みだった。
「僕は苺果のことを知りたい。話せるときが来たら、話してほしいけど、話したくないなら無理には聞かない。ただ一緒にいてくれさえすればいい」
「うん、苺果もそう思う」
透夜はそれ以上なにも言えなくなり、その場に沈黙が降りる。
ガチャッと音がして、「ただいまー」とサカナお姉さんの声がした。
気まずい雰囲気を変えようとしたのか、「おかえり!」と苺果は明るい声で反応した。
扉が開いて、サカナお姉さんが顔を覗かせる。
「あ、苺果、目覚めたの? 大丈夫? 具合悪くない?」
「頭痛はするけど、メジコン飲んだあとはいつもそんなだから。大丈夫だよ。来てくれてありがとーね」
「いや、いつものことサ。スタジオ収録だからお弁当をお届けして、もう行くね。またね~。鍵は元の場所に返しとくから」
「あ、えっと! 弁当代はpaypayで送るね!」
ひらひらとサカナお姉さんは手を振る。
苺果の膝の上にコンビニの袋を置いて、サカナお姉さんは出て行ってしまった。袋の中の弁当は二つある。
牛丼と親子丼と、苺果のためを思っての梅がゆと果物ゼリー。
苺果は特に梅がゆは要らないと言うので、彼女が望むままに牛丼を渡した。
「親子丼は夜食べて。冷蔵庫入れておくから。僕は今日も夜勤だから、そろそろ帰る」
「食べて行かないの……?」
「うん、仕事だから」
「そっか……。ありがとうね、お兄ちゃん」
「苺果は寝たままでいて。鍵閉めたら、ポストに入れとくから」
「……お兄ちゃん、最後にぎゅーってして?」
求められるまま、苺果を抱きしめる。柔らかで細い。苺果は吐いていたというし、お風呂も昨日入ったか定かではないのに、なぜか身体からは良い香りがする。
良い香りがするのは遺伝子的に相性がいい相手らしい。思春期の娘が父親のにおいを嫌がるのは遺伝情報が近いためで、遺伝情報が遠い相手――子供を作るのに良い相手の体臭は「良い」と感じるとか。どこで得たか忘れてしまった知識が透夜の頭をよぎる。
名残惜しいという気持ちはあったが、苺果から体を離す。
「じゃあね」
「うん、また来てね」
そんな会話をして苺果の部屋を出た。
――苺果と自分は似ている。
素直に自らの心の内をさらけ出せないところが似ている。
引き留めたいのに相手を引き留められないところも、寂しくて寄る辺ない気持ちを持っているところも、何も言わなくても透夜には伝わった。
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