第4話 姫野苺果は病んでいる

 透夜は徒歩10分のコンビニで夜勤のアルバイトをしている。平日22時から午前7時までの勤務が主だ。休みは土日で、代わりに大学生の男の子が入る。


 午前2時には一便がくる。内容は中食や一部のデザートにチルド飲料。この店はMATでの検品は省くことになっている。商品を前出ししながら、丁寧に透夜は並べていく。

 一便が終わったあとは、飲料便をウォークインに片づけて、軽く補充作業をする。2時を過ぎると平日は客はほとんど来ない。真っ暗なウォークインで作業している孤独な時間が透夜は仕事のなかでいちばん好きだった。


 それから店内掃除をして、午前4時ごろに休憩に入ると、サカナお姉さんからLINEが来ていた。


 サカナ:やほー。なにしてる?


 透夜:バイトです


 メッセージを送ると、予想外にすぐに既読がついた。


 サカナ:バイトかあ。がんばるんば~


 メッセージとともに、水色天使サカナの美少女キャラクターがポンポンを振っているスタンプが送られてくる。


 廃棄のカレーを温めながら、透夜はやりとりを続けた。

 制服が蒸れて暑いが、脱ぐわけにはいかない。今日の夜勤のシフトは透夜ひとりしかいないため、客が来たらすぐに出れるようにしておかないといけない。休憩時間が確保されていないのはコンビニバイトあるあるだが、ちょっとブラックだ。


 温めたカレーの蓋を開けると、においが広がった。室内にもともと漂っている油物のにおいと混ざると、まあ、くさい。

 この店は十年近く営業していて、換気扇の力が弱い。油物のにおいが、フライヤー近くから事務所にまで充満していた。


 透夜:VTuberって自分のスタンプ使うんですね


 サカナ:えへ。ボクだけかな?


 透夜:サカナお姉さんってなんか浮世離れしたお姉さんみたいなところありますよね


 サカナ:そーう? これで死んでて幽霊だったら面白いんだけどね


 透夜:なんにも面白くありません


 苺果もそうだが、サカナお姉さんも独特の感性をしている。


 サカナ:ねーえ、ウチに遊びに来てよー


 透夜:行きません


 サカナ:えーなんでー


 女の子が泣くスタンプ。

 ここまではお決まりの流れだった。なぜかサカナお姉さんは家に遊びに誘いたがる。ふつう男女逆じゃないかと思う。男性がサカナお姉さんみたいな美人かつ才能のある人を家に招きたがるのはわかるのだが、透夜みたいな非モテ凡人を美人が招きたがる意図がわからない。騙されていないか、僕。


 透夜:苺果がいるんでダメです


 サカナ:苺果がいなければボクと会ってくれるの? 苺果がいなければボクと付き合ってくれるの?


 それは難しい質問だった。苺果がいなければ、サカナお姉さんと出会うことはない。それに苺果に対して微妙な感情を持っているとはいえ、自殺未遂を止めて交流を持ってくれていることに関して、感謝の念がないわけではないのだ。彼氏彼女の交流というのはよくわからないけれど、苺果が望むなら、やりたい。


 苺果を裏切るような真似は絶対にしたくない。


 透夜:その質問はずるいですよ。僕らは苺果があってこその関係でしょう


 サカナ:あ、てか、待って。苺果この時間にサブ垢でツイキャス始めてる


 透夜:見に行ってみます


 なあなあにされてしまった感が否めないが、カレーも食べ終わったし、客もこない。透夜は煙草も吸わないため、あと30分事務所で椅子に座っていることになる。暇なので容易に苺果の配信を見に行くことができた。


「こんみる~。気軽にコメントしていってね」


 ページを開くと、視聴者に挨拶している苺果がいた。不思議なことに画面は暗い。なにも映っていない。


「いまからね~、ブロンを飲みます! え、『OD配信』? そうだよ~。こんな夜更けなら運営の目もね、誤魔化せると思うんですよ。『もう朝』だって? 『無理でしょ』? ひーん、通報しないで~。ODなんて嘘だから、ね、ね? てかいまも20tくらい入れてるんですよ~。あひ~、世界が回ってるぅ」


 一般人は寝ているような時間帯だが、いちごみるるちゃんもいちおうは有名配信者。コメント欄は結構動いていて「やばい」やら「盛り上がってまいりました」やら「やめてください」など、苺果を心配する声があがっている。


 ODでいう単位tとは、tabletの頭文字で、早い話が「何錠」という意味だ。


 LINEの通知がなる。


 サカナ:やばくね? 苺果の家に向かおうか? 始発まであと1時間あるんだけど、どうしよう。タクシーも動いてないでしょ


 透夜:とにかく向かってもらえるならありがたいです


 そう返すのが精いっぱいだった。


 サカナお姉さんの家がどこにあるのかは知らないが、透夜ほどは近くないだろう。


 透夜がここから歩いて行けば、一時間もかからずに苺果の家に行ける。しかし夜勤は交代できる人がいない。第一、店長はおそらくまだ寝ている。七時に出勤してくるのだから、いま起こすわけにはいかない。投げ出すことができない。じりじりとした焦燥感が透夜の心を焼いた。


 苺果は見た目の通り、病んでいる。


 細く白い腕はリスカ・アムカの痕跡でいっぱいだった。生傷ではないことが救いだが、深い傷跡はケロイド状になっており、今後一生治らないことが予想された。


 ――病んでいる苺果が、病んでいる透夜を支えようとするなんて、共依存になるんじゃないか。


 透夜の脳裏にはその考えがあったが、とにかく今は苺果のことが心配だった。


「はろお~。んえ、くまちゃんがいる。ジャンプしないで~。え、私もジャンプしろって? 小銭なんて持ってないよぉ。なんかキラキラしてるう、あ、痛い。転んだ。痛い。てか吐きそう。吐いちゃいたい、うえん……」


 配信音声からは苺果が幻覚をみていることが窺えた。


 透夜:サカナお姉さん、苺果のこと頼みます。もうそろそろ休憩終わるんで


 サカナ:任せて


 言いたいことはあるだろうが、すべてを飲み込んでの返事だと解釈した。


 休憩を終えたあとも、苺果のことばかり考えていた。本当はどうすべきなのだろう。仕事を投げ出して駆けつけるのが正解なのか? でも近くなりすぎたら、なんだか――


「おはよう。伊万里、お疲れ様」


「おはようございます、店長」


 朝7時で店長が来るまで悶々と考え続けていた。レジ点検を主婦のパートスタッフ長谷川さんに任せて、仕事の引継ぎを透夜と店長は事務所で行う。


「今日はなにも問題なかった? あの帰らない浮浪者の人とか来なかった?」


「今日は来ませんでした……」


 店長は黒髪をポニーテールにした30歳の女性だ。身長が170cmあり、透夜よりでかい。真室川朝子まむろがわあさこという名前であることは知っているが、名前で呼ぶことはほとんどない。


「仕事のことではないんですが、実は……朝方に彼女がODしていま気が気でないんです……こういうときどうしたらいいですか?」


 店長には私生活のことでもなにか心配事があれば話せと言われていた。

 だが透夜は自分のことを話したことはない。ワンさんとうまくいっていないことも話していない。私生活について漏らすのも、今回が初めてだった。


「そういうときは電話してきていいよ。出れたら出るし。大学生の伊藤くんも出れるかもしれないし」


「え、いいんですか」


 透夜はパッと顔をあげた。


「うん、大事でしょ。人の命のほうが」


「あ、ありがとうございます……!」


「ていうか今、急いで行かなきゃいけないんじゃない?」


 ちょうどそのとき、長谷川さんから事務所に顔を出して、「レジ点、プラマイ0でした!」と言った。


「ゴ、ゴミ捨てまだです」


「いいよもう退勤切って。やっとくから。行ってあげなよ」


 男前だ。透夜は店長に感謝した。

 7時10分前だったが、退勤をきって店を飛び出した。

 GoogleMapで住所を検索してルートを割り出す。徒歩40分ほどで着くらしい。


 いつも苺果と会うときは「くさい」なんて言われないようにシャワーを浴びて着替えた後だった。そのことが頭を一瞬かすめたが、すぐに吹っ飛んだ。そんなことが気にならないくらい、苺果のことが心配だった。


 苺果とサカナお姉さんにLINEしてみる。苺果には体調を訊ねるメッセージと、サカナお姉さんには苺果がどうなっているかのメッセージ。

 サカナお姉さんから着信があった。


「はい、透夜です。いま仕事が終わりました」


「おつかれさんま。苺果は大丈夫だよ。吐いてるけど、片付けたし、今は寝てるう。家来るの? 場所知ってる?」


「住所は」


「じゃあ来れるね。部屋見てびっくりしないようにね。着いたらまた連絡してちょ」


 終話する。


 目の前には人を殺すような坂道があった。いつもこちらの方向には来ないし、歩くのを嫌がって電車に乗るからここにこんな坂道があることを知らなかった。

 透夜はきゅっと眉間に力をいれて坂道を睨みつけて、覚悟を決めた。


 ◆


 サカナお姉さんのLINEに「着きました」とだけ送ると、すぐに既読がついた。

 オートロックを開錠してもらい、部屋に早速上がる。


「おじゃまします」といちおう断る。


 玄関の扉を開けた時点ですでに「ん?」と思った。


 玄関にはブーツ、地雷服に合わせるためのエナメルの靴、パンプス、ピンクのサンダル、水色のサンダル、ニューバランスの靴、外歩き用の運動靴……などたくさんの靴が並んでいた。こんなに靴いらないだろ! と直感的に思ってしまう。


 どれが苺果のもので、どれがサカナお姉さんのものかわからない。


 隅には砂と埃がものすごく溜まっていて、どれくらい掃除していないのか想像するのが怖い。


 おそるおそる上がる。


 廊下のキッチンスペースのそばに置かれたゴミ箱は、ゴミで溢れている。どことなく生ごみくさい。シンクには汚れたままの食器や料理器具。ハエがわいていないことが救いだ。


「開けますよー」


「あ、透夜君。どうぞー」


 扉を開けると、室内は案の定、もので溢れかえっていた。

 壁際にはクロミの大きなぬいぐるみ、その他サンリオグッズが床中に散らばり、脱いだばかりの形をしている衣類がそのへんいっぱいに置かれている。目につくのは衣類の山と、カーテンレールに掛けられたドンキで売ってそうなコスプレ服。メイドエプロンまである。それらの服が日差しを遮っているせいで朝なのに部屋の中が暗い。


 それ以外にも、なぜか床にはメイドカフェらしき店の女の子と撮影しているチェキやトランプ、ボドゲ、それに付随するであろう細かい道具などが散らばっている。

 テレビボードの上に置かれた、なにかよくわからないピンク色の芳香剤から発せられるにおいと、おそらくは洗濯物のにおいか洗剤のにおいかが混ざって混沌としている。思わず「うっ」と呻いてしまうくらいには臭かった。


 端的に言って、汚部屋だ。


「よくこんなところに住んでられますね」


「すっげえはっきり言うじゃん」


 布団に寝かせた苺果の横に、サカナお姉さんがいた。


 すぐに透夜は苺果の元へ駆け寄った。

 手をとると、死体かと思うほど冷たい。

 苺果は目を覚まさない。安眠しているというわけではない。眉根には力がこもり、顔色が悪い。具合は悪そうだ。


「腕切ってたから包帯巻いた。吐瀉物としゃぶつも片付けた。あと寝かせた。私がしたのはそんなとこ」


「……ありがとうございます」


「起きるのは午後になるかもしれないね。また吐くかもしれない」


「僕がみるので、サカナお姉さんは帰っても大丈夫です。……そ、その、急に頼って申し訳ありませんでした」


「いいよ。初めてじゃないからね」


「そうなんですか」

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