第4回
当時のことを思い出し、それにしても、と憂喜は思う。
なぜあのとき安倍は「残ってない」と言ったのか。
何もない、というのは分かる。飛び降りだし、血の跡とかあるわけもない。もし靴や遺書などが残されていたとしても、とっくに片付けられてしまっている。
何十年も昔の出来事なのだ。なのに「残っている何かを期待して」上がってくる者がいるのか?
(俺みたいに)
まあ、憂喜の場合は何も残っていないのを確認できて、ほっとしたクチだけれども。
憂喜が転入したクラスは、安倍とは違うクラスだった。
田舎を出てからは転勤族の父親に連れられて全国各地を転校すること9回。すっかり転校慣れしていた憂喜にとって、友達をつくったり空気を読んでクラスに溶け込むことは得意だった。
隣の席や前の席の者たちに自分のほうから話しかけ、学校のことについていろいろ教わる。
その中に、安倍のことがあった。
「D組の安倍隼人とは関わらないほうがいい」と初めて聞いたときはいじめかと思ったが、そうじゃないのはすぐ分かった。
無視されているわけでも恐れられているわけでもなく、ただ単純に、みんな彼と深く関わることを避けているという感じがした。
必要がなければ話しかけない。話しかけても最小限。
中学のときに起きた何かに起因するらしかったが、詳しくは訊かなかった。「そっか。教えてくれてありがとう」と礼を言い、それっきり、クラスメイトたちにならって憂喜も安倍に積極的に絡むことはしなかった。
それが処世術というものだ。
安倍も分かっているようで、屋上での出会いがあったからといって憂喜に声をかけてこようとはしなかったし、進級して同じクラス、前後の席になるまで1度も口をきいたことはなかった。
その超然としたつかみどころのない安倍の姿は、憂喜の目には、他の者たちが安倍と関わるのを避けているというよりも、安倍のほうこそ彼らと関わらないと決めているように映っていた。
今もあぐらを組んで黙々と紙パック牛乳を飲んでいるが、その目がはたして憂喜を見ているのか、違うのか、何を考えているのか、皆目分からない。
突き放しているというのとも少し違う、妙な距離感。
がりがりっと頭をかいて、憂喜は考えるのをやめた。
「クラスのやつから伝言。進路票出せってさ。今日提出締め切りだろ」
「……わかった」
返答は変わらず素っ気ない。
「今持ってるなら、代わりに出しといてやるけど?」
との言葉には、首を横に振った。
「そうか」
「じゃあ、確かに伝えたからな」とパイプ階段を下りかけたところで、ざあっと突風が通り過ぎた。
憂喜の前、風にあおられた安倍がめずらしく驚いた様子で前髪を押さえる。だが遅かった。ほんの一瞬あらわとなった安倍の目が金色に見えた気がして、憂喜ははっとなる。
考えるよりも早く、気付けば憂喜は前髪を押さえる安倍の手をつかんで引き剥がし、その目を凝視していた。
「なんだおまえ!」
安倍が攻撃的な声を発する。いきなり腕をつかまれて間近から顔を覗き込まれたりすれば、誰でもそうだろう。
乱れた前髪の隙間から憂喜をにらみ上げてくる目は真っ黒だった。
「あれ? 金色じゃない?」
「はあ!? 金? 俺が外人に見えるか!?」
「いやでもさっき……」
「いいからさっさと手を放せ、コノヤロウ!!」
至近距離で蹴りを入れられそうになって、憂喜はぱっと手を放して後ろに下がった。
「ごめん」と謝ったが、安倍はまだ憤慨している様子だ。
「二度と俺に触るな!」
「だからごめんって」
にっこり笑ってもう一度謝ったが、当然安倍は無視だ。フンと鼻まで鳴らして背を向ける。
大抵のやつならこれで機嫌を直してくれるのに。
憂喜は小さくため息をつきながら周囲に目を泳がせ、そういえばと気付いた。
ここから眺めるのは初めてだった。
いつも——というほど頻繁ではないが——屋上へ来たときは金網のフェンス越しにグラウンドを眺めるか周囲の景色を眺めるかだけで、塔屋に上がろうと思ったことは一度もなかった。
「へえ。2メートルくらい上がるだけでも、結構見え方が違ってくるんだな」
昼食後、グラウンドでバスケや野球に興じる生徒たちの姿があった。窓を開け放した体育館からは自主練しているらしい剣道部や柔道部の荒々しいかけ声が聞こえ、外壁に沿って植樹された木々の木陰で読書する女生徒の姿も見える。
そういったたわいのない日常の光景にリラックスして視線を巡らせていた憂喜は、校門へ視線を移した瞬間ぎくりと身をこわばらせた。
あの少女だ。
氷水を頭からぶちまけられたような気分だった。
一瞬で体じゅうから熱を奪われ、血の凍る思いで身震いする。
顔面蒼白し、校門の霊から視線を外せないでいる憂喜を横目で見て、安倍が頬杖の下でため息をついたのだが、憂喜にそれと気付く余裕はなかった。
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