第8話 僕の答え
段ボールに再び荷物を入れる。
ババアとの戦いが終わり、やっと部屋作りを始めたのに。残念だ。
明日にでも不動産屋さんに行って、引っ越し先を決めよう。
もう、あのおっさんと関わりたくない。
「……」
荷造りする僕の顔を、ババアが覗き込んできた。
お前は何をしてるんだ? そんな顔だ。
僕は苦笑し、語り掛けた。
「……ここを出て行くんだ」
ババアが驚きの表情を向ける。
なんで? どうして? そんな声が聞こえてきそうだった。
「……隣が危ない人だなんて、全然知らなくて……実は僕、子供の頃にああいう人からずっと嫌な目にあってきたんだ。そのおかげで引きこもって、この年まで無職だったんだけど……この家に越してきて、仕事先も見つけて、これから僕の人生が始まるんだ、そう思ってたんだ……でもそんな時、あんたから散々な目にあわされて」
そこまで話すと、ババアは申し訳なさそうな顔で目を伏せた。
「ははっ、それはもういいんだけどね。今はこうして、あんたと共同生活をしてる訳だから。でも……あのおっさんは駄目だ。僕には無理だ。
おっさんの顔を見てるだけで。声を聞くだけで僕は固まってしまう。頭では駄目だと分かっていても、全部言いなりになってしまう。向こうもそれが分かってるんだろうね、最近要求がエスカレートしてて……このままだといずれ、死体の処理をしろとか、犯罪に巻き込まれる恐れだってあるかもしれない。何より僕は、もうあの人と関わり合いたくないんだ。その……怖くて仕方ないから……」
いつの間にか僕は手を止め、うつむいていた。
ぽたり、ぽたりと涙が落ちる。
情けない思いと、おっさんに対する恐怖。それらが脳裏を巡り、肩が震えた。
「……」
ババアは小さく息を吐くと、僕の前から去っていった。
呆れたのかな。悪いね。
でも仕方ないんだ。誰にだって、乗り越えられない壁はあるんだ。
僕がいなくなったら、あんたはまたこの部屋を自由に使える。また誰か入って来ても、あんたなら追い出すことも容易だろう。
あんたが何者か分からなかった頃、本当に怖かったから。
あの演出が出来るなら、これからもここは、あんたの居場所になるよ。
成仏するその日まで、ここで健やかに過ごしてくれ。
深夜。
息苦しさに目が覚めた。
久し振りだな、この感覚。
そう思って目を開けると、ババアが僕にまたがっていた。
時間は2時、丑三つ時だ。
「なんだよ……怖がらせようとしても無駄だよ? それに約束しただろ、お互い干渉しないって。大体僕はもうすぐ出て行くんだし、今更こんなことしなくても」
そう言った僕の前で人差し指を立て、ババアが言葉を遮った。
そして。ゆっくりと立ち上がって。
なんと壁をすり抜けて、隣の部屋に入っていった。
おいおいおいおい! 何するつもり?
これ以上余計なトラブルは御免だよ?
そう思い、慌てて壁に耳を当てた。
その時だった。
「うぎゃあああああああああっ!」
おっさんの絶叫が
壁に耳を当てなくても、十分聞こえる絶叫だ。
ドタバタと大きな物音がする。
部屋を走り回ってる?
「やめろっ! 来るな、来るなああああっ!」
おっさんの絶叫が続く。いやこれ、悲鳴だな。
更にドタバタと音が続き。
やがて。ドアが荒々しく開けられる音と共に、大きな足音が聞こえた。
おっさんが部屋から飛び出した音だった。
「何が……」
しばらくして。
ババアが戻って来た。
何事もなかったような顔をして。
そしていつもの様に部屋の隅に座り、膝を抱えた。
「あんた……何したんだ……」
僕がそう言うと、ババアは親指を立てて僕を見つめ、ニタリと笑った。
「え……」
翌朝。
仕事に向かう僕に、管理人さんが声をかけてきた。
「よかったですね」
「え? 何かあったんですか」
「朝一番に、管理会社に電話があったんです。お隣さん、引っ越しするそうですよ」
「えっ! 本当ですか!」
「間違いありません。理由はよく分かりませんが、とにかくもうあの部屋には住めない、家具とかは近い内に若い者に取りに行かせるとのことでした」
「……」
管理人さんはそう言って笑い、僕の肩を叩いた。
「私も肩の荷が下りたって感じです。あの人のおかげで本当、気苦労が絶えませんでしたから」
その笑顔につられ、僕もいつの間にか笑顔になっていた。
そして管理人さんと一緒に、声をあげて笑った。
怖いって何だろう。
子供の頃は暗闇が怖かった。
幽霊が怖かった。
たくさんのものに恐怖を感じていた。
でも。大人になるにつれて。その感情が薄れていった。
自分の世界がどんどん広がっていって。
未知のものがなくなっていって。
いつの間にか、心から怖いと思えることがなくなっていった。
あるとすれば。
人、だろうか。
僕に危害を加えられる存在。
僕の尊厳を踏みにじり、理不尽な暴言、暴力で屈服させようとする存在。
それはいつの間にか僕にとって、幽霊なんかよりずっと怖いものになっていた。
今も僕の部屋には、あのババアが住んでいる。
いつもと同じ、部屋の隅で膝を抱えて。
酒と塩を供えると、不気味な笑顔を向けてくる。
考えてみたらあの時。
ババアはショックだったのかもしれない。
ある意味、この世界で最凶の存在、幽霊。
そのババアが、僕を最高の演出で追い出そうとした。
でも僕はババアの底を見抜き、反撃した。
それなのに。
取るに足らないただの人間、おっさんに怯え、僕はここから逃げると言った。
自分のことは大丈夫なのに、なんであんな男を怖がる?
そう思ったんだろう。
プライドが傷ついたんだろう。
だからババアは動いた。おっさんを排除すると決めた。
あの夜のおっさんの行動。あれこそが人の本来の反応なんだろう。
怖いものなんて何もない、そんな人間ですら、情けなく声を上げ、腰を抜かしながら逃げていく。
それが幽霊という存在だ。
そう思うとババアに対して、少しだけ申し訳ない気持ちになった。
僕の反応って、ある意味ババアそのものの否定になるんだから。
「ははっ」
酒と塩を供え、僕は笑った。
あの日、親指を立てて見せた笑顔を思い出す。
どうだ見たか、これが私の力だ。そんな声が聞こえて来そうなドヤ顔だった。
でも。言わないけど。
あの時のあんた、可愛かったよ。
これからも僕はここで、ババアと一緒に暮らす。
いつまでなのかは分からない。でも。
ババアが守ってくれたこの場所を、僕も大切に守っていきたい。
そして。
そろそろちゃんと呼ぼうか。そう思った。
以前聞いたことがあった。
「あんたって、名前はあるの?」と。
一瞬固まったババアだったが、身振り手振りで僕に訴えてきた。
どうも花由来の名前らしかった。
パソコンで花の画像を見せると、ババアはこれだとばかりに一輪の花を指差した。
この部屋の同居人。パートナーであり友人。
そして理不尽から守ってくれた恩人に。
僕は敬意を込めて声をかけた。
その言葉に。
ババアは驚いた表情の後で、にっこりと笑った。
「これからもよろしくね、お菊さん」
怖いってなんだろう 栗須帳(くりす・とばり) @kurisutobari
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