第6話 新たな恐怖
膝が震え、口の中がカラカラに乾いてきた。
「あ、あの……僕はその……」
「ああんっ! なんじゃその、風呂の中で屁ぇこいたような声はっ! 聞こえへんわボケッ!」
「ひいいいいっ! すいません!」
「お前はここの住人かって聞いとるんじゃ! そない簡単なことも答えられんのかっ! 舐めとんのかおどれっ!」
「すいませんすいません、舐めてません! ずっとお会いしたかった人にやっと会えたので、少し気が動転しただけです!」
「お会いしたかった人……やとぉ?」
「は、はい、その……僕、少し前この部屋に引っ越ししてきたんです。それでその、引っ越しのご挨拶に何度か伺ったのですが、いつもお留守だったようで」
「そうかそうか、おどれが管理人の
「で、ですからその……毎日お伺いしてたんですが、お忙しいのかお留守の時が多かったようでして」
「ああんっ!」
そっちの世界独特の凄みをきかせ、おっさんは顔に唾がかかるほどの距離で僕にまくしたてた。
「なんでわしが、おどれの都合に合わせて帰ってこなあかんのじゃ! それとも何か? わしは新しい入居者が入ってくるたびに、この部屋でアホ
「ひいいいいっ! そんなことは言ってませんし、思ってもいません!」
「何抜かしとるんじゃボケ! 言葉にせんかて、おどれからはそういう嫌味な気持ちがぷんぷん漂っとるんじゃ! 大体おどれ、わしはおどれの隣に住んどるんやぞ? 何をおいてもまず、わしに挨拶するんが礼儀ちゃうんか
「その通りですその通りです、すいませんすいません!」
おっさんと僕の声は、早朝のマンションにはよく響くようだった。住人がドアを開け、何事かと僕たちを見つめる。しかしその度に、
「おら何見とるんじゃボケッ!
そうおっさんが怒鳴ると慌ててドアを閉めた。
「……まあええ。しばらく留守にしとったんはほんまやしな、今回は見逃したる。次からは気ぃつけるんやぞ」
「も、勿論です! 僕の方こそ、挨拶が遅れてしまって申し訳ありませんでした! 初めての一人暮らしですので、色々ご迷惑をかけることもあると思いますが、その時は遠慮なく言ってください!」
「ああんっ!」
定型文を言ったつもりだけど、それがまたおっさんの
「ご迷惑をかけるだあ? 分かっとるんやったら最初からすんなやボケッ! それとも何か? 初めての一人暮らしやさかい、少々のことは目ぇ
「すいませんすいません、そんなつもりは全くございません!」
僕は慌ててドアを開け、玄関先にずっと置いてた粗品を手にした。
これ以上ここにいたくない、これを渡して話を終わらせて、今後関わらないよう気を付けて生活しよう、そう思った。
「なんやこれは」
「は、はい、その……つまらない物ですが、引っ越しのご挨拶として用意してた物です。これからどうか、よろしくお願いします!」
「なんじゃこれは! おどれ舐めとんのかっ!」
「ひいいいいっ! 舐めてません、舐めてません!」
「これはなんやと聞いとるんじゃ!
「洗剤、洗剤です! 洗濯用の洗剤です!」
「わしは家で洗濯せんのじゃ! こんなもん、クソの役にもたたんのじゃ!」
「ごめんなさいごめんなさい!」
「それとも何か? 洗濯機ぐらい買わんかいって言いたいんか? 何でわしが、こないチンケなもんの為に洗濯機まで買わんとあかんのじゃ!」
「そんなこと思ってません、すいません許してください!」
「こんなクソみたいなマンションに住んどるんや、この程度で十分やろ、感謝せえよって思っとるんやろ!」
「すいませんすいません、すぐ別の物を用意します!」
「当たり前じゃボケッ! 大体、こういうもんは誰にでも使える物にするんが常識やろが! ちょっとは頭使えよおどれ!」
「分かりました、分かりましたのでどうか許してください! 言っていただけたらその商品、すぐにご用意させていただきます!」
「そんなもんぐらいおどれで考えろや! ドタマかち割るぞっ!」
「ひいいいいっ! ごめんなさいごめんなさい!」
そう言って何度も何度も頭を下げると、おっさんは「使えん脳味噌やったら捨ててまえ」そう吐き捨てるように
そして大袈裟にため息を吐くと、「しゃあないのぉ」と頭を掻いた。
「またおかしな物を持って来られても困るからな。今回だけやぞ」
「はい! お願いします!」
「こういう時、喜ばれるんは商品券や。荷物にもならんし、使い道はどうとでもなる。気持ちも伝わる」
「しょ、商品券、ですか……」
「何や、文句あんのか」
「いえ、ございません!」
「大体このチンケな洗剤、なんぼしたんや。こんなもんで済まそうとしとる、その腐った性根も気に入らん。おどれの本気も見えん」
「分かりました! 今すぐコンビニで買ってきますので、少しだけお時間ください!」
「今からか……まあええ、わしはこれから寝るとこや。あんまり遅うなるようやったらおどれ、部屋に火ぃつけたるさかいな」
「10分! 10分だけお願いします!」
「分かった、おどれを信じちゃる。ああそやけどな、わしが寝る時間を割いてまでして待っといたるんや。半端な金額やったら承知せえへんからな」
「は、はい……ちなみに、おいくらぐらいでしたら」
「アホかっ! それぐらいおどれで考えろ! こないに挨拶が遅れたこと、こんな朝っぱらからわしを引き留めた迷惑料、わしの睡眠時間を削る詫び、それを考えて誠意を示せ!」
「分かりました!」
「ああそれから、ちょっと待っとけ」
そう言っておっさんはドアを開け、ゴミ袋を3つ僕の前に放り投げた。
「これ、出しといてくれや」
「あ、でもその……今日はゴミの日では……」
「ああんっ!」
「いえ、何でもないです分かりました! これは僕の方で処分させていただきます!」
「そうやそうや、それでええんや。ご近所はお互い助け合いやからな。ほんだらさっさと買ってこいや。10分やぞ」
「分かりました!」
最敬礼でそう答えると、おっさんは鼻で笑いながら部屋に入っていった。
「……」
ゴミ袋の中。生ゴミは勿論、缶や瓶まで入ってる。このままじゃ出せない。
僕はため息をつき、とりあえず玄関にゴミ袋を入れると鍵を閉め、コンビニに向かった。
商品券、いくらにすればいいんだろう。そう思いながら。
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