第44話
「‥‥どうして」
彼は、全てを持っていると思っていた。
何もかもを手にしていて、手に入れられないものなど1つも無いとーー。
彼の抱える孤独に、心のどこかで気づいていながらも確信が持てずに傍観した。
自分の傷を舐めるのに感けて、たったの一度も歩み寄ろうともせずに、心を取り戻させてくれた彼の心をこれ以上ないくらに踏み躙って。
「‥‥ごめん‥なさい」
自分のしたことの重さを思い知ると、謝らずにはいられなかった。
「‥‥本当に、ごめんなさい」
青白い顔、固く閉じられた瞳、明らかに痩せた体、生きているのかと疑うほどの正気の薄さ。
怪我をしているのはどうやら左足のようで、その箇所からシーツに血の染みが広がっていた。
変わり果てたその姿があまりに痛々しくて、かつてないほどに自分を恨んだ。
果てしない罪悪感が押し寄せて、近づくことはおろか、立ち上がることすらできない。
絶え間なく溢れ落ちる涙。
静寂に包まれた部屋の中に響く嗚咽の音。
「‥‥泣いて、いるのか?」
聞き逃してしまいそうになるくらいの、小さな声だった。
弾かれたように顔を上げると、薄らと時雨の瞳が開いていた。
「時雨っ」
慌てて駆け寄ると、その顔を覗き込んだ。
「こんなに血が出てっ。痛いでしょ、今救急車をっーー」
「‥‥泣くなよ」
「私のことなんてどうだっていいっ」
「夢の中でくらい、笑えよ」
ポツリポツリと呟く時雨には、私の言葉なんて聞こえていなくて。
焦点の合っていない目から、現実と夢の狭間を彷徨っているのだと悟った。
「‥‥お前は、いつも泣いてるな」
力無く伸ばされた手が、頬に添えられる。
その手があまりにも冷たくて、それでいて優しくて、堰を切ったように多くの涙が溢れた。
「ーーごめん‥なさい。ごめんなさい、ごめんなさいっーー」
自分のせいだ。
彼をこんな目に合わせたのは、他ならぬ自分自身だ。
「気付いてあげられなくて、ごめんなさいっーー」
あなたが私を守ってくれていたことにも、あなたの抱える闇にも‥‥何一つ。
再び眠りについたその弱り切った愛しい人の体を掻き抱くと、二度と離さないようにと強く抱き締めた。
◇
銀先生から渡された携帯を返し忘れていたお陰で、無名へと電話することができた。
状況を説明すると、至急私もお世話になった中山先生を呼んでくれた。
田舎の、それも人里離れた場所にあるせいで、来るまでに随分と時間が掛かってしまった。
「鍛えていることもあり、怪我自体は大したことはない。しかし、睡眠不足と栄養失調が酷い。胃の中が空っぽだ」
「‥‥え?」
「随分と長い期間、まともに睡眠や食事を取っていないようだ。持ち前の力量故に彼は怪我をすることはない。だから、今回の怪我の原因はそのせいかと」
「‥‥」
「実を言うと、主治医である私が彼の怪我の治療をしたのはこれで2度目なんだ」
「‥‥」
「昔、彼がまだ幼い時に一度だけ治療をした時のことを今でも鮮明に覚えているよ」
「どうしてですか?」
「‥‥あまりにも惨い有様だったんだ」
「そんなに酷い傷だったんですか?」
「ああ、酷かったよ。手加減もせずに一方的に痛めつけられたような」
「‥‥」
「彼は何せ一之瀬組の若頭だったからな。幼い時から色んな勢力に狙われることがあって、その殆どが未遂に終わったが、一度誘拐されたことがあったんだよ」
「なら、怪我はその時の?」
「確かにそうだが、正確には違う。彼は幼い時から人並みはずれた才覚を持っていたから、誰の力も借りずにたった一人で、それも無傷で逃げ出したんだよ」
「それなら、どうして怪我を?」
「誘拐された罰だと」
「ーーは?」
訳が分からなくて、唖然とする私に、先生は続ける。
「〝天下の一之瀬の若頭でありながら、誘拐されるような失態をした恥晒しだから〟と彼の父親が鉄鎚として、体罰という名の暴力を振るった」
「‥‥何、それ」
「そして、それを傍観していた母親が世間体が悪いからと私に治療させたんだ。まだ片手に収まるような年の子供を」
酷い、なんてものじゃない。
そんな生半可な言葉では、その仕打ちの異常さをあらわすことなどできない。
明らかに行き過ぎている。それなのに当事者は理解する気もなく、自分こそが正しいと疑うことすらしない。
その異常さが、非情さが、気持ち悪くて仕方がなくて吐き気すら覚えた。
「今回のことも、彼の両親は黙認している。任務に同行していた組員から、生死に関わるほどの怪我でないとでも聞いていたのだろう。命を脅かすような怪我だったら、何としてでも連れ帰り治療を受けさせたはずだ。それこそ、麻酔で眠らせたり気絶させたりして」
それはまるで、人というよりも動物の、それも家畜のような扱いのように思えて、不快感から吐き気を催しながら横たわる時雨を見た。
彼ほどの人が、無人の、誰も使っていないような施設の寂しい部屋で、独り痛みに耐えていた理由。
それは、彼の境遇のせいだった。
「狂ってる。人様の家の事情に口を出す義理はないが、実の親子だけに〝タチが悪くてイカれてる〟と思わずにはいられない」
そういう意味では私は、恵まれていたのではないかとすら思った。
私が受けたのはネグレクトという立派な犯罪で、犯罪故にあの人から引き離されることになって、同情する人は少なからずいた。
だけど、時雨は違う。
名称がないからこそ、虐待と判断することができない。
‥‥私からすれば、それも立派な虐待だと思う。
それをおかしいと思わない周囲、躾と信じて疑わない親のその神経に反吐が出る。
◇
先生が帰った後、点滴を打って深い眠りについた時雨の服を着替えさせたり、怪我のせいで発熱して額に浮かんだ汗を拭ったりとしている最中、何度か薄らと瞳を開けた時雨は焦点が合わないながらも私を無表情で見つめていた。
「‥‥時雨?」
「‥‥」
呼び掛けても、何も答えずに再び眠る。
それを何度も繰り返すものだから、もしかして私がいることを確認しているのかと、そんな考えすら浮かんでしまった。
でも、私は分かっていた。
あくまで今は時雨が本調子じゃないから私を拒絶しない、というよりも拒絶するだけの気力がないだけで、元に戻ったらあの冷たい目で再び見てくるであろうことを。
分かっていながら、側を離れることは出来なかった。
シャワーの音がする。
部屋の扉の前で足を止めた私は、深呼吸をしてから中に入った。
近くに何もないから、結構な距離を歩いて1時間に一本しかないバスに乗り、ようやく商店街に行くとこができた。
そこで買ってきた食料を一先ず置き、面倒くさそうに髪を拭く時雨に視線を向ける。
「‥‥は?」
私を視界に入れた時雨は、途端に足を止めてその場で固まると、信じられないものを見るかのような目をしていた。
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