第45話



「冷蔵庫、使わせてもらうね」




その反応が予想できていた私は、敢えて気づかないフリをしたまま買ってきたものを冷蔵庫にしまう。




「食べ物とかスポーツドリンクとか買ってきたから、良かったら食べて」


「‥‥は?」


「シャワーが浴びれたってことは、怪我はもう大丈夫みたいね。一応薬とか包帯はあるから、必要だったら使って」


「‥‥」


「髪、拭いたら?」




流石に自分から近くことは躊躇われる。


状況が理解できない様子の時雨は釈然としないまま雑に髪を拭くと、タオルをソファーの上に置いた。




「‥‥何故、お前がここにいる」




冷え切った目で睨みつけると、唸るような低い声を出した。




「聞くまでもない、か。この場所を知ってるのは一人しかいない」


「‥‥」


「大方、お得意の罪悪感であいつに頼まれて仕方なく来たんだろ」


「‥‥」


「今すぐ出て行け。そして、二度と現れるな」




鋭く睨みつけてくる時雨は、強く私を拒絶していた。



以前の私なら拒絶された時点で、簡単に諦めて見切りをつけていただろう。そうすることで、今まで自己防衛してきたから。けれど、今の私にはそう出来ない理由があった。




「確かに、この場所を教えてくれたのは無名だけど、来ると決めたのは私の意思だから」


「お前に、意思だと?」



どの口が言うのかと、嘲笑を浮かべた。




「笑わせるなよ。そんなものがあったらあんなことにはならなかったはずだ」


「‥‥時雨」


「これ以上の会話は無意味だ。さっさと出て行け」



今の時雨には何を言っても無駄な気がした。私達の間には、修復不可能なほどに深い溝がある。それを埋めることなんて、果たしてできるのだろうか。



それでも、ここで簡単に引き下がるつもりはなかった。



ここにまで連れてきてくれた無名のために、私を送り出してくれた銀先生のために、どれだけ拒絶され傷ついても尚、私を手離そうとしなかった時雨のためにも。




「私ね、お母さんに会ったの」



告げた途端、時雨の表情が消えた。




「どうして産まれてきたのか、どうしてこの世に存在しているのか、何のために、一体誰のために存在しているのか」


「‥‥」


「〝死んでしまえばいい〟って、子供の時にも同じことを言われたことを思い出した。確かに、私が生まれてこなければあの人は幸せになれたのかもしれない」


「それで、唯一の頼みの綱を失ったから俺の元に来たってわけか」


「‥‥違うよ」


「何が違うんだよ。俺をお前の存在意義の為の器にするな」


「‥‥」


「縋るならあいつにしろよ。あいつなら喜んで答えるぞ。現に今回縋ったんだろうが」


「‥‥」


「あいつに抱かれたか?」


「‥‥」


「お前なら、恩を口実にされたら平気で受け入れるだろ。いや、そんなものなくても求められることに飢えてるお前なら断れないはずだ。‥‥まあ、別にどうでもいいがな」


「‥‥」


「失せろ。目障りなんだよ」


「‥‥」


「また同じ目に合いたいのか?」


「‥‥私は」


「来るなっ」




自嘲するように吐き捨てる時雨が痛々しくて思わず近づこうとすれば、強い口調で拒絶され、近づいた分だけ後退されてしまう。





「‥‥俺に、近づくな」



まるで、何かに怯えているような時雨の様子に無名の言葉を思い出した。





『俺を手放した時の若は、再び傷付けてしまう前に、自分から逃げろと言っているように思えました』



彼をここまで傷つけて、追い込んでしまったのは私だ。私さえ現れなければ、時雨が無名を傷付けることも、手放すことも、独りになることもなかっただろう。





「分かった」



私の存在が、これ以上時雨を傷つけてしまうのなら、もうここにいてはいけない。彼に背を向けて、扉の前まで来たところで足を止める。



ーーああ、まただ。



また口実を見つけては、自分が傷つくことを恐れて、歩み寄ろうともせずに側を離れようとしている。そうしないと決めたばかりなのに。



いくら変わろうと努力をしても、長い期間についた癖や性分はそう容易くは変えられない。



それでも、変える努力はしようと思う。



私を、想ってくれる人達のためにも。例え、傷付くだけだとしても、不器用ながらも歩み寄る努力をしよう。




私に嫌われていると思い込んでいる時雨。


あの日、拒絶されたと思っている時雨。


私が離れ、無名を手放し、独りになってしまった時雨。


そんな彼に、何も告げないまま側を離れては同じことの繰り返しだ。



せめてもの罪滅ぼしとして、その誤解を解き彼の行いを肯定するべきだろう。



私に出来ることは、精々そんなことしかないのだから。





「私は時雨のこと、嫌いじゃない」


「‥‥」


「確かに最初は訳が分からなくて、自分の取り巻く環境が急激に変わったことや、それに慣れてしまうことが怖くて拒絶したけれど、時雨自体が嫌だったわけじゃない」


「‥‥」


「犯されそうになった時、自分の過ちだから受け入れようとした。ーーでも、できなかった」




どこまでも臆病で卑怯者の私は、顔を合わせることもなく背中を向けたまま扉の前で独り言のように呟く。



返答がなければ、気配すらない時雨が聞いているのか定かではないけれど、確認するだけの余裕はなかった。



もう二度と、時雨に会えない。



そう思うだけで胸が張り裂けそうで、涙を堪えるのに必死だった。



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