第42話




無名が誰かに電話をすると、目の前に見覚えのある車が停まった。



降りてきたのは、バツの悪そうな顔をした銀先生で、無名が呼んでくれたのかと振り向いた時にはもういなくなってしまっていた。




「‥‥ありがとうございました」



私に悪いと思っているのか、車内だけでなく、家に戻っても黙り込んでいる先生にそう声をかけると眉毛を下げてどこか寂しげに笑う。




「‥‥母に、会わせてくれて」


「余計なことをしたかと思ったが、その様子を見て安心したよ」


「‥‥」


「大丈夫か?」


「‥‥はい」




私を気遣ってか、お風呂の準備をしてくれている先生をぼうっと見ながら、頭の中ではあの人のことばかりを考えていた。


自分と向き合う。


私にとっての彼とは何か。


それを、考えて考えて考えて、思考に耽る。




「‥‥星宮、大丈夫か?」


「ごめんなさい、考え方をしていて」


「‥‥そうか」



心配そうにソファーに座る私の前に屈んで顔を覗き込むと、頭をポンポンと撫でる。



そして、先生は。





「あいつに聞いたみたいだな、一之瀬のことを」




よく分からないことを口にした。





「聞いたって、何を?」



すると、何故か怪訝そうな顔をする先生。




「聞いてないのか?」


「だから、何を」


「‥‥あいつ、まさか俺の口から言わせるつもりだったのか」




釈然としない様子の先生に、私は彼に何かあったのだと悟った。





「あの人に、何が」


「‥‥それは」


「先生、教えてくださいっ」




縋り付くように服を掴むと、懇願するように見上げた。





「‥‥分からない」


「分からないって‥‥」


「俺もあくまで間接的に聞いただけで、詳細は何も知らないんだ。だが、どうもあいつ怪我をしたらしい」


「‥‥怪我?」




息を呑んで目を見開く。



彼が怪我なんて、考えられない。






「無事、なんですか?」



尋ねた声は、震えていた。




「それが、分からないんだよ」


「‥‥どうして」


「身を隠してるのかもしれんが。そもそも、近頃は家に帰ってないみたいだからな」


「‥‥え?」


「あいつ、お前がいなくなってから大学にも家にも姿を見せない」




頭を殴られたような衝撃が走った。



信じられなかった。



無名から、雲隠れすることが度々あったとは聞いていたが。



私がいた時は、そんなこと一度もなかった。



それどころか、どんなに忙しくても明け方には必ず帰ってくるようにしていたくらいだ。





「組のこともずっと疎かにしていたから、その罰として過酷な任務に駆り出されて、その先で怪我をしたと」


「なら、一体今どこにいるんですか?」


「だから、分からないんだよ。俺はあくまで、あいつの親から聞いただけだから」


「親?なら、尚更探したりしないんですか?怪我をしたことは知っているんですよね?それなのに、容体すら分からないってどういうことですか?」




怪我の具合も、居場所さえも知らない。



そんな状態で息子を放っておくなんて、そんなの放任主義だとかそんな次元ではない。




「あいつの家庭内事情は結構複雑なんだよ。組員も、親も、全員が全員、あいつを後継者としてしか見ていない」


「‥‥そんな」


「あいつと親の間には、親子の絆とか、情だとか、そんな気安いものなんてありゃしない。寧ろ、怪我をしたら心配するどころか怒るくらいだぞ」




彼から親の話を聞いたことは一度もない。



それは、ただ単に話す必要がないからだとずっと思っていた。



同じ敷地にいながらも、離れに住んでいる彼。



両親はその代わりに、週に1度、共に食事を取ること、朝には必ず顔を出すことを条件付けたと。




「厄介なのが、親はあくまで親として、後継者である息子を厳しく躾けているつもりだってことさ。だから、誰も周りはそれがおかしいことだとは思わない。‥‥誰一人として、あいつを気遣う奴はいない。これも、一種の虐待みたいなもんだと俺は思う」


「‥‥」


「俺は一之瀬組には世話になったし感謝もしている。だが、それはあくまで俺が他人だったからだ。他人だからこそ、優しくしてもらえた。俺さ、一之瀬の親と食事したこともあるんだが、ゾッとしたよ。だってさ、親は義務的に組内での報告をするだけで、あいつは黙って聞いてるだけなんだよ」


「‥‥」


「会話という会話なんて存在しない。まるで会議でもしてるのかと思うくらいに、肩苦しい話を永遠とするだけだ」


「‥‥」


「全てに無関心で、無表情で。そんなあいつがキレたところを一度だけ見たことがあるが、本当に恐ろしかったよ。無名のような異質なやつを急に連れてきて側に置いたもんだから、気に入らない組員が無名をリンチしたんだ。そして一之瀬は、そいつらを再起不能になるまで殴り続けた。まだ10にも満たない子供が、大の大人を相手にだ」


「‥‥」


「環境が悪かったのか、そもそもそういう性分なのかは知らないが、兎に角あいつは一度関心を持ったものには恐ろしいまでに執着する。それこそ、害をなすまでにな」


「‥‥」


「星宮も、それを身をもって知っただろ?」


「‥‥」


「だから言ったんだ。〝一之瀬の異常なまでの執着心が、いつかお前に害をなしそうで怖い〟と」


「‥‥そんなこと、どうでもいい」


「‥‥星宮」


「誰もあの人を探さないのなら。怪我をしても心配もせずに放っておくのなら、私が彼の元に行きます」




苛立ちすら覚えた先生の話に、頭に血が上り勢いよく立ち上がると、先生が手を掴んで止めてくる。




「待て」


「離してください」


「駄目だ」


「こうしているうちに、もしものことがあったら!」


「駄目だ。行かせられない。こんな夜遅くに、一人で街を彷徨うつもりか。あいつがどこにいるかも分からないんだぞ」


「どうだっていい」


「‥‥お前」


「離してくださいっ」


「‥‥」


「離してって言ってるの!」



焦るあまりヒステリックに叫んでも、先生は絶対に手を離してはくれなかった。




「また、同じことを繰り返すだけだ」


「別にいい」


「その分、お前が傷つくだけだ」


「どうでもいい」


「いい加減にしろ、自分が何を言ってるのか分かっているのかっ!どうしてそう自分を無下にする!お前を思う人がいることが、まだ分からないのか!」


「そんなことは分かってます!」




掴まれた手を振り解くと、先生に向き直った。



そして、頬から伝うものを見ると先生が息を呑む。





「‥‥先生。私、彼と出会うまで泣くことすら出来なかったんです」


「‥‥星宮」


「どんなに苦しくても、悲しくても、耐えられるように心を捨てたから」


「‥‥」


「‥‥でも、ようやく気付きました」


「‥‥」


「私はもうとっくに、心を取り戻していたーー」




感情と心は繋がっている。



心がないなら、胸が引き裂かれるような苦しみも、溢れ出る悲しみも、感じることはない。



いつからかは正確には分からないけれど、彼と出会ってからの私は、怒ったり悲しんだり、幸せを感じることすらもあった。




「あの人があの瞬間に、名前を呼んでくれたから。過去に苦しむ私を、優しく抱きしめて慰めてくれたから、少しずつ心を取り戻していったんです」


「‥‥」


「それなのに私は、それに気付こうともしないまま、彼を拒絶して深く傷付けてしまった」


「‥‥」


「今更遅すぎるって分かってます。彼に合わせる顔がないことも、痛いくらいに分かっています」


「‥‥」


「だから最後に、一度だけ彼に歩み寄ります。それが、せめてもの償いです」


「‥‥」


「こんなのはただの口実です。私は、ただ彼に会いに行く理由が欲しいだけだ」


「‥‥」


「彼が苦しんでいるのなら、誰よりも近くでその苦しみを引き受けたい」


「‥‥」


「だからお願いです。どうか行かせてください。私を気遣ってくださるのは有り難いことですが、これは私のためです」


「‥‥」


「私の、望みです」


「なら、これも俺のためだ」




先生は、私をその懐に閉じ込めると、強く抱きしめた。




「俺が、行かせたくないだけだ」


「‥‥先生」


「行かないでくれっ‥‥」




懇願するように、切ない声色でより強く抱きしめてくる。





「ずっと、ここにいてくれ」


「‥‥」


「共に生きよう」


「‥‥」


「俺が、お前を幸せにしてやる」


「‥‥」


「あいつはヤクザだぞ。そんな場所に自ら進んでいく必要はない」


「‥‥」


「光の当たる場所で、幸せに暮らそう。俺ならお前を悲しませない。苦労もさせない。どんな望みだって叶えてやる」


「‥‥」


「だから頼む。俺を‥‥選んでくれ」


「‥‥」


「好きだ」


「‥‥っ」


「好きなんだ」


「‥‥先生っ」


「俺は、星宮のことが好きなんだ」


「‥‥ごめん、なさい」




私の言葉に、抱きしめる腕が弱まった気がした。




「こんなに沢山、数え切れないほどに助けてくれたのに」


「‥‥」


「何一つ返せなくて、本当にごめんなさい」


「‥‥どうして」


「先生の気持ちに答えることは、できません」


「あいつのお前への感情は、ただの執着心かもしれないぞ。いつかは薄れて、捨てられるかもしれないぞ。それなのに、あいつがいいのか?」


「例え、彼から拒絶されようが、恨まれようが、捨てられるとしても、構いません」


「どうして、そこまで‥‥」


「ただ、側にいられるだけでいいんです」


「何が星宮を、そこまでさせる?」


「彼の、ことがーー」





あの日、言えなかった言葉。



言おうとしたけれど、出てこなかった言葉。



一生、言うことも、言われることもないと思っていた言葉。




『私ね、小夜ちゃんのことーー』


『俺は、星宮がーー』




そうだ。そうだったんだ。胸の中で密かに芽吹き出したこの感情はーー。






「あの人の。時雨の、ことが」




名前を呼んだだけで、胸の中が熱くなる。



『小夜』と私の名前を呼ぶ声が蘇る。



時雨と離れてから、頑なに彼の名前を呼ばないようにしていた理由。



それは全て、彼のことが。






「‥‥き」




会いたい。



声を聞きたい。



私の名前を呼んで欲しい。



その手で、強く抱きしめて欲しい。





「‥‥す‥き」




この想いが叶わないとしても、側にいられるのなら他には何も望まない。







「ーー好き、だからです」




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